江崎真澄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
本来の表記は「江﨑真澄」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。
江崎 真澄
えさき ますみ
Masumi Esaki.jpg
1960年頃に撮影
生年月日 1915年11月23日
出生地 愛知県一宮市
没年月日 (1996-12-11) 1996年12月11日(81歳没)
出身校 日本大学経済学部
所属政党日本自由党→)
民主自由党→)
自由党→)
自由民主党
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
親族 三男・江崎鉄磨
五男・江崎洋一郎

内閣 第2次中曽根第2次改造内閣
在任期間 1985年12月28日 - 1986年7月22日

内閣 第1次大平内閣
在任期間 1978年12月7日 - 1979年11月9日

内閣 第2次田中角榮内閣
在任期間 1972年12月22日 - 1973年11月25日

日本の旗 第28代 防衛庁長官
内閣 第3次佐藤改造内閣
在任期間 1971年12月3日 - 1972年7月7日

選挙区 愛知県第1区(大選挙区制)
愛知県第3区
当選回数 17回
在任期間 1946年4月11日 - 1993年6月18日

その他の職歴
日本の旗 第13代 防衛庁長官
1960年7月19日 - 1960年12月8日
テンプレートを表示

江崎 真澄(えさき ますみ、1915年11月23日 - 1996年12月11日)は、日本の政治家。衆議院議員(17期)、総務庁長官通商産業大臣自治大臣防衛庁長官などを歴任した。

来歴[編集]

愛知県一宮市出身。旧制私立東邦商業中学校から旧制第八高等学校(現・名古屋大学)に入学。八高に入ってすぐに肺結核にかかり、闘病生活中に小説を書き始める。1934年、雑誌『改造』の懸賞小説に、恋愛小説『長良』を応募し佳作となる。また、禅寺で修行するなどし、八高を中退する。その後、日本大学経済学部に進学する。作家を目指し、横光利一菊池寛に紹介されるが、結局母校である東邦商業中学校で教師となった。東邦商業校長の下出義雄は、名古屋にあった大同製鋼の社長でもあったため、下出社長の秘書となる。

1946年の衆議院議員総選挙日本自由党から立候補し、初当選(当選同期に小坂善太郎二階堂進小沢佐重喜石井光次郎坂田道太水田三喜男村上勇川崎秀二早川崇中野四郎など)。自由党の実力者で、農林大臣、自由党幹事長、総務会長を歴任した広川弘禅の忠臣として活躍した。広川が失脚した後は緒方竹虎派に所属し、緒方の死後は、砂田重政の庇護を受けた。砂田の死後、一時的に岸派に所属。1960年第1次池田内閣防衛庁長官として初入閣する。この年、岸信介に誘われて外務大臣として入閣・政界入りした藤山愛一郎が岸派の一部議員と藤山派を結成した際、同派に参加した。藤山の凋落後、水田派結成に参加する。

1971年第3次佐藤改造内閣増原恵吉西村直己が立て続けに辞任した後任として防衛庁長官に再び就任し、翌1972年第2次田中角栄内閣では、自治大臣国家公安委員会委員長北海道開発庁長官に就任する。1973年自由民主党の初代幹事長代理となり、マスコミに積極的に出演し、田中内閣の党側のスポークスマンとして活躍した。

田中内閣総辞職後の1974年に、同じ水田派の田村元(後に衆議院議長)と共に田中派に入る。自民党総務会長党政務調査会長などを歴任。

1978年、公選により自民党愛知県連会長に当選[1]。同年12月に成立した第1次大平内閣通商産業大臣を務めた。

1985年12月に成立した第2次中曽根内閣第2次改造内閣では、総務庁長官対外経済問題・民間活力導入の特命事項担当大臣を務めた。

1987年7月4日竹下登金丸信は田中派会長の二階堂と袂を分かち、経世会を結成。江崎は田中派(二階堂側)に残ったが、江崎の片腕だった吉川博参議院議員、大木浩参議院議員、今枝敬雄衆議院議員(旧愛知1区)らは竹下派に参加した[1]

1989年9月21日、一宮市長の森鉐太郎が在職中に死去[2]。これに伴う一宮市長選で江崎は市助役の福島義信を擁立するが、海部俊樹首相の推す神田真秋に敗れ[3]、地元の旧愛知3区でも気まずい雰囲気が生まれた[1]

1990年3月、自民党愛知県連会長を退任[4]1993年7月の総選挙は出馬せず、政界を引退。地盤は三男の江崎鉄磨に譲った。

1996年12月11日、東京都内の病院で死去[5]。81歳没。

人物[編集]

  • 江崎は自由党系の広川派、緒方派を別として藤山派、水田派と傍流とみなされる中間派に長年所属して、口八丁手八丁の万能選手と評される一方で、弁舌と器用さに対してやっかみもあり、能力ほど評価されなかったと言われている[要出典]
  • 一時は田中も、田中派からの総理候補を挙げるときには二階堂、江崎、後藤田正晴の順で挙げていたが、もちろんこれは田中の世代交代を望まないゆえの時間稼ぎから出た矛先をかわす目的であって、本気ではない。歴任したポストは総裁候補級だったが、田中派では外様であったこと、また年齢的にも田中より年長で二階堂より年少という立場であったことから、江崎を本気で擁立しようとする勢力は田中派内には特に存在しなかった[要出典]

元秘書[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『中日新聞』1990年3月8日付朝刊、県内版、16面、「党分裂回避にホッ 自民県連会長の“円満禅譲” 駆け引き、思惑交錯 派閥対立や一宮市長選 江崎体制にしきみ」。
  2. ^ 『一宮タイムス』1989年9月22日、1面、「森一宮市長が死亡 入退院、高齢で衰弱」。
  3. ^ 『中日新聞』1989年11月13日付夕刊、1面、「一宮市長に神田氏 海部派に軍配 福島氏に大差で」。
  4. ^ 『中日新聞』1990年3月18日付朝刊、県内版、16面、「自民党県連大会 すんなり村田新会長 推薦人、江崎氏は最高顧問に」。
  5. ^ 『中日新聞』1996年12月11日付夕刊、1面、「通産相、自治相...入閣5回 江崎真澄氏死去 81歳」。

参考文献[編集]

関連項目[編集]


議会
先代:
山村新治郎
日本の旗 衆議院議院運営委員長
第13代:1958年 - 1959年
次代:
荒船清十郎
先代:
山崎巌
日本の旗 衆議院予算委員長
1957年 - 1958年
次代:
楢橋渡
公職
先代:
後藤田正晴
日本の旗 総務庁長官
第2代:1985年 - 1986年
次代:
玉置和郎
先代:
河本敏夫
日本の旗 通商産業大臣
第39代:1978年 - 1979年
次代:
佐々木義武
先代:
福田一
日本の旗 自治大臣
第19代:1972年 - 1973年
次代:
町村金五
先代:
木村武雄
日本の旗 国家公安委員会委員長
第29代:1972年 - 1973年
次代:
町村金五
先代:
福田一
日本の旗 北海道開発庁長官
第34代:1972年 - 1973年
次代:
町村金五
先代:
西村直己
赤城宗徳
日本の旗 防衛庁長官
第28代:1971年 - 1972年
第12代:1960年
次代:
増原恵吉
西村直己
党職
先代:
河本敏夫
自由民主党政務調査会長
第27代:1977年 - 1978年
次代:
河本敏夫
先代:
松野頼三
自由民主党総務会長
第20代:1976年 - 1977年
次代:
中曽根康弘
先代:
福田一
山村新治郎
自由民主党国会対策委員長
第19代:1974年
第7代:1961年 - 1962年
次代:
宇野宗佑
竹山祐太郎