田中寿美子

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田中 寿美子
たなか すみこ
『新刊展望』1966年4月1日号より
生年月日 1909年12月20日
出生地 兵庫県神戸市[1]
没年月日 (1995-03-15) 1995年3月15日(85歳没)
死没地 北海道札幌市[2]
出身校 女子英学塾(現・津田塾大学)
前職 労働省婦人少年局婦人課長
評論家
所属政党 日本社会党
称号 藍綬褒章(1980年)
配偶者 田中稔男

選挙区 全国区
当選回数 3
在任期間 1965年7月4日 - 1983年7月9日
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田中 寿美子(たなか すみこ、1909年(明治42年)12月20日 - 1995年(平成7年)3月15日)は、日本の政治家婦人問題評論家日本社会党中央執行副委員長を歴任。

夫は社会党衆議院議員田中稔男

来歴[編集]

左から田中稔男、次女の田中道子、田中寿美子(1966年)

兵庫県神戸市生まれ[1]。高等女学校教師などを経て、1948年、労働省婦人少年局に入省。同僚には森山真弓赤松良子らがいた。1950年、婦人課長に就任。1955年に退職し、日本社会党に入党した。婦人問題の評論家として活動。

1960年11月の衆院選で夫の田中稔男が次点で落選。1962年山川菊栄らと「婦人問題懇話会」(1984年に「日本婦人問題懇話会」に改称)を設立した[3]

1963年1月、社会党から参院選全国区への出馬要請を受ける。同年7月に出馬を決心[4]。同年11月の衆院選で社会党は旧福岡3区に元職の田中稔男と新人の細谷治嘉を擁立。細谷は初当選を果たし、稔男はまたも落選した。

1965年第7回参議院議員通常選挙全国区に社会党から初出馬し初当選。以後連続3回当選。婦人局長を歴任。この間、「国連婦人の10年推進議員連盟」や「戦争への道を許さない女性連絡会」、「中間施設を考える会」などを設立。「男女雇用平等法案」を国会に提出するなど社会党の女性政策確立に大きく貢献した。

1980年飛鳥田一雄委員長の下で党中央執行副委員長に就任。1983年、政界を引退。

引退後は、評論家として活動し男女雇用機会均等法成立に尽力[要出典]フェミニストでもあった。マーガレット・ミード『女性と男性』を邦訳した他、女性学研究者として「近代日本の女性像」や「女性解放の思想と行動」の編著、「パラシュートと母系制」「ジュスマ・マンシェルさん物語」などの著書も出版している。

1995年3月15日、逝去。メキシコ大学院大学アジア・アフリカ研究センター教授の田中道子は次女[1][4][5]

訳書[編集]

  • 女性―この優れたるもの(アシュリー・モンタギュー著、法政大学出版局、1954)
  • 男性と女性―移りゆく世界における両性の研究(マーガレット・ミード著、東京創元社、1961)
  • アメリカ女性史(イーディス・ホシノ・アルトバック著、新潮選書、1976)

著書[編集]

  • 世界女性解放史(中央公論社、1957)※共著
  • 働く女性の生きかた―職業と結婚をめぐって(中央公論社、1957)
  • 若い女性の生きかた(社会思想研究会出版部現代教養文庫、1959)
  • ビジネス・マダム―共かせぎ百科(読売新聞社、1963)
  • 新しい家庭の創造―ソビエトの婦人と生活(岩波新書、1964)
  • 二人のための人生論―女として忘れてならないこと(大和書房、1968)
  • 女性にとって生きがいとは何か(文化出版局、1970)
  • 自立する女性へ―私の生涯から(国土社、1979)
  • パラシュートと母系制―回想のわが戦後史(ドメス出版、1986)
  • ジュスマ・マンシェルさん物語―インドネシア母系社会に生きた日本人女性(ドメス出版、1991)※共著

編著[編集]

  • 近代日本の女性像―明日を生きるために(社会思想社・現代教養文庫、1968)
  • 現代婦人問題講座(亜紀書房、1969)
  • 女性解放の思想と行動(時事通信社、1975)
  • 山川菊栄集(岩波書店、1982)

参考文献[編集]

  • 田中寿美子さんの足跡をたどる会、井上輝子監修『田中寿美子の足跡』(I女性会議 2015年2月)

脚注[編集]

外部リンク[編集]

議会
先代
成瀬幡治
日本の旗 参議院決算委員長
1973年 - 1974年
次代
前川旦