杉浦正健

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杉浦 正健
すぎうら せいけん
Seiken Sugiura.jpg
生年月日 (1934-07-26) 1934年7月26日(84歳)
出生地 愛知県矢作町大字東本郷(現・岡崎市東本郷町)
出身校 東京大学経済学部
現職 弁護士
所属政党 自由民主党
称号 旭日大綬章(2017年)

日本の旗 第77代 法務大臣
内閣 第3次小泉改造内閣
在任期間 2005年10月31日 - 2006年9月26日

選挙区旧愛知4区→)
愛知12区
当選回数 6回
在任期間 1986年7月8日 - 1993年6月18日
1996年10月21日 - 2009年7月21日
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杉浦 正健(すぎうら せいけん、1934年7月26日 - )は、日本政治家弁護士自由民主党所属の元衆議院議員(6期)、第77代法務大臣。愛知政治大学院名誉学長[1]全日本社会貢献団体機構会長。

来歴・人物[編集]

愛知県矢作町大字東本郷(現・岡崎市東本郷町)に生まれる[2]。教員だった父の奉職地の名古屋市に移り、愛知県第一師範学校附属国民学校に入学。戦争末期に故郷に疎開、矢作町立矢作南小学校に4年生から編入した[3]岡崎市立矢作中学校を経て、愛知県立岡崎高等学校に入学。高校では仲間とともに哲学研究会を立ち上げた。出隆の『哲学以前』に感銘を受ける[4]

1953年東京大学に入学。駒場寮では委員長をつとめ、寮の歴史研究会に入った。「僕らが入った頃は日共系。『資本論』だとか毛沢東の本とか『レーニン全集』とかにずうっと傾斜していきました」とのちに語っている。経済学部では山田盛太郎のゼミ生となった[5][6]1955年本郷に進むと、社会教育家の穂積五一が主催していた「新星学寮」に入寮。アジア各国からの留学生の世話を始める[7]1956年ハンガリー動乱が勃発。「旧ソ連軍の戦車が市民を抑える姿を見て」社会主義思想から心が離れる[5]

1957年3月、穂積の指導のもと東大アジア学生友好会を結成[7][8]。同年に大学を卒業し川崎製鉄に入社するも、穂積に呼び戻され1年で退職[9]1959年8月の海外技術者研修協会(AOTS)の設立、1960年6月のアジア文化会館の設立などに参画した[7][8]

弁護士から政界へ[編集]

杉浦正健、福田赳夫元首相

川崎製鉄に同期入社し、独身寮で1年起居をともにした同僚の妹と1963年に結婚[10]。結婚相手の父親はゾルゲ事件においてリヒャルト・ゾルゲの官選弁護人をつとめた浅沼澄次であった[注 1]。これが縁となり「跡継ぎ」のような形で34歳から司法試験の勉強を始める[14]1972年、弁護士登録。1982年第一東京弁護士会副会長に就任。

1985年国会議員への転身を考え始め、福田赳夫と第一高等学校時代の親友だった弁理士の谷山輝雄が福田に杉浦を推薦する[15]。しかし、旧愛知4区には福田派の重鎮、中野四郎国土庁長官がいた。義父の浅沼澄次が第一高等学校・東大で同期として親しかったこともあり[16]、福田とは浅からぬ縁があったが、中野の存在はいかんともしがたかった。

そんな中、7月10日に中野が渋谷区の自宅で階段を踏みはずして入院。7月16日に容態が悪化し、翌日、酸素吸入器と人工蘇生器がつけられる[17]。同年10月12日、杉浦は衆院選に向けた事務所を開設[18]10月21日、中野は急性心不全によりこの世を去った。

同年11月6日、第1回後継者選考委員会が開かれるも、後継候補として名前が挙がったのは知立市選出の県議鈴木政二、中野の第一秘書の中原義正、志賀重昂の孫で前特許庁長官の志賀学[19]、安城市選出の県議の杉浦正行の4名であった[20]。ことに後援会最高顧問の鈴木熊次郎(中日本鋳工株式会社会長)は杉浦正行を強く推していた[21]。岡崎市長の中根鎭夫は近畿財務局総務部長の谷川憲三の擁立に動いていたが失敗に終わっている[22]12月19日の幹部総会において、稲垣実男の選挙参謀である杉浦正行が候補から脱落。さらに1986年1月、岡崎市出身の志賀が候補から脱落。2月2日、岡崎は福田派の市議が5人しかいなかったが、自民党岡崎支部は杉浦正健の推薦を決定。2月6日、福田派幹部会で鈴木政二が中野の後継者に内定する。ところがその8日後に鈴木は内定を返上。このとき福田赳夫は鈴木熊次郎ら幹部の面々を東京に招き、「杉浦君は必ずものになる。杉浦君を頼む」と両手をついて頭を下げたと言われている[12]安倍晋太郎の後押しもあり[注 2]3月19日、ついに杉浦が後継者に内定した[25]。選挙の軍資金として杉浦は3億円を用意した。自己資金は預金と援助のほか東京に持っていたマンションを売り払って2億円。残りは家を担保に銀行から5千万円、弁護士仲間から「有る時払い」で5千万円、それぞれ借りた[26]

衆議院議員に初当選[編集]

1986年6月2日衆議院解散永田安太郎以来31年ぶりの地元保守系代議士の誕生を目指す岡崎市では、かつて稲垣実男派の県議であった中根鎭夫市長はじめ[注 3]、自民系市議のうち一人を除いた全員が杉浦の支援に回った[22][29]7月6日総選挙において、旧愛知4区順位3位で初当選した[注 4]。中野の秘書の中原義正は無所属で出馬したが落選した。

1988年の岡崎市長選は、前年の葵博で市制70周年周年記念事業事務局長として手腕をふるった石原武建設部長が中根市長の3選阻止に立ち上がった[30]。「骨肉の争い」と評されたこの年の市長選において、自民党岡崎市支部長の柴田尚道前県議は石原を支持し、保守系市議は自民クラブの推す中根派と市政クラブの推す石原派に真っ二つに割れた[31]。保守勢力のまとめ役となるべき杉浦は中根の支持に回り、稲垣実男も中根を支援。これに対し浦野烋興が石原を支援したため、自民党派閥の代理戦争の様相も示した[32]。岡崎市選出の自民党県議も二つに分かれ、柴田紘一は中根につき、内田康宏は石原についた[33]7月31日、中根は3選を果たしたものの、石原を支持した旧中野四郎派の人々が杉浦から離れ、のちの現金買収事件を生む遠因となった[34]

同年9月、武村正義鳩山由紀夫らと共に政策勉強会「ユートピア政治研究会」を結成[26]

再選、選挙違反事件[編集]

1990年2月18日に行われた総選挙で再選。ところが当選直後、杉浦の票の取りまとめに関する現金買収事件が発覚した。

杉浦の実弟は1986年の総選挙後に兄の公設第一秘書となり、その年の清和会の忘年会で先輩秘書から裏金づくりを教えられる。自身の給料やボーナス、就職斡旋の謝礼金などを3年がかりでこつこつと貯め、議員会館の机の引き出しに1,300万円を蓄えた[35][36]。実弟と岡崎高校時代の同窓生で、地元後援会を預かる事務局長の鈴木康夫は1989年11月頃、岡崎市議の間で「杉浦はケチで面倒見が悪い」との悪評が流れているのを聞き、買収工作を計画[37]。鈴木は実弟から1,300万円を受け取り、1989年12月中旬から下旬にかけ、保守系市議に対し一人当たり30万円または50万円の現金を配って歩いた[38]。すぐに突き返した議員も複数いたが[注 5]、金を受け取った市議20人は洋服代や娘の結婚資金、借金返済、自身の後援会幹部への歳暮代などに充てた。集票活動に使った者は一人もいなかった[37][41]

同年2月22日から3月19日にかけて、被買収の疑いで市議13人が逮捕され、市議7人が書類送検された[42]9月25日までに17人の市議が辞職し[43]11月4日にその補選が行われた(翌1991年にさらに2人辞職)[注 6]。「市長選のしこりで杉浦から去って行った初当選時のベテラン選対連中が、もしそのまま残っていたら、こんな素人選挙はしなかったろうに」と当時の関係者は述べている[34]。岡崎地区選対の実質的な責任者を務めたのは前市議会議長の河澄亨であった[50]。河澄は前回杉浦の擁立に尽力した反河澄派の市議らを選対中枢部から除外するとともに陣頭指揮に立った[注 7]。そのため市議らの反発は強く、選対のぎくしゃくした関係を修復することを目的として現金がばらまかれたとも言われる[55]

実の弟が逮捕されたにもかかわらず杉浦は連座制の適用を受けなかった。連座制を規定する公職選挙法251条の2は「公職の候補者又は公職の候補者となろうとする者」を対象としているが、改正前の事件当時は「公職の候補者」とのみ記されていた。また、この言葉を字義どおりに解釈する最高裁判所昭和35年2月23日判決があったことから、買収工作時点で杉浦は「公職の候補者」に当たらず、丹羽兵助と同様に起訴を免れた[56]

上記事件の影響で1993年7月の総選挙は落選。

1994年3月4日政治改革四法が国会で可決され、小選挙区比例代表並立制が導入される。現職の稲垣実男と前職の杉浦はともに愛知12区(岡崎市、西尾市、旧幡豆郡額田郡)からの立候補を希望していたが、1995年11月24日、両者は自民党本部で白川勝彦総務局長を交えて会談。杉浦が小選挙区から出馬し、稲垣が比例東海ブロック単独に回ることで合意がなされた[57]

1996年10月の総選挙で返り咲く。

2000年6月25日第42回総選挙が行われ4期目の当選。同年8月5日、総選挙で公明党保守党との選挙協力に失敗した責任をとり、自民党愛知県連会長の村田敬次郎が辞任[58]9月1日、村田の後任として党県連会長に就任した[59]

総選挙直後の6月28日、岡崎市においては中根鎭夫市長が6選出馬の意向を明らかにした[60]。杉浦は先の総選挙で連日中根の応援を受けており、この時点で自民系市議の大半は中根に推薦状を出していた[61]。これに反発したのが青山秋男県議(自民党岡崎支部長)と柴田紘一県議(同党)であった。「5期でやめると言ったはずではないか」。二人は中根に直接会い「どなたか市長さんの推薦される方を出して下さい。私達は応援しますから」と説得にかかるが、「各種団体から多くの出馬要請を受けている以上、今さらやめるわけにはいかない」というのが中根の返事であった。反中根陣営は経済界を巻き込んで6選阻止に向けて動き始める[62][63]。さらに7月5日、河澄亨市議が市長選の推薦依頼を自民党に提出[64]。杉浦は7月23日までに候補者一本化の調整を行うこととなっていたが、7月19日、中根は連合愛知三河中地域協議会と政策協定を結び、推薦を受けたことを発表。青山と柴田は7月21日、岡崎商工会議所会頭ら財界関係者と協力して候補者擁立のための団体「新世紀の岡崎市政をつくる会」を発足させた[61]。7月26日、同団体は全会一致で柴田の推薦を決め、杉浦も柴田支援を表明した[65]。結局、自民党はいずれの候補者に対しても推薦を出さず、9月10日に行われた市長選で柴田紘一が初当選を果たした。保守3分裂という異例の事態となったことに対し、「もっと早くから収めればこんなことにはならなかった」と杉浦の調整力不足を非難する声も上がった[66]

2001年4月14日、杉浦の発案による愛知政治大学院が開校。同大学院の学長に就任[67]

2003年11月の総選挙で5期目の当選。しかし愛知県下の候補者がのきなみ敗北したため、自民党県連会長を引責辞任[68]

2005年9月の総選挙で6期目の当選。

法務大臣に就任[編集]

2005年10月31日に発足した第3次小泉改造内閣では法務大臣を務めた。自民党では安倍派→三塚派→森派→町村派に属した。森派では小泉純一郎の側近中の側近[69]といわれており、小泉の引退後は中川秀直の側近とされていた。

2009年8月の総選挙民主党中根康浩に敗れる。同年11月17日、政界引退を正式に表明[70]

2012年6月12日、岡崎市名誉市民に推挙された[71]2017年4月29日の春の叙勲で、旭日大綬章を受章[72]

選挙の記録[編集]

執行日 選挙 選挙区 当落
1986年7月6日 第38回 旧愛知4区
1990年2月18日 第39回 旧愛知4区
1993年7月18日 第40回 旧愛知4区
1996年10月20日 第41回 愛知12区
2000年6月25日 第42回 愛知12区
2003年11月9日 第43回 愛知12区
2005年9月11日 第44回 愛知12区
2009年8月30日 第45回 愛知12区

役職[編集]

発言[編集]

機密費流用事件[編集]

外務副大臣に就任した2001年パラオ大使館の会計担当職員が公金を不正流用し、1年間の停職処分を受けていたことを外務省が隠蔽していた問題について、記者会見で「職員の将来を思い、武士の情け、人情で了解した」と発言し、公表しないよう要請した事務当局の意向を受け入れたことを認めた。さらに「隠蔽という言葉は不適当だ。公表しないことをもって、隠蔽とは言えない」と語るとともに、今後、同様の不祥事が発覚した場合も「(公表は)ケース・バイ・ケースだと思う」と発言した。

北朝鮮拉致事件[編集]

内閣官房副長官在任中の2004年5月30日北朝鮮による拉致被害者曽我ひとみと北朝鮮に残る家族との再会が果たせぬままであることに関し、国防委員長金正日からの「北京での再会」提案を曽我が容認したとする主旨の発言をしたが、曽我からは「北京以外で再会したい」との声明が出された。

元慰安婦を訪問[編集]

2011年2月13日、韓国のナヌムの家を訪問し、慰安婦被害女性らを慰労した。また、韓国の金成浩元法務部長官と「韓日両国の元法相が民間レベルで歴史の痛切な現場を訪れ、慰安婦被害女性の実情を把握し、痛みを分かち合う」ため、慰安婦歴史館などにも足を運んだ[74]。「会って被害を確認したかった。(見聞きしたことは)日本に帰って知らせたい」、「若者たちに正しい歴史が伝えられることを望んでいる」とコメントした[75]

死刑執行問題[編集]

弁護士出身で、また死刑制度に反対している真宗大谷派の門徒であることから、2005年の法務大臣就任時に「死刑執行のサインをしない」と発言した(1時間後に撤回)。法務大臣在任中の2006年9月にも法務省側から提示された死刑執行命令書への署名を拒み、小泉純一郎の自由民主党総裁任期満了に伴う内閣総辞職の同月26日まで死刑は執行されなかった。1993年に後藤田正晴が法務大臣として死刑執行を再開して以降、死刑執行命令書に署名しないまま退任した法務大臣としては最長在任記録である。

杉浦は死刑執行命令書に署名しなかったことついて、「死刑反対論者ではないが、信条に従った」と述べている[69]。また死刑制度については「国際社会で、大きな流れでは廃止の方向に向かっている。終身刑の導入をはじめ、セットにならないといけない」と述べている[69]

なお、刑事訴訟法第475条は、法務大臣は判決確定から6ヶ月以内に死刑執行命令を発令するよう規定しているが、事実上死文化している。

代用監獄問題[編集]

逮捕された被疑者が送検後、検察官の管理下にあっても引き続き警察の留置場に留め置かれている代用監獄問題で法相として改善を表明した。2006年4月12日の衆議院法務委員会で「正直言って、私も、先進国であるとは言えないんじゃないかというふうに思います」と法務大臣として答弁した。

ライブドア[編集]

ライブドア証券取引法違反再発防止策の作成に現職検察官検事法科大学院教授)が助言していた問題に対し、2006年2月28日、杉浦は「法的には問題ないが、好ましくはない。検事という身分はわきまえてもらわないと」と批判した。

2006年4月27日、前ライブドア社長堀江貴文保釈を受け、杉浦は「(保釈直後の)あの姿を見たら、再起してもらえるんじゃないかという印象を受けた」「元気そうだ。本を(拘置所で)200冊も読んだんでしょ。すごいね。まだ若いし、裁判をきちっとやってほしい」と発言した[要出典]

文仁親王妃紀子の出産[編集]

2006年9月6日文仁親王妃紀子の出産について、「男子が誕生されるのを期待していますけどね。ご無事であることを祈っています」と前日の記者会見にて述べた。宮内庁長官羽毛田信吾は、「出産を控えた妃殿下の気持ちを考えると、軽々におっしゃるのはいかがなものか」とする遺憾の意を宮内庁長官秘書官を通じて杉浦に伝えたことを、9月12日の定例記者会見で発表した。

少年法[編集]

2006年8月28日に発生した山口女子高専生殺害事件で、容疑者とされ行方不明だった19歳の男子学生の実名と写真を一部の週刊誌が掲載したことについて、9月8日に「少年法の関係で事実関係について調査し対応を検討している。いずれ報告があると思うので、そのうえで対応を決めたい」と述べた。また、行方不明の男子学生が自殺体で発見されたあとの実名報道には「表現の自由ということはあるが、少年法の趣旨や少年の家族のことも考えると、プライバシーとの関係で問題がないのかどうかと問われると、ないとも言えない感じがする。難しい問題なので事実関係をよく調べて対応を決めたい」と述べた。 本人は衆議院法務委員長を務めていた当時、厳罰化による少年犯罪の抑止を盛り込んだ少年法の改正を手掛けている[要出典]

エピソード[編集]

  • 穂積五一を「最大の人生の恩師」と呼ぶ[76]。穂積の影響を受け、東大アジア学生友好会、アジア文化会館、通産省所管の海外技術者研修協会(AOTS)などの設立に関わった[7][8]
  • 1986年に初当選した清和会所属の尾形智矩は1期しか衆議院議員を務めなかったが、杉浦と尾形は、尾形が亡くなる2008年まで親しい間柄だった。
  • 児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律の提案者で、「買春」を初めて「かいしゅん」と読んだ人物でもある[77]
  • 2012年8月、元総務官僚の重徳和彦に向かって「『古い自民党でなく新しい政治を作るんだ』と堂々と出馬すればいい。自分が重徳君と同じ歳だったら同じ行動をとっていただろう」と述べ、次期衆院選への出馬を促した[78]。同年12月に行われた第46回衆議院議員総選挙では自民党公認の青山周平の選対事務長を務めた[79]。同じ愛知12区で日本維新の会から出馬した重徳は青山に敗れるが、比例復活で当選した。

主な所属団体・議員連盟[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 杉浦の義父の浅沼澄次は1902年6月3日、東京府八丈島に生まれた。1931年に弁護士登録し、ゾルゲ事件に関わったほか、昭和電工事件日野原節三の主任弁護人も務めた[11]第一高等学校・東京帝国大学時代に福田赳夫と親友同士であったことが杉浦の人生を決定づけた[12]。1977年10月10日没[13]
  2. ^ 1956年初夏、杉浦はアジア人留学生への資金援助を請うため、当時自民党幹事長だった岸信介の事務所を訪れた。このとき事務所で応対したのが岸の長女の夫の安倍晋太郎であった。同年12月23日、石橋湛山内閣外務大臣として岸が入閣すると、安倍は毎日新聞社を退職し、外務大臣秘書官となって岸に仕えた。杉浦は以後もたびたび岸のもとを訪れるが、それに伴い秘書官の安倍との交流も始まった。1958年、安倍は衆議院議員に初当選。杉浦は海外技術者研修協会の補助金獲得のため、毎年予算時期になると安倍の世話になったという[12][23]。安倍が領袖の福田とともに杉浦を中野四郎の後継として推したのはこうした経緯があったからであった[24]
  3. ^ 中根鎭夫は1925年4月5日、額田郡常磐村大字大柳(現・岡崎市大柳町)に大山家の長男として生まれた。奥殿村(現・岡崎市奥殿町)の中根家の養子となるも、8歳のときに養父と死別した。1975年、県議に初当選。1976年に稲垣実男第34回衆議院議員総選挙に立候補した折は岡崎・額田地区稲垣後援会会長として稲垣を支援した[27]中野四郎と岡崎市長の内田喜久が決裂した1980年1月頃、中野は、中根と柴田尚道の両県議を額田町(現・岡崎市中金町)の料理屋に呼び出し、中根に向かって「君が市長をやれ」と告げた。同年6月30日、公職選挙法違反容疑で逮捕された内田が辞職。8月の市長選で中根は初当選した。2018年1月3日、老衰のため死去。享年92[28]
  4. ^ 1986年の初当選時の同期には鳩山由紀夫斉藤斗志二三原朝彦村井仁逢沢一郎金子一義武村正義園田博之中山成彬新井将敬石破茂笹川堯武部勤井出正一村上誠一郎などがいる。
  5. ^ さかのぼること10年前。1980年7月13日、伊藤文治市議は第36回衆議院議員総選挙にからみ被買収容疑で逮捕された。拘置45日。二年生議員の伊藤は買収の金だとは思いもよらず「活動費」と言われて疑問もなく受け取った。以来「選挙がらみの金は一切手を出さない」と決めた。鈴木康夫の訪問を受けた伊藤は、鈴木の手にあるものが現金だとひと目で分かった。しかし伊藤のように突き返した者はわずかで、ほとんどの市議は封筒とカズノコを暮れの挨拶程度のものと解釈し、そのまま受け取った[39][40]。「上からきたものを断ったら『かわいくないやつだ』と、にらまれ、次の市議選で対抗馬を立てられ、つぶされる。もらうより、返す方がよほど後が怖い」。事件の発覚後、市議の多くはこう口をそろえた[34]
  6. ^ 1990年の選挙違反事件において、自民系市議会会派「自由民主クラブ」の議員24人のうち、起訴された議員は20人に及んだ。11月の補欠選挙後、中根康浩、中根勝美、八田二郎の3人に対する辞職勧告の請願が議会に提出される。同請願は12月定例会でも1991年の3月定例会でも不採択となったが[44][45]、検察は1991年9月4日、中根康浩と中根勝美に対し「両被告は現金を受け取ったことを弁解しており、反省していない」として懲役10月、追徴金30万円を求刑した[46]。中根康浩は判決が下る前の8月16日に辞職し、中根勝美は一審の有罪判決後の12月20日に辞職した[47][48][49]
  7. ^ 河澄亨は市水道局職員を経て、1979年に岡崎市議会議員に初当選した。会派「自民クラブ」に所属し内田喜久市政を支えるも、1980年の第36回衆議院議員総選挙では解散直後、内田が擁立した長男康宏の陣営から浦野烋興に寝返った[51][52]。1990年の総選挙では杉浦の岡崎地区選対の実質的な責任者を務めたが、同年2月25日、事務局長の鈴木康夫から50万円を受け取った容疑で他の市議とともに逮捕された[53]。河澄は1992年の市議選で再び当選。市長選落選後の2001年9月26日、市街化調整区域における家電製品卸販売会社の施設建設をめぐって、あっせん収賄容疑で逮捕された[54]

出典[編集]

  1. ^ 役員一覧 | 愛知政治大学院
  2. ^ あの戦争は何だったのか』 221頁。
  3. ^ あの戦争は何だったのか』 86頁。
  4. ^ あの戦争は何だったのか』 213頁。
  5. ^ a b 伊藤智章 (2018年4月13日). “語り継ぐ戦争 覆った教育 父の痛恨”. 朝日新聞. http://www.asahi.com/area/aichi/articles/MTW20180413241350001.html 2018年5月6日閲覧。 
  6. ^ あの戦争は何だったのか』 214頁。
  7. ^ a b c d 日経新聞主催「アジアの未来」 杉浦副大臣講演 平成13年6月7日 外務省
  8. ^ a b c 沿革|公益財団法人 アジア学生文化協会
  9. ^ 和して同ぜず―杉浦正健対談集』 366-367頁。
  10. ^ 『偃蹇 浅沼澄次』 浅沼澄次先生追悼録刊行実行委員会、1980年10月10日、568頁。
  11. ^ 和して同ぜず―杉浦正健対談集』 381頁。
  12. ^ a b c 和して同ぜず―杉浦正健対談集』 382-383頁。
  13. ^ 浅沼澄次略年譜 | 浅沼・杉浦法律事務所
  14. ^ あの戦争は何だったのか』 217頁。
  15. ^ 和して同ぜず―杉浦正健対談集』 47-48頁。
  16. ^ あの戦争は何だったのか』 135頁。
  17. ^ 朝日新聞』1987年4月2日、東海総合面。
  18. ^ 『朝日新聞』1987年4月22日、東海総合面。
  19. ^ 『朝日新聞』1987年4月1日、東海総合面。
  20. ^ 『朝日新聞』1987年4月11日、4月14日、東海総合面。
  21. ^ 『朝日新聞』1987年4月7日、東海総合面。
  22. ^ a b 『朝日新聞』1987年4月23日、東海総合面。
  23. ^ 和して同ぜず―杉浦正健対談集』 21-22頁。
  24. ^ 『朝日新聞』1987年4月17日、東海総合面。
  25. ^ 『朝日新聞』1987年4月25日、東海総合面。
  26. ^ a b 中日新聞』1989年1月29日付朝刊、1面、「カネと政治家 疲弊を切る (1) “1年生”でも経費1億円」。
  27. ^ 東海新聞』1976年11月24日、1面、「総選挙事務所めぐり (4) 稲垣候補 自新」。
  28. ^ 森田真奈子「頑固な『へそ曲がり市長』 岡崎の関係者、故中根さんしのぶ」 『中日新聞』2018年1月5日付朝刊、西三河版、19面。
  29. ^ 『中日新聞』1990年2月23日付朝刊、31面。
  30. ^ 東海愛知新聞』1988年3月4日、1面、「岡崎市長選 石原氏が出馬表明 自民党支部に推薦願 中根市長も申し入れ」。
  31. ^ 『中日新聞』1990年4月5日付朝刊、30面、「追跡 票とカネ 第一部、買収の現場から (3) 政争土壌 十年一日のお家騒動」。
  32. ^ 『中日新聞』1988年8月1日付朝刊、1面、「岡崎市長に中根氏 石原氏に2万票差で3選」。
  33. ^ 『東海愛知新聞』1988年8月1日、1面、「岡崎市長に中根氏3選 石原氏に2万票の差 現職の強み発揮 投票率は53%と低調」。
  34. ^ a b c 『中日新聞』1990年2月26日付朝刊、30面、「汚れた集票 緊急レポート 義理と人情のタテ社会 懲りない面々、また買収劇」。
  35. ^ 『中日新聞』1990年4月16日付夕刊、13面、「岡崎6市議被買収認める 汚れた集票生々しく 名地裁初公判 杉浦氏派違反」。
  36. ^ 『中日新聞』1990年4月27日付夕刊、17面、「買収の趣旨は否認 選挙違反 杉浦氏実弟の初公判 名地裁」。
  37. ^ a b 『中日新聞』1990年4月17日付朝刊、26面、「追跡 票とカネ 杉浦氏派違反 岡崎6市議 洋服代や借金返済に 受領の金、集票に使わず 検察冒陳」。
  38. ^ 『中日新聞』1990年4月24日付朝刊、27面、「杉浦氏派鈴木被告の初公判 市議買収認める 名古屋地裁」。
  39. ^ 『中日新聞』1990年4月7日付朝刊、30面、「追跡 票とカネ 第一部、買収の現場から (5) 10年前の教訓 身を律した逮捕の屈辱」。
  40. ^ 『朝日新聞』1990年3月13日付朝刊、23面、「杉浦氏後援会の事務局長を起訴 選挙違反で名古屋地検」。
  41. ^ 『中日新聞』1990年2月27日付朝刊、31面、「ニュース前線/ 怖さ知らず金権指揮 鈴木容疑者、市長選で選対分裂 表舞台に」
  42. ^ 『東海愛知新聞』1990年3月20日、1面、「新たに副議長を逮捕 杉浦事件 市議7人が書類送検」。
  43. ^ 『岡崎市議会のあゆみ 100周年記念誌』 岡崎市議会、2017年3月、209頁。
  44. ^ 岡崎市議会議事録 平成3年3月総務常任委員会 - 03月15日 - 01号。
  45. ^ 岡崎市議会議事録 平成3年3月定例会 - 03月22日 - 08号
  46. ^ 『中日新聞』1991年9月5日付朝刊、30面、「岡崎市議ら2人に懲役10月を求刑 杉浦氏派選挙違反」。
  47. ^ 『東海愛知新聞』1991年8月17日、「中根康市議が辞職 岡崎 公選法違反で係争中」。
  48. ^ 『東海愛知新聞』1991年12月21日、「中根勝市議が辞職 控訴も取り下げ」。
  49. ^ 『岡崎市議会史 下巻』岡崎市議会史編纂委員会、1992年10月22日、765-767頁。
  50. ^ 『朝日新聞』1990年2月26日付夕刊、9面、「逮捕の河澄市議は地区選対の実質的責任者 杉浦氏派選挙違反」。
  51. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (39)」 『朝日新聞』1980年12月12日付朝刊、三河版西。
  52. ^ 木村伊量「全容 無謀の構図 (101)」 『朝日新聞』1981年4月18日付朝刊、三河版西。
  53. ^ 『東海愛知新聞』1990年2月27日、1面、「さらに市議6人逮捕 岡崎 杉浦氏派の買収事件拡大」。
  54. ^ 『東海愛知新聞』2001年9月27日、1面、「河澄元岡崎市議長を逮捕 300万円あっせん収賄容疑 会社施設の建設に便宜」。
  55. ^ 『中日新聞』1990年2月26日付朝刊、31面、「杉浦氏派違反 買収工作の背景 市議への『借り』」。
  56. ^ 『朝日新聞』1990年3月16日付夕刊、12面、「空洞化の選挙違反連座制 公示前は不問」。
  57. ^ 『中日新聞』1995年11月25日付朝刊、30面、「せんきょ票変/ 現職より大票田の前職 自民、杉浦氏を公認 愛知12区異例の決着 稲垣氏は比例代表」。
  58. ^ 『中日新聞』2000年8月6日付朝刊、県内版、16面、「自民党県連 会長ら3幹部が辞任 参院選へ体制一新 名古屋市連設置も」。
  59. ^ 『中日新聞』2000年9月2日付朝刊、県内版、20面、「自民党県連 新役員陣就任を承認 杉浦会長『風通し良く』と抱負」。
  60. ^ 『中日新聞』2000年6月29日付朝刊、西三河版、22面、「『新時代への使命と義務』 6選出馬表明 中根岡崎市長が明言」。
  61. ^ a b 『中日新聞』2000年7月22日付朝刊、西三河版、20面、「岡崎市長選 保守分裂の混戦へ 『6選阻止』で候補擁立 地元経済界有志ら“刷新の会”を設立 自民県議2人も参加」。
  62. ^ 『中日新聞』2000年8月15日付朝刊、西三河版、18面、「顔ぶれ出そろった岡崎市長選 複雑な構図 3つの疑問点 自民3人乱立にも調整役不在」。
  63. ^ 柴田紘一「思い出ばなし (三)」『文藝岡崎』第37号、岡崎文学会、2019年5月1日。
  64. ^ 『中日新聞』2000年9月11日、「市民の目線で行政を 岡崎市長に柴田市初当選 沈滞打破へ期待」。
  65. ^ 『東海愛知新聞』2000年7月27日、1面、「柴田県議が出馬表明 岡崎市長選 『新世紀の会』の推薦受け」。
  66. ^ 『朝日新聞』2000年9月12日付朝刊、24面、「柴田紘一氏、劣勢覆す 多選批判、徹底して訴え 岡崎市長選/愛知」。
  67. ^ 『中日新聞』2001年4月15日付朝刊、34面、「参加者 冷めた反応 自民愛知県連 政治大学院が開校」。
  68. ^ 『中日新聞』2003年11月12日付朝刊、34面、「自民 愛知県連 幹部退陣へ 衆院選惨敗 3回連続の引責」。
  69. ^ a b c 中村宰和 (2009年11月18日). “杉浦元法相:「悔いはない」…引退表明、後継者は指名せず”. 毎日新聞. http://mainichi.jp/select/seiji/news/20091118k0000m010170000c.html?inb=yt 2009年11月21日閲覧。 
  70. ^ 『朝日新聞』2009年11月11日付朝刊、33面、「17日に政界引退を正式表明 杉浦元法相」。
  71. ^ 岡崎市議会議事録 平成24年6月定例会 - 06月12日 - 12号。
  72. ^ 春の叙勲 4080人が受章 - NHKニュース 2017年4月29日[リンク切れ]
  73. ^ 死刑執行:1年8カ月ぶり執行、民主政権で2度目 山口・下関通り魔事件など3人 毎日新聞2012年3月29日
  74. ^ 杉浦元法相、13日に元慰安婦の施設を訪問 聯合ニュース. 2011年2月10日
  75. ^ 杉浦元法相が韓国の元慰安婦訪問 若者に正しい歴史を 共同通信. 2011年2月13日
  76. ^ あの戦争は何だったのか』 215頁。
  77. ^ かいしゅん・回春の買春は改悛すべき NHK放送文化研究所「ことばウラ・オモテ」
  78. ^ しげとく和彦(重徳和彦):2012年12月
  79. ^ 『東海愛知新聞』2012年12月14日、1面。
  80. ^ 機構の概要(ごあいさつ) | 全日本社会貢献団体機構

参考文献[編集]

  • 杉浦正健編著『和して同ぜず―杉浦正健対談集』シーダー企画、1996年2月1日。
  • 杉浦正健『あの戦争は何だったのか』文藝春秋企画出版部、2014年12月15日。ISBN 978-4160088207

外部リンク[編集]

議会
先代:
笹川堯
日本の旗 衆議院法務委員長
1998年 - 1999年
次代:
武部勤
公職
先代:
南野知惠子
日本の旗 法務大臣
第77代:2005年 - 2006年
次代:
長勢甚遠
先代:
細田博之
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(政務担当・衆議院)

2004年 - 2005年
次代:
長勢甚遠
先代:
衛藤征士郎
荒木清寛
日本の旗 外務副大臣
植竹繁雄と共同
2001年 - 2002年
次代:
茂木敏充
矢野哲朗