言文一致

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言文一致(げんぶんいっち)とは、日常に用いられる話し言葉に近い口語体を用いて文章を書くこと、もしくはその結果、口語体で書かれた文章のことを指す。口語体で書かれた文章を口語文という。

ただし、話した通りそのままに文章として書くという意味ではない。

音声言語とそれに対応する文字言語をともにもつ言語にて問題となる。日本語で特に注釈なく用いられた場合、この語は日本語での言文一致をさす。以下の記述でも同様である。

日本語を主要な言語とする日本では、明治時代に言文一致運動の高揚からそれまで用いられてきた文語文に代わって行われるようになった。言文一致運動とは言文一致を実践することを主旨とする。したがって、言文一致の実践は言文一致運動と不可分だった。文脈によっては主に言文一致運動の意味で言文一致の語が用いられている場合がある。

日本語における言文一致[編集]

日本語の古典的な文体である文語は主に平安時代までに完成した。中世以降、次第に話し言葉との乖離が大きくなっていった。

明治時代には、文学者の中から改革運動(言文一致運動)が起こった。言文一致小説の嚆矢は、坪内逍遥に刺激を受けた二葉亭四迷の『浮雲』などである。二葉亭が『浮雲』(1887年)を書く際には、初代円朝師匠の落語を速記法により筆記した、落語家の初代三遊亭圓朝の落語口演筆記を参考にしたという。

また、ツルゲーネフなどロシア文学作品を翻訳した文体も既存の文語からの離脱の試みである。

当時は二葉亭以外にも、多くの作家が言文一致の新文体を模索した。その中でも、山田美妙における「です・ます」調の試みは、もうひとつの日本語表現の可能性として、小説言語の主流にはならなかったものの、後世へ大きな影響を与えた。若松賤子が「小公子」の翻訳で試みた「ありませんかった」のような文体も当時の注目を浴びたが、これは受け継ぐものが現れなかった。

しかし、そのころはまだ文語文の作品も多く書かれている。和歌に通い、古典の教養を持っていた樋口一葉は古文の呼吸をつかった雅文体で「にごりえ」「たけくらべ」などの作品を書いている。翻訳で言文一致を試みた森鴎外も、「舞姫」や「即興詩人」では文語にもどしている。評論の分野では北村透谷幸徳秋水は、漢文書き下しの文体を使って論文を書いていた。その点では、言文一致の運動がすぐに時代の主流になったわけではなかった。

このような新文体への挑戦は文学の分野で作家たちだけがしていたのではなく、当時の新聞雑誌記事などでも並行的に行なわれていた。特に従軍記者による戦地レポートや、速記による裁判の傍聴記録などで、積極的に言文一致の新文体が試みられていた。その結果、明治末になるとそれらは書き言葉として次第に確立し、一般の文章にも大きな影響を与えるようになった。自然主義文学の運動も、その普及に一役買った。

しかし、法律の言語は、戦前では文語文を用いて記述されていた。戦後は口語体となった。

例文[編集]

  • 文語体(漢文調):天ノ人ヲ生ズルハ億兆皆(みな)同一轍ニテ、之ニ附与スルニ動カス可カラザルノ通義ヲ以テス。即(すなわ)チ其通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ、他ヨリ之ヲ如何トモス可ラザルモノナリ。(福沢諭吉『西洋事情』1866年よりアメリカ独立宣言の一節)[3]
  • 口語体:秋九月中旬といふころ、一日自分がさる樺の林の中に座してゐたことが有ツた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま煖かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合ひ。(二葉亭四迷訳『あひびき』1888年)岩波文庫から
  • 口語体:文学極衰! この言葉を吾々は島田三郎氏、福沢諭吉翁及び其他一二の人から聞きました。今日の文学は世の好尚のために書く文学と云つて島田氏は嘆かれ、今の文学者に一機軸を出すものが無いとて福沢翁は呟かれ、其他の人は今日の文学を拝金主義の下に立つものと評されました。(山田美妙「文学極衰?」1890年)『近代文学評論大系』より
  • 文語体:石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。(森鴎外『舞姫』1890年)[1]
  • 文語体:例は威勢よき黒ぬり車の、それ門に音が止まつた娘ではないかと両親に出迎はれつる物を、今宵は辻より飛びのりの車さへ帰して悄然と格子戸の外に立てば、(樋口一葉『十三夜』1895年)岩波文庫から
  • 口語体:これから私が一身一家の経済のことを述べましょう。およそ世の中に何が怖いと言っても、暗殺は別にして、借金ぐらい怖いものはない。(福沢諭吉『福翁自伝』1899年)岩波文庫から
  • 口語体:小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行の電車に乗った。(略)田舎から出て来た純一は、小説で読み覚えた東京詞(ことば)を使うのである。(森鴎外『青年』1910年)[2]
    • 福沢の『西洋事情』及び鴎外の文章は青空文庫より

脚注[編集]

  1. ^ [1]
  2. ^ [2]

関連文献[編集]

  • 奥田靖雄 「標準語について」(雑誌『教育』1957年、通算77号に掲載。のち、『読み方教育の理論』むぎ書房,1974年,ISBN 9784838400638に再録。)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]