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横路節雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
横路 節雄
よこみち せつお
1964年
生年月日 (1911-01-02) 1911年1月2日
出生地 日本の旗 日本 北海道夕張市
没年月日 (1967-06-14) 1967年6月14日(56歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都港区六本木
出身校 札幌師範学校卒業
前職 北海道教職員組合委員長
日本教職員組合副委員長
所属政党 日本社会党
子女 横路孝弘(長男)
親族 野呂栄太郎(義兄)

選挙区 北海道1区
当選回数 8回
在任期間 1952年4月25日 - 1959年3月26日[1]
1959年5月19日[2] - 1967年6月14日

選挙区 札幌市[3]
当選回数 1回
在任期間 1947年4月30日 - 1948年12月27日[4]
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横路 節雄(よこみち せつお、1911年1月2日 - 1967年6月14日)は、日本政治家日本社会党所属の元衆議院議員(8期)、北海道議会議員(1期)。

来歴

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息子の孝弘(左)と(1946年頃)

北海道夕張市出身。札幌師範学校北海道教育大学札幌校の前身)を卒業し、幌西小学校などで小学校教諭として勤務[5]北海道教職員組合委員長および日本教職員組合副委員長、北海道議会議員を経て、1952年10月第25回衆議院議員総選挙北海道1区から立候補し初当選(通算8回当選。同じ北海道1区の社会党候補には道議会の後輩島本虎三もいた)。日本社会党の国対委員長や政審会長を歴任。1960年安保闘争では党安保対策委員長。

新人対決の1959年北海道知事選挙で社会党公認で立候補したが1952年衆院選の新人候補時代からのライバルで同時初当選の自民党新人の元警視総監町村金五に敗北、直後の補欠選挙で国政に復帰した[注釈 1]。1967年、議員在職中に心筋梗塞のため、青山の議員宿舎で死去した[6][7]。56歳没。追悼演説地崎宇三郎が行った。

妻・美喜の実兄は野呂栄太郎。次男は北海道知事衆議院議長を務めた横路孝弘

脚注

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注釈

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  1. ^ 2000年5月17日以降、公職選挙法の改正により、国政選挙において、自身の辞職(退職)が要因となって発生した補欠選挙へは立候補できない規定となっているが、当時は可能であった。

出典

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党職
先代
島上善五郎
日本社会党国会対策委員長
第6代 : 1963年 - 1966年
次代
柳田秀一