増原内奏問題
増原内奏問題(ますはらないそうもんだい)は、1973年(昭和48年)5月に内奏における昭和天皇による日本国の自衛力強化支持発言と当時難航していた防衛2法案(防衛医大設置、防衛庁設置)の野党の反対による国会での成立遅延への疑念発言を記者会見で公表したことで「天皇の政治利用」と批判された政治問題である。名称は、当時の防衛庁長官(現在の防衛大臣に相当)で、批判で辞任することになった増原惠吉に由来する[1][2]。
経緯[編集]
日本は立憲君主制と議院内閣制の下に、戦後の日本国憲法において「天皇は憲法の定める国事行為のみを行い、国政に関する機能を有しない」と規定されているが、戦後の歴代内閣の首相・閣僚が「内奏」(ないそう)において天皇に質問される形で政治的発言に応じる慣行は存在していた。
1973年(昭和48年)5月26日、田中角栄内閣(当時:第2次田中角栄内閣)における防衛庁長官の増原惠吉が昭和天皇に「当面の防衛問題」について内奏した時、昭和天皇は「近隣諸国に比べ自衛力がそんなに大きいとは思えない。国会でなぜ問題になっているのか」と質問した。増原が「仰せの通りです。我が国は専守防衛で、野党に批判されるようなものではありません」と応答すると[1]、昭和天皇は「防衛問題は難しいだろうが、国の守りは大事なので、昔の軍隊は悪い面もあったが、そこ(悪い面)はまねてはいけない。良い面を取り入れてしっかりやって欲しい」と発言した[1][2]。
問題になったのは増原はこの内奏の後に記者会見でこの会話を公表したこと、「防衛二法(防衛庁設置法、自衛隊法)の審議を前に、勇気づけられた」と発言したことであった。天皇との政治的会話を明かすことは、たとえ雑談であっても許されないことだが、当時国会で野党の反対で難航していた防衛2法案(防衛医大設置、自衛隊改組など)の審議に向けて「勇気づけられた」と述べたことから[1]、「現役閣僚が天皇の政治的発言を紹介した」として、内奏の翌々日の5月28日に新聞記事に掲載され、野党側は「天皇の政治利用である」との批判を行い、政治問題化した[1][2]。同年6月7日には、衆議院内閣委員会(第71回国会:特別会)においてこの問題が持ち出される。問題の影響が皇室に及ぶことを回避するため、5月29日に増原は防衛庁長官を辞任した[2](後任には、山中貞則が就任)。
脚注[編集]
- ^ a b c d e “記者会見にみる政治家の器量、過去には国益を損ねたことも”. WEDGE Infinity(ウェッジ) (2018年12月18日). 2022年2月15日閲覧。
- ^ a b c d “亀井氏が天皇陛下との会話漏らす 過去には辞任した閣僚も”. J-CASTニュース (ジェイ・キャスト): p. 2. (2009年12月28日) 2010年11月28日閲覧。