安藤覚
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安藤 覚(安藤 覺[1][2]、あんどう かく[1]、1899年(明治32年)6月16日[3] - 1967年(昭和42年)11月27日[3])は、昭和期の曹洞宗の僧侶、政治家。衆議院議員(当選5回、自由民主党)[3]。
来歴[編集]
神奈川県愛甲郡小鮎村(現厚木市)に生まれる[2]。1925年、日本大学専門部宗教科卒業[1][4]。神奈川県愛甲郡依知村(後厚木市に編入)の曹洞宗安竜寺、同広徳寺の住職を務める[1]。
万朝報や読売新聞の記者を務め、後に読売新聞社政治部長・編集局次長、日本大学新聞研究室講師、神奈川民声新聞社社長、神奈川中央交通、小田急運送各取締役、神奈川県仏教連盟、同青年連盟各理事となる[1]。
1942年の第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会推薦で神奈川県3区から立候補して初当選するが、戦後公職追放処分となる。
追放解除後に第25回衆議院議員総選挙に神奈川3区から立候補するも落選するが、次の第26回衆議院議員総選挙では雪辱を果たし、以後第27回・第29回・第30回の3度、通算5期当選を果たした。当初は自由党に属していたが、鳩山一郎を支持して吉田茂と対抗し、ついには三木武吉・河野一郎らとともに離党して日本自由党を結成した(「八人の侍」)。
その後、日本民主党・自由民主党に属して鳩山政権実現のために尽力し、第1次鳩山内閣では厚生政務次官となった。後に衆議院外務委員長・日韓問題特別委員長などを務めた。1967年1月の第31回衆議院議員総選挙では同じ選挙区で立った河野洋平(一郎の子)らに敗れて次点に泣き、同年11月27日に死去した。
人物[編集]
趣味は絵画、旅行[5]。宗教は曹洞宗[5]。家族は妻、息子、長女がいる[5]。神奈川在籍で、住所は東京赤坂榎坂町[5]。
脚注[編集]
- ^ a b c d e 『議会制度七十年史 第11』あ2頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年9月7日閲覧。
- ^ a b 『衆議院要覧 昭和17年11月 乙』議員履歴ア4頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年9月7日閲覧。
- ^ a b c 安藤 覚とはコトバンク。2021年9月7日閲覧。
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年、69頁。
- ^ a b c d 『人事興信録 第14版 上』ア10頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年9月8日閲覧。
参考文献[編集]
- 衆議院事務局編『衆議院要覧 昭和17年11月 乙』内閣印刷局、1942年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
- 衆議院、参議院編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年。
- 『日本人名大事典 7』(平凡社、1979年)P35(執筆者:大谷博愛)。
- 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年、ISBN 978-4-8169-1853-7、P125。
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![]() 1964年 - 1965年 代理:1964年 |
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