高村坂彦

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高村 坂彦(こうむら さかひこ、1902年明治35年)12月18日 - 1989年平成元年)10月7日)は、日本内務官僚政治家。元衆議院議員自民党)、山口県徳山市長。

次男は数学者お茶の水女子大学名誉教授の高村幸男(こうむら ゆきお、1931年8月13日 - 2009年3月21日)、四男は衆議院議員・元外務大臣高村正彦

経歴[編集]

出生から学生時代まで[編集]

山口県熊毛郡三井村(現光市三井)の農家に生まれる[1]農業高村宇佐吉、キチの四男[2]。父・宇佐吉は大工棟梁でもあり、村会議員もしていた[2]

1917年(大正6年)、三井尋常高等小学校高等科卒業[3]。「おまえは商人になれ」という父親の言いつけに従って厚狭郡船木町にある醤油醸造呉服店を営む蔵重商店の別家に見習い奉公人として住み込む[3]1920年(大正9年)、見習い奉公から独立、厚狭町で叔父との共同事業の形で醤油醸造業を経営、「山高醤油」の名で売り出す[3]。順調に伸びていた「山高醤油」の経営を一年半ほどで叔父に譲り、父や兄たちの反対を押し切ってやめた[4]

上京して東京商工学校(現・埼玉工業大学)の二年に編入[5]。商工学校三年になったところで退学すると、正則英語学校と正則予備校に入学、午前中は英語を、午後は物理、化学、数学、国語を、そして高文受験資格の取得をめざし、夜間の中央大学専門部法科の別科にも入学する[6]1925年(大正14年)9月には専門学校入学者検定試験にパス、中大の別科生から本科生となった[6]1926年(大正15年)7月高文予備試験合格[7]1926年(大正15年)9月高文本試験合格[7]

1927年(昭和2年)中央大学専門部法科卒業[8]

内務官僚として[編集]

内務省に入り、鳥取香川新潟特高課長、内務事務官警察講習所教授、近衛内閣総理大臣秘書官愛媛県部長・警察部長、内務省書記官・国土局総務課長、大阪府警察局長、内務省調査局長等を歴任し、1947年(昭和22年)退官[9]公職追放となる[10]

政治家として[編集]

1955年(昭和30年)衆院議員、1961年(昭和36年)から徳山市長を4期、1976年(昭和51年)から衆院議員を2期[9]1971年(昭和46年)私立徳山大学を設立し、理事長に就任[9]

1989年(平成元年)10月7日死去。

人物像[編集]

徳山市長として[編集]

ふるさと光市[編集]

  • 母校の光市立三井(みい)小学校の校庭に、高村坂彦の書による「道」と記された石碑が建立されている。
  • 三井地区を中心に光市内には高村(こうむら)姓が多い。

家族・親族[編集]

高村家[編集]

山口県熊毛郡三井村(現光市三井)、東京都

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 『政治家人名事典』(1990年、編集・発行 - 日外アソシエーツ)201頁
  • 新訂 政治家人名事典 明治~昭和』(2003年、編集・発行 - 日外アソシエーツ)237頁

脚注[編集]

  1. ^ 安藤輝国激動の世に生きた政治家 高村坂彦伝』346頁
  2. ^ a b c d 安藤輝国『激動の世に生きた政治家 高村坂彦伝』52頁
  3. ^ a b c 安藤輝国『激動の世に生きた政治家 高村坂彦伝』55頁
  4. ^ 安藤輝国『激動の世に生きた政治家 高村坂彦伝』56頁
  5. ^ 安藤輝国『激動の世に生きた政治家 高村坂彦伝』57頁
  6. ^ a b 安藤輝国『激動の世に生きた政治家 高村坂彦伝』58頁
  7. ^ a b 安藤輝国『激動の世に生きた政治家 高村坂彦伝』59頁
  8. ^ 安藤輝国『激動の世に生きた政治家 高村坂彦伝』348頁
  9. ^ a b c 『政治家人名事典』201頁
  10. ^ 公職追放の該当事項は「武徳会愛知県支部副長」。(総理庁官房監査課編 『公職追放に関する覚書該当者名簿』 日比谷政経会、1949年278頁。NDLJP:1276156 
  11. ^ a b 安藤輝国『激動の世に生きた政治家 高村坂彦伝』53頁
  12. ^ a b c d 安藤輝国『激動の世に生きた政治家 高村坂彦伝』61頁
  13. ^ a b 安藤輝国『激動の世に生きた政治家 高村坂彦伝』62頁
先代:
黒神直久
山口県徳山市長
1961 ‐ 1976
次代:
河野通重