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春風亭一柳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
春風亭 一柳しゅんぷうてい いちりゅう
本名 長坂 静樹[1]
生年月日 1935年10月12日
没年月日 (1981-07-09) 1981年7月9日(45歳没)
出身地 日本の旗 日本東京都
師匠 六代目三遊亭圓生
林家彦六
名跡 1. 三遊亭好生
(1956年 - 1978年)
2. 春風亭一柳
(1978年 - 1981年)
出囃子 筑摩祭[2]
活動期間 1956年 - 1981年
活動内容 古典落語
所属 落語協会[3]

春風亭 一柳(しゅんぷうてい いちりゅう、1935年昭和10年〉10月12日[4] - 1981年昭和56年〉7月9日[5])は、東京都出身の落語家[3]。生前は落語協会所属[3]

六代目三遊亭圓生に入門して三遊亭 好生と名乗った[3]。師の圓生を神のように崇拝し[6]、「圓生の影法師[注 1]と揶揄されるほど芸風も似ていたが[3]、圓生に疎まれて冷遇された[3]落語協会分裂騒動の際に圓生一門を離れて八代目林家正蔵(後の林家彦六)の弟子となり、春風亭一柳へと改名した[3]。圓生の没後に暴露本を出版して物議を醸し、精神を病んで自殺した[5]

来歴

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入門まで

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東京都立西高校[7]への入学に前後して同居していた母と祖母を相次いで亡くし[8]、本人も病弱のため高校を長期休学することとなった[9]。一人残された実家を間貸しすることで生活していた[8]

高校休学中に寄席通いをするようになり[9]六代目三遊亭圓生の熱心なファンとなった[10]。圓生との師弟関係は後年に険悪なものとなるが[11]、入門前の時点では関係良好で、圓生から顔を覚えられて圓生宅に招待されるほど親しくなった[12]。1956年〈昭和31年〉に高校を中退し、三遊亭好生として圓生に入門した[13]

入門後しばらくは高校時代の体調不良を引きずっており、内弟子時代には圓生夫妻にかなり迷惑を掛けたという[14]

真打昇進まで

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好生は背格好が師匠の圓生に似ていただけでなく、所作や芸風までも圓生とよく似てしまい[15]、「圓生の影法師[16][注 1]「円生(を)聞きたきゃ好生を聞け」[3]「子は親に似たるものぞよ円生の恋しき時は好生を聞け」[18][注 2]などと揶揄された。これは元から圓生に心酔していた[19]上に、「悪い癖がうつるといけない」[20]と他の師匠のところへ出稽古に行くのを圓生に制限された[20]ことも重なり、ひたすら圓生を模倣するようになってしまった[19]ためである。その芸は確かに圓生に似ていて決して下手ではなかった[21]ものの、圓生のような茶目っ気や色気がなく[3][注 3]、地味で華がなかった[22]とされる。

圓生は自らの形態模写のような存在となった好生を嫌い、冷遇した[23]。圓生門下で好生の兄弟子だった川柳川柳(当時の芸名は三遊亭さん生)は以下のように回想している。

好生は素人のころからの圓生一辺倒、われわれが師を「王」と思うなら、彼には「神」だ。(中略) 彼は師の噺を懸命になぞっている。芸ばかりかその立居振舞、すべて師の真似、心底、心酔している。それが師にとっては煩わしかったらしい。自分が下手と言われていた若いころを思い出して不快だったのかも知れない。
好生は気に入られようと師匠そっくりにやればやるほど、嫌がられているのに気がつかない。これは悲劇である。川柳川柳[6]

好生は八代目春風亭柳枝一門から移籍してきた弟弟子の六代目三遊亭圓窓三遊亭圓彌に真打昇進で先を越され[24]、思い悩むようになっていった[24]

昭和四七年は、またまた後輩のこん平さん、円弥さんに追い抜かれた年でもあった。私も師匠にかけ合ったものである。
――どうして私は真打になれないのでしょう。
――円弥の噺は、やわらかい丸みがあるが、お前のは、いやに固くぎすぎすしている。
最後にはそんな理由を聞かされた。私はまた酒に溺れていった。春風亭一柳(三遊亭好生)[25]

1973年〈昭和48年〉9月に落語協会による真打集団昇進(第一弾)の一人として真打に昇進した際、好生は当初、まだ自分は真打にふさわしくないという理由で昇進を辞退しようとした[26]。しかしこれは師匠の圓生に対する当てつけ的な行動で[27][注 4]、圓生との関係は以後さらに悪化した[29]。真打昇進を機に改名を希望したものの圓生からの許可は得られず[30]、昇進披露パーティーも圓生に立ち会ってもらえなかった[31][注 5]。好生は圓生の一門落語会から除外されていた[35]。また先代の圓生の追善公演では、圓生一門の真打一同が顔を揃える追善口上から、好生とさん生の二名だけが外された[36]

圓生門下を離脱して改名

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1978年〈昭和53年〉の落語協会分裂騒動で圓生が落語協会を脱退して新団体を設立した際、圓生は当初弟子たちに「自分だけで脱退するから、落語協会に残って総領弟子の五代目圓楽の門下となるように」と指示していた[37]。これは虚偽で、実際には圓生一門を中心に新団体を設立する計画が進んでいたが[38]、新団体のことは圓生門下のごく一部だけの秘密とされていた[38]。こうした水面下の動きを何も知らされなかった好生は、自分が圓生に信用されていないことを痛感し[38]、圓生に従わず落語協会に留まる決心をした[39]。好生は圓生一門からの離脱を申し出て破門され(5月17日[40])、圓生と犬猿の仲だった八代目林家正蔵(後の林家彦六)の客分格弟子となった[40]

その後圓生から芸名の返却を迫られ(5月28日[41])、春風亭一柳へと改名した[42]

暴露本の出版と自殺

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1979年〈昭和54年〉9月3日に圓生が急逝した時は、圓生宅に駆けつけて亡骸の前で号泣した[43]。弟弟子の初代三遊亭圓丈はその時の様子を以下のように回想している。

一柳は、線香を上げ両手を合わせた。目から大粒の涙をボロボロ流し、顔をクシャクシャにさせて泣いていた。その時の一柳の胸中を到底、推し量ることが出来なかった。一柳は、俺の何倍も円生にホレていたのだ。だからその何倍も円生を憎み、その円生から脱けようと思って尚脱けられないであせり、破門された悔しさ、断ち切れない思慕! その今の一柳の気持などとても想像することすら出来なかった。三遊亭円丈[44]

しかし1980年〈昭和55年〉12月に出版した自叙伝『噺の咄の話のはなし』では、長年にわたって圓生から受けた心ない仕打ちの数々を暴露し[3]、圓生の死を知った直後の自分の気持ちが「嬉しかった。ただむやみに嬉しかった」[45]「これで おれは生きていける。死なずにすむんだ」[46]というものだったと告白した。当時、圓生が落語協会と和解するのではないかという憶測が新聞などで報じられており[47]、神経質な一柳は、もし噂通りになれば圓生門下を離れて落語協会に残った自分は居場所がなくなると怯えていた[47]。「嬉しかった」というのはこのような恐怖感から解放されての率直な感想であった[48]が、この「圓生が死んで嬉しかった」[注 6]という言葉は物議を醸し、ここだけが切り抜かれる形で大きく取り上げられた[5][53][52]

自叙伝出版直後は明るい表情を見せていたものの、次第に精神的に落ち込むようになり[51]写経を始めたり[54]、「噺の間の取り方がわからなくなった」と周囲に語ったりするなど[5][55]、言動が周囲に心配されるようになった[51]。投薬治療で快方に向かっていたが[51]、1981年〈昭和56年〉7月9日、入居していた公団団地の10階から飛び降り自殺した[5][56]法名は「信経院一柳日静信士」[57]。落語家の自殺は珍しいことと報じられ[58][注 7]、落語家にふさわしくない死に方とも評された[65]

一柳の死は芸の悩みによるものと報じられたが[5][66]、師匠の圓生との長年の確執、圓生に対する尊敬と憎悪の入り混じった複雑な感情、それらについての暴露本(自叙伝)の出版などが原因になったと指摘されている。弟弟子の初代三遊亭圓丈は「好生程円生の呪縛から逃れる為に七転八倒した者もいない」[67]と評し、そして一柳(好生)が圓生の呪縛から逃れることは「悲惨な最期を遂げる日まで出来なかった」[67]と述べている。兄弟子の五代目三遊亭圓楽も圓丈と同様に呪縛という言葉を使い、(暴露本の出版は)「うちの師匠の芸の呪縛から逃れたい一心だったんでしょう」[68]と述べている。兄弟子の川柳川柳は、(一柳は著書の中で圓生の)「悪口を書いて吹っ切ったつもりだったけど、本当は後悔して悩んでいた」[51]と述べ、一柳は圓生に殉じたのかも知れないと推測している[69]。死の前日に本人から芸の悩みについて相談を受けたという四代目三遊亭歌笑は、暴露本出版に対する世間の冷ややかな目が一柳を傷つけたのだろうと述べているが[70]、暴露本の内容については「子供じゃないんだから、言っていいことと悪いことがある」と批判している[70]。一柳の弟弟子の三遊亭生之助も四代目歌笑と同様に、暴露本は出版すべきではなかったと述べている[71]。仕事斡旋や稽古で一柳の世話になった後輩の立川談四楼[72]は、一柳の自叙伝は「円生への決別宣言」[50]だったと解釈し、そして自叙伝執筆によって「決別したつもりで、あらためて円生が好きなことに気づい」[50]て自分自身をさらに追い詰めたのだろうと推測している[50]

略歴

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芸名

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「三遊亭好生」

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六代目三遊亭圓生に入門してから破門されて名前を返却するまでこの芸名を名乗った[41]。六代目圓生は弟子の前座名として「三遊亭○生」という名前をつけるのが常で、「○」の部分には画数が六画の漢字を好んで当てていた(例:三遊亭[76]。好生の場合は「生」と「生」(「好」も「光」も画数六画)の二案を圓生が本人に提示し、本人が「好生」を選んだ[77]

「春風亭一柳」

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八代目林家正蔵門下に移り、1978年〈昭和53年〉5月29日にこの芸名に改名した[42]。亭号の「春風亭」は五代目春風亭柳昇から使用許可を貰い[42]、改名後には柳昇の師匠で春風亭派の総帥であった最晩年の六代目春風亭柳橋にも挨拶に出向いている[42]。「一柳」の「一」は正蔵が尊敬する三遊一朝から取った[42]

自叙伝『噺の咄の話のはなし』での本人の説明によると、明治中頃の噺家番付に改名歴や師弟関係など詳細不明な落語家「春風亭一柳」の名があり[78]、その後色物(曲芸師)の一柳斎柳一門下に「春風(はるかぜ)一柳」という人物が存在したといい[78]、この両名を初代・二代目と見なして好生改め春風亭一柳は三代目を自称した[78]

なお一柳が自叙伝で説明した初代や二代目とは人物像が食い違うものの、1899年〈明治32年〉に「春風亭一柳」こと渡辺国太郎という当時34歳の曲芸師(皿回し)が心中未遂事件を起こし[79][80][81]朝日新聞読売新聞東京日日新聞などで報じられている[79][80][81][82]。『古今東西落語家事典[83]によると、渡辺国太郎とは一柳斎柳一(1866年〈慶応2年〉2月17日 - 1929年〈昭和4年〉2月7日)の本名であり、この渡辺は一柳斎柳一以外に春風亭一柳や春風一柳や春風一柳斎などの芸名も名乗ったという[83]

名乗らなかった芸名

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橘家圓好

圓生門下時代には、師匠の前名でもあるこの名をいずれは襲名したいと望んでいた[84]。この名跡を好生が欲しがっていることは圓生も認識しており、他の弟子には与えずに空き名跡としていたが[30]、真打昇進時に好生が改名を希望した際には圓生が却下している[30]

一柳(好生)の弟弟子の三遊亭梅生が真打昇進して七代目三遊亭圓好を襲名したのは1982年〈昭和57年〉で[85]、圓生(1979年〈昭和54年〉没[86])も一柳(1981年〈昭和56年〉没[51])も死去した後のこととなる。

「川柳一柳」

落語協会分裂騒動で圓生に破門されて春風亭一柳へ改名した際、同じく圓生に破門されて改名を済ませていた[87]兄弟子の川柳川柳(前名は三遊亭さん生)[88]から「川柳一柳になれ」と誘われたが、そんな漫才コンビのような芸名は嫌だと断った[87]

家族

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婿養子だった父は一柳が3歳の時に離婚して家を出たため、祖母と高校教師だった母に育てられた。母と祖母は一柳の高校入学に前後して亡くなった[8]。生き別れとなっていた父とは落語家になってから交流が生まれたが、父も1975年〈昭和50年〉に亡くなった[89]

二つ目時代に二回結婚している。一度目の結婚は1962年〈昭和37年〉で、年上の女性と同棲し入籍したものの、やがて不和となり心中未遂騒動を起こした[90]。先に本人が睡眠薬自殺を図り、後追いで妻がガス吸引による自殺を図ったというもので、本人は助かったものの妻は死亡した[91]。二度目の結婚は1964年〈昭和39年〉で[92]、1967年〈昭和42年〉には長男が生まれている[93]

作品・活動

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書籍

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  • 春風亭一柳『噺の咄の話のはなし』晩聲社〈ヤゲンブラ選書〉、1980年12月。NDLJP:12438331 

寄稿

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  • 三遊亭好生「噺家の位」『読売新聞夕刊』1972年7月29日、9面。
  • 三遊亭好生「ずいひつ 不器用」『20世紀』第9巻第3号、20世紀社、1974年3月1日、47頁、国立国会図書館書誌ID:000000017941 
  • 三遊亭好生改め春風亭一柳「私の手記 なぜ、圓生門を離れたか」『落語界』第20号、深川書房、1978年11月、46-48頁、国立国会図書館書誌ID:000000040937 

落語音源

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テレビ出演

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いずれも三遊亭好生と名乗っていた時期の出演。

その他活動

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1967年〈昭和42年〉頃に日本大学芸術学部落語研究会の顧問をしていたが[97]日大紛争が始まる頃に顧問を退いた[97]。同サークルの当時の部員には高田文夫古今亭右朝がいた[97]

また日本歯科大学歯学部の落語研究会でも顧問をしていた時期がある[98]

脚注

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注釈

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  1. 1 2 『現代落語事典』[17]の用語解説によれば、落語界で「影法師」(かげぼうし、かげんぼし)とは、独自の芸風を確立することができず師匠の模倣に留まっている様子を指す[17]影法師#演芸用語も参照。
  2. 「子は親に似たるものぞよ円生の恋しき時は好生を聞け[18]は、落語『松山鏡』に出てくる狂歌「子は親に似たるものぞよ亡き人の恋しき時は鏡をぞ見よ」のパロディ
  3. 山本益博による評価[3]
  4. 圓生は個人的に真打大量昇進に強く反対していたものの、昇進は落語協会の理事会で承認された決定事項であるため、協会の幹部という立場ではそれ以上反対することができなかった。このため本件は「本心では好生を真打昇進させたくないと思っている圓生が、口では真打昇進を受諾しろと好生を説得する」という構図となった[28]
  5. 真打披露パーティー欠席という仕打ちを圓生から受けた一門弟子は好生だけではなく、好生と同時昇進した弟弟子の三遊亭生之助も同じ目に逢っている[32]。また兄弟子の三遊亭さん生が半年前に真打昇進した[33]時も、圓生は披露パーティーを欠席していた[34]
  6. 自叙伝での表現は正確には「嬉しかった師匠の死」[49]「嬉しかった。ただむやみに嬉しかった」[49]であるが、他者からの言及ではしばしば「円生が死んで嬉しかった」[50][51][52]という表現が用いられている。
  7. 『週刊文春』は一柳の自殺を「落語家の自殺というのは前例がないという」[58]と報じたが、実際には一柳より先に自殺した落語家が複数存在する。第二次世界大戦前の上方落語初代桂枝三郎初代桂ざこばは自殺であったとされ[59]、戦後でも柳家きん平が1966年に自殺している[60][61]。また五代目柳家つばめによると、つばめが五代目柳家小さんに入門した1952年4月から3年ほどの間に、春風亭枝女太しめた、三遊亭歌二、および桂右喜松の3名が自殺したといい[62]、同時期に三遊亭某(芸名不詳)も自殺を図ったが一命を取り留めて廃業したという[62]。なお春風亭一柳より後に自殺した落語家としては、二代目桂枝雀[63][60]四代目桂三木助[64][60]がいる。
  8. 林家木久蔵、三遊亭好生、桂文平三遊亭歌笑三遊亭生之助橘家三蔵柳家小きん三遊亭歌雀柳家さん弥金原亭朝太の10名が同時昇進[75]
  9. おれは男だ!』(Amazon Prime配信版、ASIN B0DHSQPH15)の第37話で、開始3分40秒付近のオープニングクレジットに「三遊亭好生」と記載がある。出演シーンは開始30分17秒 - 31分10秒付近。

出典

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  1. 春風亭一柳 1980, pp. 70, 103; 古今東西落語家事典 1989, pp. 457–458.
  2. 青山健三、梅林信夫 著「江戸の庶民娯楽―寄席と落語」、桜井正信 編『東京江戸今と昔: 歴史細見』八坂書房、1980年12月、89頁。NDLJP:9642072/56
  3. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 週刊文春 1981, p. 142.
  4. 古今東西落語家事典 1989, pp. 457–458.
  5. 1 2 3 4 5 6 7 8 「落語界の”異端児”自殺 春風亭一柳さん 芸に行き詰まった?」『読売新聞東京夕刊』1981年7月9日、11面。 ヨミダス歴史館にて閲覧。
  6. 1 2 川柳川柳 2004, pp. 141–142; 川柳川柳 2009, pp. 129–130.
  7. 春風亭一柳 1980, p. 240.
  8. 1 2 3 春風亭一柳 1980, p. 25.
  9. 1 2 春風亭一柳 1980, p. 26.
  10. 春風亭一柳 1980, p. 27.
  11. 春風亭一柳 1980, pp. 134–136; 週刊文春 1981, p. 142; 柳澤睦郎 1994, pp. 128–129; 池田博 1996, pp. 101–102; 川柳川柳 2004, pp. 141–142; 川柳川柳 2009, pp. 129–130.
  12. 春風亭一柳 1980, pp. 27–29.
  13. 1 2 春風亭一柳 1980, p. 33.
  14. 春風亭一柳 1980, p. 35.
  15. 三遊亭円丈 1986, p. 97; 三遊亭円丈 2018, p. 105; 池田博 1996, p. 101; 延廣眞治 2001, p. 39; 立川談四楼 2001, pp. 108–109; 川柳川柳 2004, pp. 141–142; 川柳川柳 2009, pp. 129–130.
  16. 春風亭一柳 1980, pp. 41, 86; 週刊文春 1981, p. 142; 柳澤睦郎 1994, p. 124; 延廣眞治 2001, p. 41; 三遊亭圓楽 2006, pp. 238–239.
  17. 1 2 現代落語事典 1977; 新版現代落語事典 1988.
  18. 1 2 週刊新潮 1981, p. 17.
  19. 1 2 延廣眞治 2001, p. 39; 川柳川柳 2004, pp. 141–142; 川柳川柳 2009, pp. 129–130; 春風亭一柳 1980, p. 97.
  20. 1 2 春風亭一柳 1980, p. 40.
  21. 立川談四楼 2001, p. 109; 柳澤睦郎 1994, p. 127.
  22. 週刊新潮 1981, p. 17; 柳澤睦郎 1994, pp. 124, 127; 立川談四楼 2001, p. 109.
  23. 週刊文春 1981, p. 142; 柳澤睦郎 1994, p. 125; 川柳川柳 2004, pp. 141–142; 川柳川柳 2009, pp. 129–130.
  24. 1 2 春風亭一柳 1980, pp. 100, 107–108.
  25. 春風亭一柳 1980, pp. 107–108.
  26. 春風亭一柳 1980, pp. 112–118; 週刊文春 1981, p. 142.
  27. 春風亭一柳 1980, pp. 115–116.
  28. 春風亭一柳 1980, p. 116.
  29. 春風亭一柳 1980, pp. 118–119; 週刊文春 1981, p. 142; 若一光司 1990, p. 197.
  30. 1 2 3 春風亭一柳 1980, p. 118.
  31. 1 2 春風亭一柳 1980, p. 122.
  32. 吉川潮 2009, p. 49; 春風亭一柳 1980, p. 122.
  33. 吉川潮 2009, p. 48.
  34. 川柳川柳 2009, p. 139.
  35. 春風亭一柳 1980, p. 123; 週刊文春 1981, p. 142.
  36. 春風亭一柳 1980, pp. 137–138; 川柳川柳 2004, pp. 141–142; 川柳川柳 2009, pp. 129–130.
  37. 春風亭一柳 1980, pp. 151–152.
  38. 1 2 3 春風亭一柳 1980, pp. 156–157.
  39. 春風亭一柳 1980, pp. 158–161.
  40. 1 2 3 春風亭一柳 1980, pp. 162–164.
  41. 1 2 春風亭一柳 1980, pp. 168–171.
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  43. 春風亭一柳 1980, p. 16; 三遊亭円丈 1986, p. 228; 三遊亭円丈 2018, p. 240.
  44. 三遊亭円丈 1986, p. 228; 三遊亭円丈 2018, p. 240.
  45. 春風亭一柳 1980, p. 8; 週刊文春 1981, p. 142; 若一光司 1990, p. 198.
  46. 春風亭一柳 1980, p. 14.
  47. 1 2 春風亭一柳 1980, pp. 12–13.
  48. 春風亭一柳 1980, p. 14; 週刊文春 1981, p. 142.
  49. 1 2 春風亭一柳 1980, p. 8.
  50. 1 2 3 4 立川談四楼 2001, p. 115.
  51. 1 2 3 4 5 6 吉川潮 2009, pp. 88–89.
  52. 1 2 杉江松恋 (2019年1月9日). 芸人本書く列伝classic vol.45”. 本芸 - hon-gei. 2022年1月22日閲覧。
  53. 週刊文春 1981, p. 142; 週刊新潮 1981, p. 17; 三遊亭生之助 1981, p. 36; 柳澤睦郎 1994, p. 131; 延廣眞治 2001, p. 39; 立川談四楼 2001, p. 115; 三遊亭圓楽 2006, pp. 238–239; 吉川潮 2009, pp. 88–89.
  54. 立川談四楼 2001, p. 115; 吉川潮 2009, pp. 88–89.
  55. 週刊文春 1981, p. 143; 三遊亭歌笑 1981, p. 37; 延廣眞治 2001, pp. 38–39.
  56. 週刊文春 1981, p. 141; 若一光司 1990, p. 196.
  57. 関山和夫 1985, p. 56.
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  61. 柳家つばめ 1967, pp. 16–17; 柳家つばめ 2009, pp. 24–26.
  62. 1 2 柳家つばめ 1967, p. 11; 柳家つばめ 2009, p. 17.
  63. 「桂枝雀さん(落語家)死去 落語界の異才、TVでも人気 自殺未遂から37日」『読売新聞東京朝刊』1999年4月20日、35面。
  64. 「桂三木助氏(本名・小林盛夫=落語家)死去 自宅で首つり自殺」『読売新聞東京朝刊』2001年1月4日、35面。
  65. 週刊文春 1981, p. 141; 週刊新潮 1981, p. 17.
  66. 週刊文春 1981, p. 143; 週刊明星 1981, p. 161.
  67. 1 2 三遊亭円丈 1986, p. 97; 三遊亭円丈 2018, p. 105.
  68. 三遊亭圓楽 2006, pp. 238–239.
  69. 川柳川柳 2004, pp. 165–166; 川柳川柳 2009, p. 150; 吉川潮 2009, pp. 88–89.
  70. 1 2 三遊亭歌笑 1981, p. 38.
  71. 三遊亭生之助 1981, p. 36.
  72. 立川談四楼 2001, p. 109.
  73. 春風亭一柳 1980, p. 54.
  74. 1 2 『笑点 五十年史』ぴあ株式会社〈ぴあMOOK〉、2016年9月、121頁。ISBN 978-4-8356-3118-9
  75. 吉川潮 2009, p. 49.
  76. 春風亭一柳 1980, pp. 169–170.
  77. 春風亭一柳 1980, p. 170.
  78. 1 2 3 春風亭一柳 1980, p. 173.
  79. 1 2 「皿廻し一柳情死を圖る」『朝日新聞』1899年8月5日、4面。 聞蔵IIビジュアルにて閲覧。「……落語柳派の社中にて壯士然たる愛嬌者皿廻はしの春風亭一柳事渡邊國太郞(三十四)が昨曉よし原京二の貸座敷松金樓にて娼妓にぎはひ(二十八)と小刀を以て咽喉のんどを突き情死を圖りし顛末を記さんに……
  80. 1 2 「皿廻し春風亭一柳の情死未遂」『読売新聞』1899年8月5日、4面。 ヨミダス歴史館にて閲覧。「……淺草區新旅籠町二番地石井方に止宿せる落語家皿廻し春風亭一柳こと渡邊國太郎(三十四年)とて寄席の客より受付と呼ばれては嬉しがり居る男なりしが……
  81. 1 2 「北廓の心中未遂(男は春風亭一柳)」『東京日日新聞』1899年8月5日、3面。毎索にて閲覧。「春風亭一柳といへば皿廻しとしてうか女子おなごの中に知らるれど…(中略)…渡邊國太郎(三十四)といへば知る人もなかるべき道樂もの……
  82. 「皿廻し一柳の放免」『読売新聞』1899年8月11日、4面。 ヨミダス歴史館にて閲覧。「皿廻し一柳の放免 去る五日吉原貸座敷に於て情死を謀りたる柳派の皿廻し春風亭一柳こと渡邊國太郎は……
  83. 1 2 古今東西落語家事典 1989, pp. 412, 457–458.
  84. 春風亭一柳 1980, pp. 170–171; 延廣眞治 2001, p. 39.
  85. 吉川潮 2009, p. 97.
  86. 吉川潮 2009, pp. 70–71.
  87. 1 2 春風亭一柳 1980, p. 171.
  88. 春風亭一柳 1980, p. 165; 川柳川柳 2009, pp. 144, 148.
  89. 春風亭一柳 1980, p. 134.
  90. 春風亭一柳 1980, pp. 69–71; 週刊文春 1981, p. 143.
  91. 春風亭一柳 1980, pp. 69–71.
  92. 春風亭一柳 1980, pp. 88–89.
  93. 春風亭一柳 1980, p. 103.
  94. 笑点探偵団『笑点の謎』河出書房新社、2001年2月、80頁。ISBN 4-309-26454-9
  95. おれは男だ! - ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇”. テレビドラマデータベース. 2024年2月10日閲覧。
  96. 「CM TIME」『週刊サンケイ』第24巻8号(通巻1273号)、1975年2月20日、29頁。
  97. 1 2 3 畑中政夫 2000, p. 61.
  98. 岡重徳「封印された過去 半世紀も前の落研の頃」(PDF)『日本歯科大学校友会KOYU Times』第29号、2020年4月、3頁。

参考文献

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書籍

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(文庫版)三遊亭円丈『師匠、御乱心!』小学館小学館文庫〉、2018年3月。ISBN 978-4-09-406499-5 
  • 古典芸能研究会 編『現代落語事典』光風社、1977年6月、34頁。NDLJP:12431207/22 
(新版)古典芸能研究会 編『新版現代落語事典』光風社、1988年6月、34頁。ISBN 4-87519-012-3 
(文庫版)川柳川柳『ガーコン落語一代』河出書房新社河出文庫〉、2009年11月。ISBN 978-4-309-40988-7 
(文庫版)五代目柳家つばめ「自殺した落語家」『落語の世界』河出書房新社〈河出文庫〉、2009年12月、17-27頁。ISBN 978-4-309-40996-2 

雑誌記事

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関連項目

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