菅太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

菅 太郎(かん たろう、1904年明治37年)5月30日[1] - 1980年昭和55年)1月11日[2])は、日本の官僚、政治家。戦前は内務省に所属し、革新官僚の一人であった[3]。戦後は衆議院議員を5期務め、経済企画政務次官、衆議院地方行政委員長などを歴任した。

経歴[編集]

愛媛県松山市出身[2]東京帝国大学法学部卒業[4]。戦前は内務官僚として内務事務官や企画院調査官を務めた他[4]1936年12月より一時期は満州国総務庁に配属されている[5]。また1941年に発足した大日本翼賛壮年団の訓練部長や理事に就任した(1943年まで)[6][7][8]

戦後、公職追放となり[9]1952年に追放解除[10]。同年の第25回衆議院議員総選挙改進党から愛媛県第1区より初当選。1953年の第26回衆議院議員総選挙では落選した。その後も当選と落選を繰り返し、1955年の第27回衆議院議員総選挙日本民主党から2度目の当選を果たし、同年の保守合同自由民主党結党)に参加。1958年の第28回衆議院議員総選挙では落選した。1960年の第29回衆議院議員総選挙で3度目の当選を果たした。1961年には第2次池田内閣の改造人事で経済企画政務次官を務めた。1963年の第30回衆議院議員総選挙で落選、1967年の第31回衆議院議員総選挙で4度目の当選、1969年の第32回衆議院議員総選挙で5度目の当選を果たした[11]。1972年の第33回衆議院議員総選挙で落選した後、政界を引退した。

1980年1月11日、肺炎により東京都日野市の自宅にて死去[2]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 『日本近現代人物履歴事典』176頁。
  2. ^ a b c 読売新聞』1980年1月12日夕刊、11面の訃報より
  3. ^ 古川隆久. “昭和期内務官僚研究序説”. 広島大学. p. 11. 2012年12月2日閲覧。
  4. ^ a b 『読売新聞』1961年7月25日夕刊1面、「政務次官きまる 大蔵 天野 堀本氏ら20氏」
  5. ^ 『読売新聞』1936年12月16日夕刊1面、「菅事務官満州国入」
  6. ^ 『読売新聞』1941年12月30日朝刊2面、「翼賛壮年団いよいよ1月初め発足 団長は安藤副総裁」
  7. ^ 『読売新聞』1943年4月10日朝刊1面、「翼壮本部の機構を拡充 調査、情報、出版部を新設 刷新人事も発令」
  8. ^ 『読売新聞』1943年10月10日朝刊1面、「内務省辞令 翼壮両総務辞任」
  9. ^ 『朝日新聞』1946年2月10日一面
  10. ^ 『朝日新聞』1952年4月9日一面
  11. ^ 菅太郎”. 国会議員白書. 2012年12月2日閲覧。

参考文献[編集]

  • 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。