小林絹治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

小林 絹治(こばやし きぬじ、1888年明治21年)2月20日[1] - 1973年昭和48年)3月28日[2])は、日本政治家自由民主党衆議院議員(7期[3])。

経歴[編集]

兵庫県出身。関西大学法学部[1]。その後アメリカに渡り、カリフォルニア大学に留学し、同大学院法科修了[2]。帰国後は中央新聞主筆、同編集局長[2]を経て、南満州鉄道に入り、秘書役、参事、ニューヨーク支店長[2]となる。1932年(昭和7年)の第18回衆議院議員総選挙に於いて兵庫3区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選する[3]。以来7回当選[3]廣田内閣で農林参与官[2]となった。1939年(昭和14年)の政友会分裂に際しては中島知久平が総裁を務める政友会革新派同盟に所属した。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選。戦後日本進歩党の結党に参加するが公職追放となる[3]。追放解除後の1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙自由党公認で立候補して当選して政界に復帰する[3]。その後日本民主党から保守合同後は自由民主党に入り、衆議院地方行政委員長[2]第2次岸内閣外務政務次官[2][3]を歴任した。また自民党内では大野伴睦派に所属した[3]1960年第29回衆議院議員総選挙で落選し政界から引退した[3]。1973年(昭和48年)死亡。

親族[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』251頁。
  2. ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』245頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『自民党政権』、391頁。

参考文献[編集]