松崎哲久

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日本の旗 日本の政治家
松崎 哲久
まつざき てつひさ
Tetsuhisa Matsuzaki Sakado 20100910.JPG
生年月日 1950年4月14日(66歳)
出生地 東京都
出身校 東京大学法学部
ハーバード大学大学院修士課程修了
前職 作家
政治学者
所属政党 自由民主党→)
日本新党→)
民主党→)
国民の生活が第一→)
日本未来の党→)
(生活の党→)
生活の党と山本太郎となかまたち
称号 修士
親族 義父・田中覚(元三重県知事衆議院議員)など
公式サイト 松崎哲久(まつざきてつひさ)北関東ブロックのホームページ

選挙区 比例北関東ブロック→)
埼玉10区
当選回数 2回
在任期間 2003年11月9日 - 2005年8月8日
2009年8月31日 - 2012年11月16日
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松崎 哲久(まつざき てつひさ、旧名:隆臣1950年(昭和25年)4月14日 – )は、日本政治家小説家生活の党と山本太郎となかまたち所属の元衆議院議員(2期)。

三重県知事・衆議院議員の田中覚は義父(母の再婚相手)、元内閣総理大臣三木武夫安西正夫昭和電工社長は義理の伯父、昭和電工創業者の森矗昶は祖父にあたる。森曉元衆議院議員、森清総理府総務長官森美秀環境庁長官は伯父。森英介法務大臣安西孝之日本体育協会会長、高橋紀世子参議院議員は従兄弟。「湯川 裕光」の筆名で歴史小説ミュージカルの脚本を執筆している。

経歴[編集]

1950年(昭和25年)4月14日東京都において父松崎正臣(日本冶金工業常務取締役)、母松崎三重子の次男として生まれる。

兄の松崎正策は、1996年(平成8年)10月20日施行の第41回衆議院議員総選挙において神奈川8区から自由民主党公認候補として出馬し、当時新進党に所属していた中田宏に敗北した経歴を持つ。都立日比谷高校を経て、東京大学法学部を卒業し、アメリカに渡り、ハーバード大学大学院修士課程を修了。M.A.の学位を取得する。在米中、エドウィン・ライシャワーエズラ・ボーゲルの下でハーバード大学日本研究所研究員(Associate in Research)を務める。

政界へ進出[編集]

1982年(昭和57年)自由民主党総合政策研究所の設立にともない主任研究員に就任する。

自民党幹事長付、同総裁付を経て、昭和62年(1987年)社会工学研究所政治分析センター主幹に就任する。1989年(平成元年)現代政治分析センターを創設し、同センター代表に就任し、日米の比較政治論や自由民主党の研究、分析を著作し、マスメディアを通じて精力的に行う。佐藤誠三郎との共著『自民党政権』は長らく自民党研究の古典だった。

日本新党に参加[編集]

1992年(平成4年)細川護煕日本新党結成に参加する。政策部会長として、日本新党の政策を立案した。その後、組織委員長として細川に次ぐ党No.2であったが、党事務局との対立が先鋭になったため細川とはギクシャクしたといわれる。同年7月26日の第16回参議院議員通常選挙に比例区で立候補する。この選挙で日本新党は4人の当選を果たす(細川護煕、小池百合子寺沢芳男武田邦太郎)が、名簿5位に記載されていた松崎は次点で落選する。その後、組織委員長を小池百合子と交代し、総務委員長に就任する。

しかし、松崎は1993年(平成5年)6月23日に党員としての適格に著しく欠けるという理由で日本新党を除名された。背後には、党事務局との確執や、松崎の第40回衆議院議員総選挙への立候補に関するトラブルがあったとされる。[要出典]松崎は日本新党をすでに除名、参議院比例代表名簿からも削除されていたため、1993年(平成5年)7月18日に施行された第40回衆議院議員総選挙に細川護煕、小池百合子が立候補したことに伴い、名簿搭載6位の小島慶三および7位の山崎順子(円より子)の2名が繰り上げ当選する。松崎はこれを不服として、除名処分による比例名簿除外は無効であること、松崎が繰り上げ当選していること、円より子の繰り上げ当選は無効であるとする訴訟を起こした(日本新党繰上補充事件)。1994年(平成6年)11月29日に東京高等裁判所では松崎の主張が認められ勝訴するが、1995年(平成7年)5月25日、最高裁判所では松崎の主張が退けられ敗訴判決が確定した。

民主党へ[編集]

1996年(平成8年)9月29日、旧民主党結成に参加する。同年10月20日施行の第41回衆議院議員総選挙に埼玉10区で民主党公認で立候補するが次点となり、比例復活できず落選(惜敗率58.3%)する。2000年(平成12年)6月25日施行の第42回衆議院議員総選挙に再度立候補するが落選(惜敗率68.0%)する。2003年(平成15年)11月9日施行の第43回衆議院議員総選挙において比例北関東ブロックで当選(惜敗率85.8%)する。ちなみに10年前の日本新党除名に伴って、松崎に代わって参議院議員に繰り上げ当選した円より子は当時民主党副代表。衆議院国土交通委員会委員、政治倫理・公選法改正特別委員会委員、民主党埼玉県連常任幹事を務める。

2005年(平成17年)9月11日施行の第44回衆議院議員総選挙で圧倒的な小泉旋風の前に落選(惜敗率66.8%)する。この結果松崎は当時の民主党内規の「小選挙区で3回連続で落選した元職は基本的に公認しない」の該当者になった。更に2005年11月、民主党は「同一の小選挙区で2回連続以上落選した新人・元職候補は次の選挙で公認しない」という衆院候補選定基準を発表。この基準に則り党執行部2006年末に該当する全国の総支部長を交代させる方針を決めたが、埼玉10区については2006年末までに新たな候補者を決められなかったため、松崎が引き続き総支部長に留まり、そのまま次期総選挙公認候補となった。

2009年(平成21年)8月30日執行の第45回衆議院議員総選挙で初めて小選挙区で当選する(2期目)。民主党本部は元職の松崎を当選させるため行田邦子参議院議員を選対本部長に招き、鳩山由紀夫代表菅直人代表代行などが次々に選挙区入りをして松崎を応援した。菅直人代表代行は選挙期間中に2回も埼玉10区入りするほどの熱の入れようであった。無駄を省くとしてリサイクル自転車で選挙区巡りをし話題となった。

2010年(平成22年)9月14日執行の民主党代表選挙では小沢一郎支持を明確にし、メディアに多数出演して小沢支持を訴えた。しかしお膝元の民主党埼玉10区総支部においては党員サポーター票は僅差ではあったが菅直人に1ポイント入る結果となり「面目ない結果」とHP上で感想を述べた。

消費税増税に猛反発[編集]

2012年、野田佳彦内閣総理大臣消費税増税などを含む社会保障・税一体改革関連法案の提出を表明した際には、法案の内容を批判した[注釈 1]衆議院本会議における社会保障・税一体改革関連法案の採決では、党の公約を守るため反対票を投じた。

一貫して増税反対し、新党へ[編集]

そして小沢一郎に従って民主党に離党届を提出したが、受理されずに7月9日除籍処分となり[1]、11日の国民の生活が第一の結党に参加した[2]。同年11月、国民の生活が第一の解散にともない日本未来の党に合流。12月16日の第46回衆議院議員総選挙に未来の党公認で埼玉10区から重複立候補するが選挙区で3位、比例復活もならず落選した[3]

2014年12月14日の第47回衆議院議員総選挙生活の党比例北関東ブロックから立候補するも落選。

民主党公認料請求疑惑[編集]

2007年(平成19年)4月8日施行の埼玉県議会議員選挙において、埼玉県議会議員西12区(鶴ヶ島市)から無所属で出馬した県議候補者中郡龍二から、4月4日発行の選挙公報で、金を要求されたと名指しされた。

同候補は、当初は民主党公認候補として出馬を予定しており民主党埼玉県総支部連合会に公認申請まではしていた(後に取り下げた)が結局無所属で出馬することになった。その理由を同候補は、「初めは民主党からと思いましたが、私が断りました。 公認に際して地区の総支部長(松崎哲久)から金を要求されたからです」と説明。 要求された金額については 「公認料として最初に200万円。当選後は毎月20万円」と記している。民主党では基本的に公認料というものは存在せず、松崎はこれを全面的に否定し、即日選挙公報の不法利用であるとして公職選挙法違反の疑いで西入間警察署告訴状を提出した。

埼玉県選挙管理委員会によると、選挙公報は、政見発表の自由を侵害しないよう、候補者が提出する原文のままを掲載するのが原則であるとしている。当初は同候補の選挙公報の原稿を受け付けた鶴ヶ島市選挙管理委員会は同候補に対して内容はそのままでよいのか何度も確認を取ったが、「原稿について、同候補はそのままの掲載を希望した」 という。鶴ヶ島市選挙管理委員会は埼玉県選挙管理委員会にそのまま掲載してよいか照会したが、上記理由により、そのままの掲載が認められることとなった。 同候補は「事実関係を書いただけ」と話している[4]

自衛官恫喝問題[編集]

産経新聞2010年(平成22年)11月18日、同年7月27日に行われた航空自衛隊入間基地の納涼祭に来賓として出席した松崎が、駐車場係の隊員の対応に不満を抱き恫喝ともとれる発言をしていたと報じた。記事によると、帰る際に松崎は駐車場からおよそ30m離れた場所から自分のを呼ぶよう車両誘導担当の隊員に要求したが、歩行者の安全確保のため片側通行としていた道路を逆走する形になる為、隊員は駐車場まで歩くように要請した。これに対し松崎は歩行者がいないからと車を寄せるよう指示し、拒否した隊員に「俺を誰だと思っているのか」と発言。その後、別の隊員の誘導で寄せた車に乗った際に拒否した隊員が「二度と来るな」とつぶやいたのを聞いて「もう一度言ってみろ」と迫り、その際に胸を鷲づかみにしたという[5]

産経新聞の取材に対し松崎は、発言全てと隊員の体に触れたことを否定した上で「誘導システムが不適切だと指摘はした」と説明。また「隊員に二度と来るなと言われたことも事実。自分は何も言っていない」と答えている[5]。自身のホームページでは、記事を「いわれなき中傷であり、全く事実無根」「謀略の類で新聞報道の名にも値しない」とし、仲間の多くからも毅然と対応しろと励まされていると述べている。
また逆走を要求したことはなく、隊員に「二度と来るな」と悪態をつかれたがこらえて立ち去ったと主張している。後日、基地側から謝罪があったことについては「私が謝罪を求めたのではなく、あくまで誘導システムに問題があることを指摘した」と述べている[6]

その後の防衛省の聞き取り調査では、松崎は車まで歩くよう要請した隊員の腕を掴んで団扇で数回叩いた他、その隊員には謝罪を要求したとされ言い分が食い違っている。松崎は取材に対し「隊員に手は触れていない。うちわが触れたかどうかまで記憶にない。私は子供のころから家族にも友人にも手を出したことはない。周囲もそれを信じてくれている」と語っている[7]。3月25日、産経新聞は、防衛省の調査結果で松崎は隊員の腕を押した事などは否定しながらも事実関係を大筋で認めていたと報道した[8]

自由民主党礒崎陽輔は、2011年3月23日の参議院予算委員会理事懇談会で民主党が公表した防衛省の聴き取り調査の結果[9]を自身のサイトに掲載[10]
これに拠れば、松崎が自衛官に謝罪を求めた事は、事実であったという。

政治資金[編集]

議員連盟[編集]

著書[編集]

「松崎哲久」名義[編集]

  • 『「アメリカ政治」を読む 権力と野望、栄光と挫折 Washington watching』かんき出版、1988 
  • 『日本型デモクラシーの逆説 2世議員はなぜ生まれるのか』冬樹社、1991 
  • 『近代百人一首』中央公論社、1995 
  • 『日本新党とは何であったのか  時代にとって、そしてわれわれにとって』星雲社、1995 
  • 『劇団四季と浅利慶太』文春新書、2002 
  • 『名歌で読む日本の歴史』文春新書、2005
共著
  • 『自民党政権』佐藤誠三郎共著 中央公論社 1986

「湯川裕光」名義[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 野田は「消費税の引き上げを現在の衆議院議員の任期終了後となる14年4月を予定しているため、公約違反ではありません」と述べている。j-cast2012年1月27日

関連項目[編集]

外部リンク[編集]