災害記念碑

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昭和8年に建てられた大津波記念碑(岩手県宮古市)

災害記念碑(さいがいきねんひ)は、地震津波噴火火災事故といった大規模な災害の実情を後世に伝え残すために、教訓として作られた記念碑である。全国に存在するが、津波被害の多かった三陸海岸に特に多く津波記念碑のみで約200基が存在する。

目次

概要[編集]

災害記念碑は、以下のような目的をもって建立される。

  • 「何年の津波は、ここまで到達し、どれだけの死亡者が出た」等、被害の記録を後の世代の人々に伝える
  • 当該地周辺が特定の災害が起こりやすい地勢であることを警告し、将来起こりうる被害を事前に防ぐ
  • 災害の発生や被害の拡大を防ぐためにすべきこと、してはならないことを周知する
  • 防災や減災、被災者救済に尽力した人々を顕彰する
  • ときに慰霊碑を兼ね、犠牲者の霊を慰める文言が刻まれていることがある

実例[編集]

津波災害[編集]

本項では、災害記念碑のある地点の標高と、海からの距離に注目して、列記した。 1933年昭和8年)の昭和三陸地震の津波による被害を受けた三陸海岸地域では、地震学者の今村明恒の助言により、津波体験の風化を防ぐ啓蒙的手段の一つとして、津波記念碑の建設がなされた。東京朝日新聞社を窓口とする指定義援金がその建設費用に充てられ、約200基の津波記念碑の多くがこうして建てられた[1]

大津浪記念碑(岩手県宮古市)[編集]

大津浪記念碑(おおつなみきねんひ)とは、1933年(昭和8年)の昭和三陸地震による津波の後で、岩手県宮古市重茂姉吉地区に建てられた災害記念碑である。標高約60メートル。

中でも岩手県宮古市の姉吉地区では、1896年明治29年)の明治三陸地震による津波および前述の昭和三陸大津波で二度にわたって集落全滅に近い被害が生じた経験から、「此処より下に家を建てるな」という教訓の碑が建てられた。以後、住民は石碑の教えを守り、坂の上に住宅を建てて生活していた。2011年平成23年)の東日本大震災の際にも大規模な津波が発生したが、津波は石碑より海側で止まり、人的被害は集落外に出ていた4人の行方不明に留まった[2]

早馬神社の津波記念碑(宮城県気仙沼市唐桑町)[編集]

早馬神社(はやまじんじゃ)とは、宮城県気仙沼市唐桑町にある神社。東日本大震災では標高約12メートルの境内に高さ15メートルの津波が襲い、社殿も被害を受けた。1933年(昭和8年)の昭和三陸地震の津波記念碑は流失を逃れる。

東日本大震災復興祈願碑は海を見渡せる神社境内に建立され、石碑の高さ2.6メートル、横幅1.2メートルで、上部は波の形が施されている。高さ2.2mの地点に「大津波浸水高さここまで」と到達点が記され、中央部分には「大津波到達点 子々孫々語り継げ」と刻まれている。

東日本大震災記念碑(宮城県南三陸町戸倉 五十鈴神社)[編集]

東日本大震災記念碑は、宮城県南三陸町戸倉の五十鈴神社にある災害記念碑。標高23メートル。海から400メートル。 2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災による大津波の時、戸倉保育所・戸倉小学校の子供たち・教職員や、地域住民が避難して難を逃れた。津波の中、神社の境内だけがポッカリと島のように浮かび助かった。碑には次のように記されている。「未来の人々へ 地震があったら、この地よりも高いところへ逃げること」

貞観津波碑(宮城県東松島市)[編集]

貞観津波碑(じょうがんつなみひ)とは、宮城県東松島市宮戸島にある石碑。災害記念碑。標高約10メートル。 宮戸島は、日本三景松島の東端にある。貞観地震の津波が、両岸から大津波が押し寄せ、島の中央でぶつかったとの言い伝えがある。その場所には貞観津波碑が建っており、そこより下は危険とされていた。この言い伝えは島民の間に浸透していて、大きな地震が起きると高台に逃げる習慣が身に付いていた。東日本大震災で約1000人の島民は石碑より高台にある市立宮戸小学校などに一斉に避難。津波は浜辺の集落の大半をのみこんだが、石碑の手前でとどまり、犠牲者は数人にとどまった[3]

名取川昭和三陸津波碑(宮城県名取市閖上)[編集]

1933年(昭和8年)3月3日の昭和三陸地震で発生した大津波も東日本大震災の津波と同じく名取川を逆流した。宮城県の仙台市名取市を経て仙台湾にそそぐ名取川河畔に、その津波が到達したことを知らせる碑が立っている。

常福寺津波流失塔(三重県鳥羽市国崎町)[編集]

常福寺津波流失塔(じょうふくじつなみりゅうしつとう)[4]とは、三重県鳥羽市国崎町常福寺にある石碑。災害記念碑。昔から地震津波が度々国崎町を襲っている。

明応地震の津波では、高さは8〜15メートル[5][6]
宝永地震の津波では、高さ不明。
安政東海地震の津波では、高さ22.7メートル[7]

大津集落は明応地震津波で壊滅的な被害を受け、地震後住民は高台に移転し、その後500年間、2011年現在に至るまで低地に戻っていない。漁師は高台から浜に通うのが普通だという。[8]大津集落には、明応地震の津波被害が伝承として伝えられ、宝永地震・安政東海地震の時には、溺死者を最小限に抑える事が出来た。常福寺津波流失塔には安政東海地震の津波では、高さ22.7メートルと記されている。

大地震両川口津浪記の碑(大阪市浪速区[編集]

大正橋東詰にある。1855年安政2年)7月の設置。「嘉永7年(1854年)、6月14日午前零時ごろに大きな地震が発生し津波がおしよせた。被害状況は・・」と具体的に被害状況を述べ「地震が発生したら津波がくることを心得ておき、舟での避難は絶対してはいけない。また建物は壊れ火事になる。なによりも「火の用心」が肝心、津波というのは沖から波が来るだけではなく、岸近くから吹き上がってくることもあり、津波の勢いは、普通の高潮とは違う」と細かい注意を与えたのち「つたない文章であるがここに記録しておくので、心ある人は時々碑文に墨を入れなおし、後世に伝えていってほしい」と書き残す。

松崎の碑(島根県益田市)[編集]

松崎の碑(まつざきのひ)[9]とは、島根県益田市高津町松崎にある石碑。災害記念碑。津波遡上高は推定23メートル。高津町沖の鴨島(現在は水没したと伝えられる)にあった祠の中に安置されていた柿本人麻呂の木像が、万寿地震の津波で流されて、この付近の松林に漂着した。津和野藩第8代藩主亀井矩賢が藩士河田孫兵衛に命じて、この地に石碑を作らせた。[10]

津波境石(熊本県宇城市三角町)[編集]

津波境石(つなみさかいいし)[11]とは、熊本県宇城市三角町大田尾にある石碑。災害記念碑。標高約20メートル。海から内陸へ約250メートル。島原大変肥後迷惑の際、津波がこの地まで遡上した[12]

明和大津波遭難者慰霊之塔(沖縄県石垣市)[編集]

明和大津波遭難者慰霊之塔(石垣島宮良)
明和大津波災害関連諸記録抜粋

明和大津波遭難者慰霊之塔(めいわおおつなみそうなんしゃいれいのとう)は、沖縄県石垣市にある石碑。災害記念碑。八重山地震の大津波による犠牲者を祀った慰霊碑。大津波により、八重山列島では死者・行方不明者9,313名を出した。実に住民の約三分の一にあたる。石垣島宮良村では、遡上高が85.4mと伝えられており[13]、近年の科学的研究によると3-40mと考えられている。

津波災害を伝承する記念碑以外の建造物[編集]

以下は、記念碑ではないが、津波災害を伝承する神社や避難施設等の建造物である。

桜ライン311(岩手県陸前高田市)[編集]

桜ライン311(さくらライン311)[14]とは、岩手県陸前高田市にある認定特定非営利活動法人。東日本大震災による地震津波で、陸前高田市は壊滅的被害を被った。陸前高田市内約170kmに渡る津波の到達ラインに10mおきに桜を植樹し、ラインにそった桜並木を作ることで後世の人々に、津波の恐れがあるときにはその並木より上に避難するよう伝承していくことを活動としている。

みちびき地蔵(宮城県気仙沼市大島)[編集]

みちびき地蔵(みちびきじぞう)とは、宮城県気仙沼市大島にある地蔵。この地蔵を題材にした民話・昔話が存在する。

浪分神社(宮城県仙台市若林区)[編集]

浪分神社(なみわけじんじゃ)とは、宮城県仙台市若林区にある神社である。太平洋より内陸約5.4キロメートルにある。標高約5メートル。

現在の鎮座地は、慶長16年(1611年)の慶長三陸地震に伴い発生した大津波のときに当地を襲った津波が二つに分かれ、その後、水が引いた場所だと伝わる。本殿の下には、浪分神社創建当時の石祠が納められている。

舞台八幡神社(宮城県仙台市太白区)[編集]

舞台八幡神社とは、仙台市太白区長町にある神社。標高約9メートル。太平洋より内陸約8.1キロメートル。慶長三陸地震による津波が名取川広瀬川を遡上したため長町付近が浸水し、蛸が吸い付いた薬師如来像が長町に流れ着いた。神社境内の蛸薬師の本尊は、その薬師如来を祀ったものである[15]慶長三陸地震ではなく、西暦95年の東北太平洋沿岸津波が原因で蛸薬師が流れ着いたという説もある[16]

浪切地蔵(千葉県一宮町)[編集]

浪切地蔵[17]とは、千葉県一宮町東浪見にある地蔵太平洋より内陸に約1.3キロメートル。標高約5メートル。元禄地震の大津波がこの地点まで遡上した。

津波避難丘(千葉県鴨川市)[編集]

津波避難丘(つなみひなんきゅう)とは、千葉県鴨川市前原にある津波避難施設。標高約10メートル。 慶長地震津波・元禄地震津波を経験し、もともと砂丘だった場所を避難丘として盛土・整備された。

立石神社(千葉県富津市)[編集]

立石神社とは、千葉県富津市篠部にある神社。標高約5メートル。海より内陸に約1.6キロメートル。 元禄地震の津波で、石材を積んだ船が流れ着いてここで動けなくなり、積み荷の石材で祠を作った。

大野命山(静岡県袋井市)[編集]

大野命山(おおのいのちやま)とは、静岡県袋井市にある津波避難施設。比高約3.5メートル。 延宝8年の台風の際、高潮のため横須賀藩内では大勢の犠牲者が出た。そのため領民達が避難用に築山を築いた。

中新田命山(静岡県袋井市)[編集]

中新田命山(なかしんでんいのちやま)とは、静岡県袋井市にある津波避難施設。比高約5メートル。 延宝8年の台風の際、高潮のため横須賀藩内では大勢の犠牲者が出た。そのため領民達が避難用に築山を築いた。

佐波神社(静岡県西伊豆町仁科)[編集]

佐波神社(さわじんじゃ)とは、静岡県西伊豆町仁科にある神社。 1498年の明応地震と、1605年の慶長地震の二度に渡り津波に襲われている。 慶長地震の時に神社が被害を受けて、翌年再建された。願栄という僧が、再建の記念の棟札に津波被害の記録を記した。

(現代語訳)戊午(1498年)の津波は寺川の大堰まで。またその後99年して甲辰(1605年)12月16日には垣の内の横縄手まで入った。末世にその心得がありますように。

幕末明治の頃に萩原正平という国学者が現地調査して西伊豆町近辺の津波浸水域を割り出した[18]

明応地震津波は、内陸2km 標高約10メートル。
慶長地震津波は、内陸1.4km 標高7.5メートルまで来た事が判明した。
安政東海地震は、内陸1km 標高4.5メートルまで、津波が来ている[19]
波除け地蔵(福井県敦賀市)[編集]
波除け地蔵の全景
波除け地蔵から、敦賀市内方面の風景

波除け地蔵(なみよけじぞう)[20]とは、福井県敦賀市関峠より少し敦賀市側に下った所にある地蔵。別名、力の地蔵。標高約100メートル。関峠は若狭国越前国の国境である。昔、津波が関峠を越えてこの地蔵の所で止まった[21]

波せき地蔵堂(京都府宮津市)[編集]

波せき地蔵堂とは京都府宮津市大垣にある地蔵堂。標高約40メートル。日本三景天橋立の北側の山中にある、真名井神社の参道傍ら、「真名井神社」と書かれた石柱の後に見える祠が「波せき地蔵堂」である。

大宝元年3月26日(ユリウス暦701年5月8日、グレゴリオ暦701年5月12日)に発生した大宝地震大津波の際、遡上高約40メートルの津波が起こり、この地点まで遡上したとの伝承がある[22]

津波地蔵(高知県高知市)[編集]

津波地蔵(つなみじぞう)とは、高知県高知市仁井田にある地蔵。標高6〜7メートル。宝永地震の津波がこの地点まで遡上した[23]

室岡山(高知県南国市)[編集]

室岡山(むろおかやま)とは、高知県南国市にあった津波避難施設。高さ約15メートル、周囲約500メートルと伝えられている。宝永地震津波・安政南海地震津波の際、住民が数多く避難して助かったと伝えられる。第二次世界大戦中に海軍航空隊飛行場(現高知空港)の滑走路建設の際、解体されて姿を消した。

鷣神社(高知県宿毛市)[編集]

鷣神社(はいたかじんじゃ)とは、高知県宿毛市大島にある神社。本殿への石段には、過去の津波での浸水高を記してある石碑が残っている。

宝永地震の津波では、下から39段目 高さ9.8メートル[24]
安政南海地震の津波では、下から7段目 高さ3.2メートル[24]
昭和南海地震の津波では、石段まで達しなかった。

火山災害[編集]

雲仙岳災害記念碑(長崎県島原市)[編集]

長崎県島原市にある雲仙岳で発生した1991年6月3日の火砕流を記念する碑[25]

桜島爆発記念碑(鹿児島県鹿児島市)[編集]

鹿児島県鹿児島市の鹿児島市立東桜島小学校の敷地内にある桜島大正大噴火を記念する碑。「科学不信の碑」として知られる。

台風・洪水災害[編集]

室戸台風(1934年)、枕崎台風(1945年)、狩野川台風(1958年)などで慰霊碑や復興記念碑として建立された例が見られるが、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風の災害記念碑は、死者が非常に多かったのに加えて被害範囲が大きかったこともあり、東海地方を中心に多く現存する[26]。これらについては当時の浸水高を示したものも見られる[26]

大規模火災[編集]

東京都は江戸時代からたびたび大火に見舞われたため、大火に関連する記念碑や慰霊碑が数多く現存している。特異な碑文の例としては、関東大震災(1923年)の生存者の避難状況を詳述した「避難記念」の碑、当時としては珍しい鉄橋であったために焼失を免れた新大橋で誘導に当たった巡査らを顕彰する「人助け橋のいわれ」碑(ともに中央区日本橋)などがある[27]

脚注[編集]

  1. ^ 山下文男『津波てんでんこ―近代日本の津波史』新日本出版社、2008年ISBN 9784406051149
  2. ^ ここより下に家を建てるな 宮古、集落守った石碑”. 岩手日報 (2011年4月3日). 2011年4月3日閲覧。
  3. ^ 時事通信 2011年4月23日配信
  4. ^ 土木学会中部支部 巨大災害タスクホース現地視察 ~歴史的大津波の爪痕と防災町づくりを訪ねて~(案)(土木学会中部支部)
  5. ^ 明応7年8月25日(1498年9月20日)の明応地震の震害と震度分布。
  6. ^ 『内宮子良館記』
  7. ^ 災害教訓の継承に関する専門調査会「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成17年3月 1854 安政東海地震・安政南海地震」第3章 安政東海地震・安政南海地震の災害教訓例 (PDF)
  8. ^ 日本経済新聞 2011年9月28日朝刊33面首都県経済「地域再生 震災が問う 安心への備え どこまで②集団移住、先人の教訓」。漁師の通いについては常福寺幸谷賢光住職談
  9. ^ 「松崎の碑」の内容を知る (益田市の「高津連理の松」遺跡内)(益田市の歴史・風景体験レビュー)
  10. ^ 加藤芳郎「益田を襲った万寿3年の大津波」 島根県技術士会 平成23年度(2011年度)研究報告
  11. ^ 津波境石(熊本県高等学校教育研究会 地学部会)
  12. ^ 都司嘉宣・日野貴之「寛政4年(1792年)島原半島眉山の崩壊に伴う有明海津波の熊本県側における被害,および沿岸溯上高」 東京大学地震研究所彙報. 第68冊第2号, 1993.9.30, pp. 91-176
  13. ^ 『大波之時各村之形行書』
  14. ^ 桜ライン311(認定特定非営利活動法人 桜ライン311)
  15. ^ 飯沼勇義『仙台平野の歴史津波』 1995年、宝文堂
  16. ^ 飯沼勇義『解き明かされる日本最古の歴史津波』 島影社
  17. ^ 浪切地蔵(消防防災博物館)
  18. ^ 『増訂豆州志稿』
  19. ^ 磯田道史『天災から日本史を読みなおす』
  20. ^ 波よけ地蔵(力の地蔵):津波を止めた地蔵:福井県敦賀市関峠(Kiichi Saito YouTube)
  21. ^ 杉原丈夫編『越前若狭の伝説』(1960年2月発行)
  22. ^ 『続日本紀』 大宝元年3月26日条、『丹後風土記』 加佐郡凡海郷、『上山寺 永代記録』、『橋木縁城寺年代記』
  23. ^ 「歴史資料に基づく四国沿岸域における津波浸水高の評価に関する研究」 修士論文, 1994
  24. ^ a b 村上仁士他「四国における歴史津波(1605慶長・1707宝永・1854安政)の津波高の再検討」自然災害科学 15(1), 39-52, 1996-04-30、日本自然災害学会
  25. ^ 写真特集:雲仙・普賢岳大火砕流 “がまだす”合言葉に復興 毎日新聞、2012年5月2日
  26. ^ a b 昭和34年(1959年)伊勢湾台風に関する石碑・慰霊碑等について”. 消防科学総合センター. 2013年5月21日閲覧。
  27. ^ 関東大震災避難記念碑”. 2017年6月12日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]