大津浪記念碑

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大津浪記念碑(おおつなみきねんひ)とは、大津波の被害を受けた地域の住民が、子孫への警告として設置した記念碑。同様のものは日本各地にあり、津波常襲地帯である三陸海岸で海と接する岩手県内だけで200基を超えるが、本項は有名な岩手県宮古市重茂(おもえ)姉吉(あねよし)地区[1]の石碑について述べる。他の記念碑については「災害記念碑」参照。

岩手県宮古市重茂姉吉地区の石碑[編集]

姉吉集落にある昭和8年大津波記念碑

1933年昭和8年)の昭和三陸地震による津波の後で、岩手県宮古市重茂姉吉地区に建てられた。重茂半島魹ヶ崎の南西約2kmの所にある姉吉漁港から[2]、急坂を800m程上がった海抜約60mの山腹にある。大きさは縦約1.5m、横約50cm。

碑文は「明治29年の津波で、村の生存者はわずか2人、昭和8年の津波では、4人だけだった」と過去の大津波で村民がほとんど全滅した悲惨な状況を伝えたうえで[2]「大津波の悲劇を記憶し、何年たっても用心せよ」と戒め「津波は、ここまで来る。ここから下には、家を作ってはならない」と警告する[2][3]

石碑のある場所からは山と樹木で海は見えないが[4]2011年平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震東日本大震災)による津波は、姉吉漁港がある入り江から集落へ続く川や道沿いに陸側奥深くまで流れ込み[1]、大津浪記念碑の約50m[2][注釈 1]手前にまで迫ったが、石碑の警告どおり上にあった集落までには至らず、建物被害はなかった[3]。また、地震発生時に海岸近くにいた住民も、すぐに自宅に戻って難を逃れた。この事実が報道によって広まり、津波記念碑が改めて注目されるきっかけとなった。

震災後の2012年7月、大津浪記念碑の手前50mに「津波到達地点」を刻まれた碑が建てられた[1]

2014年、岩手県盛岡市の団体職員らにより大津浪記念碑の拓本がとられ、ポストカードやTシャツに印刷されるなどして、津波の危険性を警告する題材として海外を含めて話題となっている[1]。さらに石碑を角度を変えながら何枚も撮影して、画像処理ソフトで分析するデジタル拓本もとられている[4]。これらにより読み取れる文面は以下の通りである。

大津浪記念碑

高き住居は
児孫の(に?は?)和楽
想へ惨禍の
大津浪
此処より下に
家を建てるな

明治廿九年にも
昭和八年も津
浪は此処まで来て
部落は全滅し生
存者僅かに前は二人
後に四人のみ幾歳
經るとも要心あれ

警告の風化[編集]

このような過去の津波に遭遇した先人たちの警告は、時間の経過と共に徐々に忘れ去られ、石碑よりも海側、やがて海岸近くにも家が建てられるようになっていった。こうした状況下で東日本大震災による津波が発生し、再び多数の人命が失われたのである。また姉吉地区の話ではないが、地区によっては「土地を手放したい地主」「一部悪質不動産業者」などが石碑をうとましく(石碑のせいで土地が高く売れず風評被害だと)思い、勝手に海側へ移築してしまった例もあるという。これでは正しい情報は、伝わりにくいといえる。

失敗学を提唱する畑村洋太郎は、「失敗は人に伝わりにくい」「失敗は伝達されていく中で減衰していく」という、失敗情報の持つ性質を見出している。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 約70mと報じている記事もある[5]

出典[編集]

  1. ^ a b c d 【碑(いしぶみ)の記憶】地域存続へ重い戒め 宮古市重茂・姉吉集落岩手日報社×IBC岩手放送)2020年7月16日閲覧
  2. ^ a b c d 此処より下に家建てるな…先人の石碑、集落救う”. 読売新聞 (2011年3月30日). 2012年9月19日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2011年4月10日閲覧。
  3. ^ a b 平成27年版 防災白書 第1部 第1章 第1節 1-5 災害教訓の伝承”. 内閣府(防災担当). 2017年10月16日閲覧。
  4. ^ a b 【サイエンスFocus】歴史を読み解く(上)先人の災害警鐘 風化させず/デジタル拓本*古文書解読アプリ『読売新聞』朝刊2020年5月10日(26面)
  5. ^ 「津波」先人の警鐘生かされたか 東日本大震災”. 河北新報 (2011年4月10日). 2011年4月20日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2011年4月10日閲覧。

参考文献[編集]

  • 畑村洋太郎『失敗学のすすめ』講談社、2000年11月。ISBN 978-4-06-210346-6

関連項目[編集]