水谷長三郎
| 水谷長三郎 みずたに ちょうざぶろう | |
|---|---|
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| 生年月日 | 1897年11月4日 |
| 出生地 | 京都府京都市 |
| 没年月日 | 1960年12月17日(63歳没) |
| 出身校 | 京都帝国大学(現・京都大学) |
| 前職 | 弁護士 |
| 所属政党 |
(労働農民党→) (労農大衆党→) (全国大衆党→) (社会大衆党→) (無所属→) (日本社会党→) (右派社会党→) (日本社会党→) 民社党 |
| 称号 |
正三位 勲一等旭日大綬章 衆議院永年在職議員 法学士 |
| 内閣 |
片山内閣 芦田内閣 |
| 在任期間 | 1947年6月1日 - 1948年10月15日 |
| 選挙区 | 京都府第1区 |
| 当選回数 | 11回 |
| 在任期間 | 1936年2月21日 - 1960年12月17日 |
| 選挙区 | 京都府第1区 |
| 当選回数 | 1回 |
| 在任期間 | 1928年2月21日 - 1930年1月21日 |
水谷 長三郎(みずたに ちょうざぶろう、1897年(明治30年)11月4日[1] - 1960年(昭和35年)12月17日)は大正、昭和期の日本の政治家、弁護士、労働運動家。位階は正三位。
片山内閣、芦田内閣の商工大臣を務めた。愛称「水長」(みずちょう)。
来歴・人物
[編集]1897年(明治30年)11月4日京都府紀伊郡伏見町京橋(現在の京都市伏見区)に生まれる。1921年(大正10年)京都帝国大学法学部を卒業する。京都帝大ではマルクス経済学者の河上肇に師事[2]、高山義三とともに河上を顧問とする労学会を結成した。京都帝大在学中に友愛会に参加し、河上の紹介で大原社会問題研究所の嘱託となる[3]。京都帝大卒業後、弁護士を開業した。
1926年(大正15年)普通選挙法が通過し、25歳以上の成人男子に普通選挙が認められると、1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙に無産政党の一つ労働農民党から立候補し山本宣治とともに当選、日本初の社会主義政党の代議士となる[4]。同年4月11日、大山郁夫とともに東京駅に帰京したところ、ホームで大山を標的とした右翼集団の襲撃を受け殴打される[5]。
その後、反共の立場から、容共の山本などと対立するようになる。山本の依頼で、安田徳太郎(山本の従弟)は水谷に、三・一五事件(1928年(昭和3年)3月15日)で逮捕された人々のために弁護士として奔走して欲しいと依頼したが、水谷は「三・一五事件の被告は悪い奴ばかりだ」と拒否した。
治安維持法改正案に反対したが、山本とは違い、あくまで反共という法の目的は認めた上で、拡大解釈による濫用を懸念する立場からのものだったので、日本共産党や容共の側からは強い批判を受けており、佐々木敏二は水谷を「階級的裏切り(者)」と批判している[6]。一方、治安維持法改正後の運用について、水谷の懸念の正しさを指摘する意見もある[7]。1929年(昭和4年)山本が黒田保久二に暗殺されると、水谷も葬儀に参列し、棺桶を担いだが、山本の葬儀を描いた大月源二『告別』では、水谷は無視されている。
以後当選回数通算12回。1929年1月に労農党を離党して、労農大衆党結党を宣言して労農党からは除名処分を受けた。さらに全国大衆党を経て社会大衆党に参加する。
1940年(昭和15年)3月、斎藤隆夫が行った反軍演説の議員除名採決で反対の立場を示し衆議院本会議を欠席すると、書記長麻生久主導で、党首の安部磯雄、鈴木文治、西尾末広、片山哲らとともに社会大衆党除名処分を受けた。
戦後、西尾とともに上京して日本社会党を結成し、中央執行委員に選出された。この時期、再建された日本共産党との人民戦線路線に、一時的に傾いていたが、西尾らの反対で党の方針にはならなかった。1947年(昭和22年)の片山内閣で商工大臣として入閣、炭坑国有化を推進して炭鉱国家管理問題が起きた。1947年(昭和22年)の芦田内閣でも商工相に留任した。
右派社会党では政策通として政策審議会会長を務めた。1960年(昭和35年)1月24日に離党して民主社会党(のちの民社党)結成に参加し、翌25日から国会議員団長を務めた[8]。しかし、同年夏に体調が悪化して入院し療養、同年11月の総選挙では病床からの立候補で12回目の当選を果たしたが、その約1か月後の同年12月17日に死去した。63歳没。同月20日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で勲四等から正三位勲一等に叙され、旭日大綬章を追贈された[9]。追悼演説は同月22日、衆議院本会議で益谷秀次により行われた[10]。水谷の死去に伴い、選挙後3か月以内の欠員のため公職選挙法の規定により、次点者の中村三之丞が繰上当選となった。墓所は金戒光明寺。
訳書
[編集]- 『科學的社會主義序論』ユリアン・ボルハルト著著、同人社書店 1923
- 『史的唯物論略解』ユリアン・ボルハルト著、同人社書店 1924
- 『唯物史観批判』ミハイル・トゥガン=バラノフスキー著、同人社書店 1925
- 『マルクス資本論 : 通俗資本論普及版』ユリアン・ボルハルト著、同人社書店 1929
脚注
[編集]- ^ 衆議院『第七十一回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1937年、3頁。
- ^ 第31回国会衆議院会議録第34号官報昭和34年4月1日
- ^ 「証言:日本の社会運動 "日労"系指導者の戦後と『社会思潮』(3)松井政吉氏に聞く」法政大学大原社会問題研究所編 (通号475) 1998年6月 61頁
- ^ 「衆議院会議録情報 第037回国会 本会議 第11号」
- ^ 地方遊説から帰京、右翼に襲われる『東京朝日新聞』昭和3年4月12日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p35)
- ^ 佐々木敏二『山本宣治 下 』 不二出版、1998年、pp.300-305、pp.340-341 ISBN 978-4938303013
- ^ 奥平康弘『治安維持法小史』 岩波書店、ISBN 978-4006001612
- ^ 「衆議院会議録情報 第034回国会 議院運営委員会 第2号」
- ^ 『官報』第10203号585頁 昭和35年12月22日
- ^ 第37回国会 衆議院 本会議 第11号 昭和35年12月22日 | テキスト表示 | 国会会議録検索システム
関連項目
[編集]| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 片山哲 (臨時代理) |
第30-31代:1947 - 1948 |
次代 吉田茂 (臨時代理) |
| 名誉職 | ||
| 先代 横川重次 |
最年少衆議院議員 1928年 - 1930年 |
次代 坂本一角 |