笑福亭枝鶴 (5代目)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
5代目 笑福亭 枝鶴しょうふくてい しかく
5代目 笑福亭 枝鶴
五枚笹は、笑福亭一門の定絞である。
本名 竹内 日吉
生年月日 (1945-09-05) 1945年9月5日(72歳)
出身地 日本の旗 日本
師匠 6代目笑福亭松鶴
3代目桂小文枝(のち5代目桂文枝)
弟子 6代目笑福亭枝鶴
名跡 1. 5代目笑福亭光鶴(1961年 - 1973年)
2. 5代目笑福亭枝鶴(1973年 - 1986年)
出囃子 『だんじり』
活動期間 1961年 - 1986年
活動内容 上方落語
家族 5代目笑福亭松鶴(祖父)
6代目笑福亭松鶴(父)
所属 松竹芸能(1961年 - 1986年)
備考
上方落語協会会員(1961年 - 1986年)

5代目 笑福亭 枝鶴(5だいめ しょうふくてい しかく、1945年9月5日 - )は、元落語家。祖父が5代目笑福亭松鶴、父が6代目笑福亭松鶴。本名は竹内日吉出囃子『だんじり』。愛称は「しーちゃん」、6代目松鶴は「しー」(子供の頃は「しーこ」)と呼んでいた。

来歴・人物[編集]

もともと落語家志望ではなかったが、学校の勉学がいやで中学卒業の1961年5月に実父である6代目松鶴に入門し、5代目笑福亭光鶴を名乗る。1970年から翌年頃にかけて、父・6代目松鶴の意向により3代目桂小文枝(のち5代目桂文枝)の預かり弟子となる。1973年10月、道頓堀角座にて、10代目桂小米2代目桂枝雀襲名、桂小春の4代目桂福團治襲名と同時に、5代目笑福亭枝鶴を襲名。その後、1978年名古屋大須演芸場近くの芸者と恋仲になり鉄板屋を開くため芸界を離れる(最初の廃業)、その後も放蕩癖があったため何度も廃業と復帰を繰り返したが、1985年に大須演芸場で父の6代目松鶴と10日間の親子会を開催し正式に復帰を発表。

しかし翌年に父が死去、7代目松鶴の襲名を嘱望されたが、大トリを務めるはずの6代目松鶴一周忌記念落語会(1987年9月22日から28日、浪花座[1])を無断欠席し連絡が取れなくなる。家を出たところまでは確認したが、その後行方不明になった[2]。数日後関係者が連絡を取ることができたが所属事務所松竹芸能との専属契約を解除され、上方落語協会からも除名追放。後に廃業し、芸界を引退。1989年頃には恐喝容疑で逮捕されたことがある。一門の筆頭弟子・笑福亭仁鶴が面倒を見ていたとの噂もあったが、現在の消息は不明。

持ちネタは『宿替え』『竹の水仙』『禁酒関所』『ろくろ首』『道具屋』『刻うどん』『へっつい盗人』など豊富であった。

弟子であった笑福亭小つる1984年以降、父の弟子に転じ、2008年7月に6代目枝鶴を襲名することが発表され、2010年10月22日に襲名した。

エピソード[編集]

  • 偶然にも誕生日の9月5日は祖父・5代目松鶴と同じ。因みに父・6代目松鶴の命日も9月5日。
  • 1970年から翌年頃にかけて、父・6代目松鶴の意向により3代目桂小文枝(のち5代目桂文枝)の預かり弟子となり、吉本興業の花月劇場チェーンに出演。高座や「はなしか団地」などに出演して一門の笑福亭仁鶴や月亭可朝、桂三枝(現・6代 桂文枝)、4代目林家小染らと共に芸を磨いていたが、1年間しか続かなかった。5代目文枝は『あんけら荘夜話』において、枝鶴について「父に対して甘えがある」「刹那刹那を生きている」「父の私生活が無茶苦茶なため、息子に対して押さえが利かない」と、的確な批評をしている。
  • その父と子としての関係も順調だったかどうかについては微妙で、特に子供の頃は冷たく扱われていたようである。その理由として6代目笑福亭松喬は自著で、子供の頃に次のようなことがあったとしている。父・6代目松鶴は生涯4度の結婚および同棲しており、枝鶴は最初の夫人との子で、最初の夫人とは死別、2番目と3番目は離婚で別れた[3]。4番目の相手が「あーちゃん」こと衣笠寿栄であった[4]。衣笠は今里新地の芸妓をしたあと教師の男性と結婚して二男一女をもうけたが、その夫は太平洋戦争に出征したまま帰らず、衣笠は戦争未亡人となった[4]。戦後は小料理屋を営み、そこに6代目松鶴が通うようになって気に入り同棲を始めるようになったが、結婚して入籍すると遺族年金が入らなくなり、さりとて6代目松鶴の稼ぎだけでは到底足らず、弟子の養いなどでやりくりが大変だから、遺族年金を受け取るために敢えて籍は入れなかった[5]。衣笠と同棲し始めた頃、一家は6代目松鶴、衣笠に日吉(枝鶴)と衣笠の連れ子の6人で住んでいたが、日吉の居場所がいつの間にかなくなり、やがて日吉は今里に住んでいた祖父・5代目松鶴の2番目の妻の元で暮らすこととなった[6]。ある時、日吉は徒歩で今里から帝塚山の松鶴宅まで行き、父に会いに行ったところ、「何しに来たんや、帰れ」と追い返された挙句、家の中から衣笠の連れ子が楽しく過ごしている声を聞いて、相当にショックを受けたとのこと[6]。このことは後年までずっと怨みとして記憶しており、仁鶴にこの出来事を話して「俺は絶対、あれに仕返ししたる」と恨み節を吐いていたこともあったという[6]
  • ビートたけし夫人との不倫スキャンダル騒動があった。たけし夫人はもともと上方少女漫才の出身であり、枝鶴とは旧知の間柄であった。たけしの度重なる不倫スキャンダルに悩んで相談に及んだところが、騒動になった。当時、たけしは笑福亭鶴瓶(枝鶴の弟弟子)とテレビで共演した際、「鶴瓶、コノヤロー!オレのカミさん返せ!」と首を絞め、鶴瓶が「たけし兄さん、オレやない!人違いや!」と返すやりとりがあった(当然、二人の顔は笑っており、一種のギャグであった)。
  • 一度目の結婚では、仁鶴・永隆子と同時に、よく落語会を開いていた千日前・自安寺で結婚式を挙げる予定だったが、当日に張本人の枝鶴が欠席するトラブルを起こし、仁鶴の命で代わりに席には笑福亭鶴光が座る一幕があった[1]。のち、一度目の結婚は破たんした[1]
  • 浪曲河内音頭の大ファンであった。十八番だった『竹の水仙』は初代京山幸枝若に直々口立て稽古をつけてもらったネタである。
  • 廃業の原因となった6代目松鶴一周忌記念落語会では、枝鶴は初日のトリに『鴻池の犬』、楽日のトリに『らくだ』を口演する予定であった[2]。そのうちの『鴻池の犬』は、松喬のテープを聴いて稽古していたという[2]。初日当日、枝鶴が行方不明になったことを知った松竹関係者は、縁起づけの鏡開きの司会をしていた松喬に枝鶴の代演させることとし、松喬は急きょ弟子に紋付を持ってこさせる羽目となった[2]。こうして予告された出番と異なることとなったが、その時点ではマスコミに枝鶴失踪の報は入っていなかったようで、松喬が予定されていた出番で出てこなかったのを見て「松喬、しくじったな」と思っていたところ、トリに枝鶴ではなく松喬が出てきたのを見て、初めて枝鶴が失踪したことを知り騒ぎになったという[7]。松喬は、枝鶴は『鴻池の犬』も『らくだ』も落語会本番までに覚えきることができず、そのことが不安になって失踪した、またそういう弱さを持った人だったと振り返っている[8]。楽日のトリも松喬が務め、結果として枝鶴失踪の穴を松喬が丸々埋める形となった[7][注釈 1]

弟子[編集]

  • 笑福亭枝鶴(6代目、2010年10月21日までは、笑福亭小つる)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 仁鶴は吉本興業所属のため、この落語会には口上以外出演しなかった(#おやっさん p. 83)。

出典[編集]

出典[編集]

  • 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
  • 『あんけら荘夜話』(5代目桂文枝談、青蛙房、1996年)P198-201
  • 6代目笑福亭松喬 『おやっさん 師匠松鶴と私』 うなぎ書房、2011年ISBN 978-4-901174-29-9

関連項目[編集]