ヴァレリー・ジスカール・デスタン

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ヴァレリー・ジスカールデスタン
Valéry Giscard d'Estaing
Valéry Giscard d’Estaing 1978.jpg

任期 1974年5月19日1981年5月10日

出生 (1926-02-02) 1926年2月2日
ドイツの旗 ドイツ国
Flag of Prussia (1918–1933).svg プロイセン自由州 コブレンツ
死去 (2020-12-02) 2020年12月2日(94歳没)
フランスの旗 フランスロワール=エ=シェール県オートンフランス語版
政党 フランス民主連合(- 2002年)
国民運動連合(2002年 - )
署名 Valéry Giscard d'Estaing signature.svg

ヴァレリー・マリー・ルネ・ジョルジュ・ジスカールデスタン(Valéry Marie René Georges Giscard d'Estaing[1]フランス語発音: [valeʁi maʁi ʁəne ʒɔʁʒ ʒiskaʁ dɛstɛ̃]1926年2月2日 - 2020年12月2日)は、フランス政治家。第20代フランス大統領フランス第五共和政・在任1974年 - 1981年)。ジスカールまたはVGEとも呼ばれる。

ジャック・シャバン=デルマスピエール・メスメル両首相の下で財務大臣を務めた後、1974年の大統領選挙で社会党のフランソワ・ミッテランに50.8%の得票率で勝利した。彼は在任中、離婚、避妊、中絶などの社会問題に対してよりリベラルな態度を示し、国と大統領職の近代化を試み、TGVのような広範囲なインフラプロジェクトを立ち上げ、フランスの主要なエネルギー源としての原子力発電への依存度を高めてきたことでも知られている。しかし、1973年のエネルギー危機後の景気後退により、彼の人気は低迷し、第二次世界大戦後の「栄光の三十年間」の終わりを告げることになった。ジスカール・デスタンは、統一されたばかりのフランソワ・ミッテランの左翼側と、右翼側の野党路線でド・ゴール主義を復活させたジャック・シラクの台頭からの、両側からの政治的な対立に直面した。1981年には、高い支持率にもかかわらず、ミッテランとの対決で48.2%の得票率で敗れた。

元フランス大統領として、ジスカール・デスタンは憲法評議会の委員を務めた。1986年から2004年までオーヴェルニュ地方議会議長を務めた。欧州連合(EU)との関わりが深く、特に「欧州の未来に関する条約」の議長を務め、不運な結果となった欧州憲法制定条約の起草に尽力した。2003年には、友人であるセネガルのレオポール・セダール・サンゴール前大統領の後任として、アカデミー・フランセーズに選出された。94歳と304日を生きた、史上最も長寿のフランス大統領となった。

略歴[編集]

本項目では基本的に「ヴァレリー」と呼称する。

生い立ち[編集]

ドイツコブレンツで、フランス人官吏エドモン・ジスカールデスタンの子として生まれた。父エドモンは元々「ジスカール」が姓であった。エドモンはフランス植民地金融社を1949年にSOFFO という名前で改組した(世界恐慌#証券パニックから世界恐慌へ)。ジスカール家は代々アフリカ植民地の利権を受け継いできた[2]

ヴァレリーの母は中世以来の貴族であるエスタン家フランス語版出身であった。ところが、1922年に妻の実家であるエスタン家の男系が断絶してしまう。この頃のフランスでは、フランス革命当時と違い共和制を支持する貴族の家系に対してはむしろ保護が与えられるべきとの考えが強まっていた。このため、議会はエスタン家嫡流に近い女性を妻としていたエドモンに対してエスタン家の継承を要請、これによって旧来の「ジスカール」に妻の実家である「エスタン」を重ねて(前置詞deが領地名の前に付くためd'Estaing)、以後「ジスカールデスタン」と名乗るようになったのである。ヴァレリーの誕生はその4年後の事である。

ヴァレリーの母方において、ヴァレリーはフランソワ・ジョルジュ=ピコの又甥であった。

青少年期・政界進出[編集]

一家はパリ8区フォーブール=サントノレ通り71番地に居住した。ヴァレリーは青少年期、16区ポンプ通りの私立小学校エコール・ジェルソン (École Gerson) を経て、クレルモン=フェランリセ・ブレーズ=パスカル、16区リセ・ジャンソン=ド=サイイ、5区リセ・ルイ=ル=グランCPGEと、いずれも名門校に学んだ。時はナチス・ドイツによるフランス占領時代、バカロレア資格を得た後同校CPGEに戻らずレジスタンス運動に身を置いた。第二次世界大戦後にパリエコール・ポリテクニーク理工科学校)と国立行政学院(ENA)[3]に学んだ。

国立行政学院を卒業後に父同様に財政監査総局フランス語版勤務を経て、エドガール・フォール首相の許で政策スタッフとなる。1956年の総選挙でアントワーヌ・ピネー率いる独立農民派(CNI)から国会議員に当選、第五共和政の成立でピネーが経済財務相として入閣すると、金融担当の秘書官となった。

1962年ミシェル・ドブレ内閣の改造人事で、経済財政相として初入閣。この時欧州政策をめぐって独立農民派主流と対立し、同党を脱退。新たに独立共和派(RI)を結成した。ジョルジュ・ポンピドゥー内閣でも閣内にとどまったものの、1966年罷免。それでも与党傍流として活動を続け、1969年から1974年まで再度経済財務大臣を務めた。

大統領だったポンピドゥーが急死すると、ドゴール派主流のジャック・シャバン=デルマスに対抗して大統領選挙に出馬。独立共和派は元より、中道派野党急進社会党や民主中道派・民主進歩中道派、更にはドゴール派の中でもシャバン=デルマスと対立していたジャック・シラクの支持まで取り付け、第1回投票では左翼統一候補だったフランソワ・ミッテランに後れを取ったもののシャバン=デルマスを上回る得票を獲得。決選投票でミッテランを破り、大統領に当選した。

大統領[編集]

1974年から1981年までの7年間にわたってフランスの大統領をつとめた。48歳での大統領就任は、当時のフランスでは3番目の若さであった。

外交上の代表的な業績としては、大統領在任中にサミット(先進国首脳会議)を西ドイツイタリア日本アメリカなどの西側主要各国の首脳に提案し、1975年に、イル=ド=フランス地域圏イヴリーヌ県ランブイエ第1回サミットを開催に導いたことが挙げられる。

このサミットにおいて、1970年代西側諸国を襲った石油危機への対応などが話し合われ、一定の成果を収めた他、冷戦下において西側先進国の結束を高めることに貢献したことや、石油危機以外にも経済面や金融面から一定の成果を収めたことなどから、その後も現在に至るまでサミットが毎年開催されることとなっている。

内政においては、参政権の21歳から18歳への引き下げやTGV建設の推進などを行った。また、大統領与党として1978年中道右派政党フランス民主連合を結成したが、一方でシラクの離反を招き、次の大統領選挙で社会党フランソワ・ミッテランに敗れ大統領の座を去った。

ところで、中央アフリカ帝国ボカサ1世は旧宗主国フランスから支持と援助を取り付けるため、当時のフランス大統領だったヴァレリーに莫大な贈賄工作をしたことを後に告白している。その工作が功を奏したためか、フランスからは皇帝として承認され、経済的支援も受けることに成功した。その後ボカサはクーデターによって政権を追われるとフランスに亡命し、ヴァレリーに働きかけて政権奪還の支援を要請したが、色よい返事を得ることができなかった。業を煮やしたボカサはヴァレリーへの贈賄工作を暴露する。このことによりヴァレリーの人気は急落し、選挙でミッテランに敗れる一因となった。

その後[編集]

大統領の座から去った後は、回顧録を出版し高い評価を得るなど、社会党政権下での中道右派の論客として存在感を示すとともに、主に外交面でその手腕を発揮した。また、2003年にはアカデミー・フランセーズの会員に選出された。2015年11月に元西ドイツ首相のヘルムート・シュミットが亡くなったことで、第1回サミットに参加した首脳で唯一の存命者となった。また、 彼が退任した時点で、前任者以前のフランス大統領経験者がすべて故人になっていたこと、ミッテランの後任であるジャック・シラク(1932年11月29日生まれ、2019年9月26日死去)以降の大統領がすべてジスカール・デスタンより後に生まれていることから、1996年1月8日に後任のミッテランが死去してからは最年長のフランス大統領経験者かつ、最古参のフランス大統領経験者となった。

2002年2月に設置された「欧州の将来に関する協議会」の議長に推され、2004年欧州連合(EU)拡大を前に、EUの将来像に関する諸国間の協議をまとめ、また欧州憲法条約の起草を担うなどの重責を果たしたが、一方で欧州大統領制・欧州合衆国を提唱し、東欧への性急なEU拡大トルコのEU加盟の可能性について批判したことで物議をかもしたといわれている。

2018年12月18日、自身の事務所でヘルムート・シュミット元西ドイツ首相に関する取材に応じ、記念写真撮影の際にドイツ人女性記者の腰を数回撫で回したとして2020年3月10日に被害者の女性よりフランス検察に告訴された。検察側は5月11日に捜査を開始したことを公表したが[4]、事務所は本人には記憶がないとコメントした[5]

2020年9月14日にパリ市内の病院に入院。肺の感染症と診断されたが新型コロナウイルス感染症には罹患しておらず、集中治療室で治療を受け9月17日に退院した。しかし11月15日、フランス中部トゥールの病院に再入院[6]。12月2日、新型コロナウイルス感染症のためロワール=エ=シェール県オートンフランス語版にある自宅にて94歳で死去した[7][8]

閨閥[編集]

ヴァレリーの妻をアンヌという。その母がマリー[9]。その兄はギイで[10]フレデリック・エルランゲルの孫娘[11]と結婚している。マリーの妹シャルロッテは[12]、ヘンリエッテ[13]の息子アルフレッド[14]と結婚した。ヘンリエッテの妹マリー[15]はルイ[16]と結婚した。ルイの姉アンヌは[17]、アメリウス[18]の息子アルナウド[19]と結婚した。そしてアメリウスの兄がアジュノル・ド・グラモンフランス語版英語版である。アジュノルと全く同じ名前を継いだ息子は三度結婚しているが、その妻にマルグリタ・ド・ロチルドフランス語版英語版がいる。彼女は、ナポリ家ロスチャイルドのマイアー・カールがもった六人目の子どもである。息子にクラブメッド会長アンリ・ジスカール・デスタンが居る。

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ フランス語における愛称は「VGEフランス語発音: [ve ʒe ə](ヴェ・ジェ・ウ)」。なお、姓の「Giscard d'Estaing」はトレデュニオン(ハイフン)でつながってはいないものの一つの(複合姓)である。
  2. ^ Lutte de classe n°69, "L'impérialisme français en Afrique noire", Novembre 1979
  3. ^ 通称エナ、エコール・ナシオナル・ダドミニストラシオン
  4. ^ “元仏大統領、性的暴行疑惑で捜査 ジスカールデスタン氏”. AFPBB News. フランス通信社. (2020年5月12日). https://www.afpbb.com/articles/-/3282596 2020年5月12日閲覧。 
  5. ^ “94歳元仏大統領、女性記者に性的暴行の疑い 現地報道”. 朝日新聞. (2020年5月12日). https://www.asahi.com/articles/ASN5D26GVN5CUHBI033.html 2020年5月12日閲覧。 
  6. ^ “ジスカールデスタン仏元大統領が再入院”. 時事ドットコム. 時事通信社. (2020年11月17日). https://www.jiji.com/jc/article?k=2020111700213&g=int 2020年12月3日閲覧。 
  7. ^ “ジスカールデスタン元大統領死去、94歳 新型コロナ感染―仏”. 時事ドットコム. 時事通信社. (2020年12月3日). https://www.jiji.com/jc/article?k=2020120300235&g=int 2020年12月3日閲覧。 
  8. ^ “Valéry Giscard d’Estaing, ancien président de la République, est mort”. ル・モンド. (2020年12月2日). https://www.lemonde.fr/disparitions/article/2020/12/02/valery-giscard-d-estaing-ancien-president-de-la-republique-est-mort_6061969_3382.html 2020年12月3日閲覧。 
  9. ^ Aymone Marie Sylvie Renée Françoise Sauvage de Brantès (de Faucigny-Lucinge), b. 1905/8/8, d. 1993/1/23
  10. ^ Jean-Louis Charles Guy Marie François de Faucigny-Lucinge, Príncipe de Faucigny-Lucinge, b. 1904/2/10, d. 1992/5/13
  11. ^ Liliane Marie Mathilde de Faucigny-Lucinge (d'Erlanger), b. 1902, d. 1945
  12. ^ Charlotte Marie Fabre-Luce (de Faucigny-Lucinge et Coligny), b. 1908/3/23, d. 1990/3/3
  13. ^ Henriette Fabre-Luce (Germain), b. 1869/12/29, d. 1952/3/23
  14. ^ Alfred Fabre-Luce, b. 1899/3/16, d. 1983/3/17
  15. ^ Marie Thérèse Germain, b. 1875/6/30, d. 1935/3/17
  16. ^ Louis Charles Georges Max Brincard, b. 1871/2/8, d. 1953/1/30
  17. ^ Anne Marie Brincard, b. 1868/7/11, d. 1961/2/6
  18. ^ Antoine Alfred Amérius Théophile de Gramont, b. 1823/6/2, d. 1881/12/18
  19. ^ Antoine Alfred Arnaud Xavier Louis de Gramont, b. 1861/4/21, d. 1923/10/30

外部リンク[編集]

いずれもフランス語:

公職
先代:
ジョルジュ・ポンピドゥ
フランスの旗 フランス共和国大統領
第20代:1974年 - 1981年
次代:
フランソワ・ミッテラン
先代:
Wilfrid Baumgartner (fr)
ミシェル・ドブレ
フランスの旗 フランス共和国経済財務大臣
第26代:1962年 - 1966年
第30代:1969年 - 1974年
次代:
フランソワ=グザヴィエ・オルトリ
Jean-Pierre Fourcade (fr)
党職
先代:
Jean Lecanuet (en)
フランス民主連合党首
1988年 - 1996年
次代:
フランソワ・レオタール
先代:
(結党)
フランス民主連合大統領選候補者
1974年、1981年
次代:
レイモン・バール
先代:
(結党)
自由民主党独立共和派代表
初代:1966年 - 1974年
次代:
Michel Poniatowski (en)
爵位・家督
先代:
アラン・ポエール
(代行)
アンドラの旗 アンドラ共同公
Joan Martí Alanisと共同
初代:1974年 - 1981年
次代:
フランソワ・ミッテラン
外交職
先代:
(創設)
先進国首脳会議議長
初代:1975年
次代:
ジェラルド・R・フォード
アメリカ
文化
先代:
レオポール・セダール・サンゴール
アカデミー・フランセーズ席次16
第19代:2003年 - 2020年
次代:
(空席)