イランアメリカ大使館人質事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search
イランアメリカ大使館人質事件
テヘランのアメリカ大使館の塀を乗り越える学生たち
テヘランのアメリカ大使館の塀を乗り越える学生たち
場所 イランの旗 イラン テヘラン
標的 アメリカ大使館と館員
日付 1979年11月4日-1981年1月20日
概要 イスラム法学校学生らがテヘランのアメリカ大使館を占拠
死亡者 なし
動機 イラン元皇帝の亡命をアメリカ合衆国政府が受け入れたことへの抗議
関与者 イスラム革命防衛隊
謝罪 なし
賠償 なし
テンプレートを表示

イランアメリカ大使館人質事件(イランアメリカたいしかんひとじちじけん、英語:Iran hostage crisis)は、1979年11月にイランで発生した、アメリカ大使館に対する占拠及び人質事件である。

事件発生へのいきさつ[編集]

パフラヴィー皇帝とアメリカ[編集]

訪米時のパフラヴィー皇帝とリチャード・ニクソン大統領夫妻
テヘランに到着したホメイニー
エジプトに到着したモハンマド・レザー・パフラヴィー

第二次世界大戦後のイランは、パフラヴィー朝の皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーが、アメリカをはじめとする欧米諸国からの支援を元に開発独裁と親欧米化路線を進め、欧米諸国の外国資本の導入に努めた。また、日本飛躍的な経済成長に注目して「白色革命」に着手し、土地の改革、国営企業の民営化、労使間の利益分配、教育の振興、農村の開発などの改革を実行したほか、女性解放をかかげてヒジャブの着用を禁止し、婦人参政権を確立するなど政教分離原則化を進めた。

さらにイスラム圏ではトルコに次いでイスラエル国交を樹立した[1][2]。この様な近代化および政教分離政策は欧米諸国から歓迎され、特にアメリカの歴代政権はパフラヴィー皇帝に対する支援を惜しまなかった。

しかしこれらの政策は、ルーホッラー・ホメイニーイスラム法学者の反発を招いた。これに対してパフラヴィー皇帝はイスラム原理主義者をはじめとする急進派を中心にした反体制派を弾圧、投獄するに至った。このため、反体制派はフランスパリ亡命を余儀なくされていた[3]

イラン革命[編集]

しかし、1970年代中盤に起きたオイルショック後の急速な原油価格の安定化などを受けてイラン経済が不調に陥ったことや、国内の貧富の差が広まったことなどを受けて皇帝に対する国民の不満が高まったことなどを追い風に、イスラム原理主義的な反体制派は、次第に無学農民労働者階級からの支持を受けることとなった[3]

なお、アメリカを後ろ盾とするパフラヴィー皇帝の西洋化と開発独裁体制に対する反体制運動は、ホメイニーをはじめとするイスラム主義者のみならず、モジャーヘディーネ・ハルグソ連などが支援した[4]イラン共産党(トゥーデ党)などの左翼なども参加して激化し、国内ではこれらの勢力の資金援助を受けたデモストライキが頻発した。

さらにホメイニーを指導者とするイスラム教十二イマーム派シーア派)のイスラム法学者が支柱となった反体制勢力が、国内外から帝政打倒を目的とした活動を行い、1979年1月にイラン革命が発生した。その結果、1月16日に「休暇のためにイランを一時的に去る」と称して、パフラヴィー皇帝が政府専用機ボーイング727を自ら操縦し、皇后や側近とともに友好的な関係にあるエジプトに亡命した[3]

その後、2月1日にホメイニーとその一派はエールフランスの特別機で亡命先のパリからテヘランに戻り、ただちにイスラム革命評議会を組織した。2月11日に評議会はパフラヴィー皇帝時代の政府から強制的に権力を奪取し、イランにおける唯一の公式政府となり、ここに革命は成功した。

元皇帝のアメリカ入国[編集]

パフラヴィー元皇帝とその家族、側近らは一旦はエジプトカイロに亡命した後、モロッコバハマメキシコを転々とした。その後、パフラヴィー元皇帝とその家族は「の治療」のためという名目でアメリカへの入国(事実上の亡命)を求め、アメリカ政府に接触した。

アメリカのジミー・カーター大統領は、この要請を受けることでイランの新政権との間で軋轢が起きることを憂慮し、この要請を退けようとしたが、パフラヴィー元皇帝の友人だったヘンリー・キッシンジャー国務長官らの働きかけを受け、最終的に「人道的見地」からその入国を認め、元皇帝とその一行は10月22日ニューヨークに到着し、アメリカに入国した[3]

占拠事件[編集]

大使館への不法侵入[編集]

大使館前で星条旗を逆さに広げる学生グループ
シュレッダーにかけられた大使館の機密書類

10月22日以降、ホメイニーらイスラム革命評議会が敵視するアメリカが、同じく敵視する元皇帝を受け入れたことにイスラム法学校の学生らが反発し、テヘランにあるアメリカ大使館を囲んだ抗議デモを行った。これに対して新政権は何も対処せず黙認、放置した。

その後デモ参加者は増え続け、ついに11月4日に学生たちの一部が塀を乗り越えて大使館の敷地内に侵入した。なお、実際にはこの学生らによる行動は、シーア派の原理主義者が実権を握った革命政府の保守派と革命防衛隊が裏でコントロールしていたため、原理主義者が実権を握る新政府のお飾りでしかなかった、穏健的なメフディー・バーザルガーン首相ら政府閣僚および、革命政府の指導下に入った警察はこれに対する制止活動は事実上できなかった。

大使館占拠[編集]

大使館の敷地には次々に学生たちが侵入してきたが、大使館の警備にあたっていたアメリカ海兵隊員も、事態の悪化を恐れてこれに対して制止、発砲することはできなかったため、学生たちは間もなく大使館の建物内に侵入しこれを占拠し、アメリカ人外交官や海兵隊員とその家族の計52人を人質に、元皇帝のイラン政府への身柄引き渡しを要求した[3]

当然これらの不法行為とそれに対するイラン当局側の対応は、「外交関係に関するウィーン条約」による、「接受国(大使館所在当該国)は、私人による公館への侵入・破壊及び公館の安寧・威厳の侵害を防止するために、適当なすべての措置をとる特別の義務を負う(同22条2)」という規定に違反していたため、これを放置するのみならず事実上支援していたイラン政府は諸外国からの大きな非難を浴びた。

なお、大使館員や領事館員、海兵隊員らは、学生らに大使館の建物を占拠されるまでのわずかな間に、大量の各種機密書類やアメリカ合衆国ドル紙幣シュレッダーにかけたり焼却処分にしたほか、通信機器やビザスタンプなどを破壊することに成功した。しかしシュレッダーにかけられた書類の多くは、イラン当局に動員された主婦や子供たちにより時間をかけて復元させられ、大使館員や情報部員の情報を含めた機密情報がイラン当局側に渡ることになった。

「カナダの策謀」[編集]

なお、11月4日の占拠事件発生の際、複数の領事部のメンバーが大使館からの脱出に成功している。領事部にいた館員のうちの1人は最終的にイギリス大使館に逃れ、イギリス大使館の現地人職員の手引きで出国ビザを取得し、後にイランから空路で脱出した。また、総領事らのグループも大使館内から脱出したが、彼らはイギリス大使館に直接向かうルートをとらなかったため、早期にイラン当局に捕えられ大使館に戻された。

「カナダありがとう」と書かれた幕を掲げるアメリカ人

別の6名の領事部員達のグループも脱出に成功したが、イギリス大使館にたどり着くことができず、グループの1人の自宅で数日間を過ごした。その後イギリスの民間人の住宅やカナダ大使や同国の出入国管理局高官の公邸、スウェーデン大使館やスウェーデン領事のアパートに分散して匿われた後、カナダ大使公邸に集まった。その後ケン・テイラー大使は、本国の外務省に対してこれらの6人の救出を依頼した。

直ちにカナダ政府はアメリカ政府にこの事実を伝え、脱出計画の依頼を受けたアメリカ中央情報局(CIA)のアントニオ・J・メンデスらが、館員らをカナダから派遣された農業調査員や映画の撮影スタッフに偽装させて脱出させる計画を立案した。最終的に『アルゴ』という架空の映画のカナダ人の映画撮影スタッフに変装させて、テヘランから脱出させる作戦を実行に移した(カナダの策謀)。

作戦成功後にアントニオ・J・メンデスを祝福するカーター大統領

救出作戦の実行に際してカナダ政府枢密院令を出し、この6人とメンデスらCIAの作戦グループにカナダのパスポートを発給、更にカナダ政府とアメリカ政府の緊密な協力のもと作戦を進め、1980年1月27日に、6名の館員とメンデスら作戦グループは、イラン政府当局関係者の目を掻い潜ってテヘランのメヘラーバード国際空港にてチューリヒ空港行きのスイス航空機に搭乗し脱出に成功した。

この作戦は、計画の時点でカナダの一部のマスコミに漏れたが、6名が無事に脱出するまで記者により伏せられていた。しかし6人の帰国後明らかにされ、その結果、依然として大使館に人質が残る中で、6人の存在をフロリダ州の政府施設に秘密裏に隠蔽しようと考えていたアメリカ政府の計画が実行不能となった。また、残る人質の安全を考えて米加両国政府は、CIAがこの件において果たした役割を機密にした。実際にCIAの関与は、ビル・クリントン政権下の1997年になるまで明らかにされなかった。

なお、作戦の計画と実行の一部始終は、2012年に『アルゴ』という題名でベン・アフレックにより映画化され、第85回アカデミー賞において作品賞など3部門を受賞している。

人質の待遇[編集]

大使館に向かうバニーサドル暫定外相
人質となった大使館員ら

イラン政府及び学生グループはこれらの人質を「ゲスト」と称し、アボルハサン・バニーサドル暫定外相に視察に行かせたほか、「非常に気をつけてもてなしており感謝されている」と国内外のメディアに対して報じさせた。実際は人質になった外交官と海兵隊員、その家族らはスパイ容疑をかけられ、大使館の敷地内にある建物の中に軟禁状態に置かれ、通信や行動の自由を奪われただけでなく、占拠当初より興奮した学生らから暴力を受けるなどした。

さらにその後も、人質の私物の窃盗や私語の禁止のみならず、殴打や手足の拘束、長期間の独房や冷凍庫内への監禁、さらには2人の海兵隊員に目隠しをしたまま、見せしめのために大使館前のパレードを行うなどの残虐行為を受けていた。これらの残虐行為を受けて、4人の館員が逃亡を試み、2人の館員が自殺未遂を起こしたほか、1人の館員がハンガーストライキを行った。

また、大使館占拠当時イラン外務省に出向いていた3人の大使館員は、大使館占拠後数か月間外務省内に軟禁され、食堂で宿泊し浴室下着などを洗濯することを余儀なくされた。さらに11月4日に、この事件の早期解決を望んでおり、政府内保守派と対立していたとされる暫定政権のバーザルガーン首相が辞任した後は、外務省内に軟禁された大使館員は部屋の外への出歩きが制限されるなど、行動範囲がさらに制限されるようになった。

なおその後、人質になった館員に対してカナダなどの中立国かつアメリカの友好国の外交官による接見が認められた。この機会を通じて、人質となった館員とアメリカ国務省の間の秘密連絡が数度に渡り行われた。

また、11月9日には、「抑圧された少数民族女性への心遣い」と称して、2人のアフリカ系アメリカ人男性館員と、1人の白人女性館員が釈放されたほか、同月にはもう1人アフリカ系アメリカ人の館員が釈放された。しかし他のアフリカ系アメリカ人の男性館員と女性館員は最後まで釈放されないままであった。また、1980年7月には、1人の館員が重度な多発性硬化症と診断されたことで解放された。

1980年の夏以降は、人質に対する食糧配給やその他の管理効率の向上という名目、実際は逃亡や救出を困難にするという目的で、人質の一部がテヘラン近郊の刑務所に移された。1980年11月から解放までの期間は、浴槽と温水シャワー、洗濯機などが完備された、元秘密警察の長官で1970年8月に暗殺されたテイームール・バフティヤールの屋敷に集められ軟禁されることになった。

アメリカ国内の反応[編集]

抗議活動を行うアメリカ市民

事件が起こると同時に、アメリカ国内では国際法を無視して犯罪行為を公然と行うイランとその政府に対する大きな非難が沸き起こり、アメリカ国内にあるイラン大使館や領事館前でデモが行われたほか、在米イラン人(その多くは旧政権下でアメリカに渡り、その後革命のため帰国できなくなった革命政権に対して批判的な人たちである)に対する暴力事件が起こった。

さらに、学生グループの乱入に対して武力で反撃せずに大使館を明け渡した、大使館員及び海兵隊員に対する謂われなき批判さえ行われた他、軍事的手段による人質救出作戦を行わないジミー・カーター政権に対する批判も巻き起こり、改選に向けて動き出そうとしていたカーター政権の政権運営に影響を与えた。

人質救出作戦の失敗[編集]

イーグルクロー作戦中に事故を起こした輸送機の残骸

アメリカ政府はイラン政府を懐柔するために、パフラヴィー元皇帝を12月5日にアメリカから出国させてパナマへ送ることで事態の打開を図った。しかし、ホメイニー率いる保守派が実権を握るイラン政府は大使館の占拠を解くどころか、それを支援するなどアメリカに対して強硬な態度を取り続けた。さらにアメリカ国内では、保守派を中心に、軍事的手段による人質開放作戦を行わないカーター政権に対する批判が消えなかった。

これに対してカーター大統領は、1980年4月24日から4月25日にかけて人質を救出しようと、ペルシャ湾に展開した空母艦載機による「イーグルクロー作戦」を発令し、軍事力による人質の奪還を試みた[3]

しかし、作戦開始後に作戦に使用していたヘリコプターシコルスキー・エアクラフトRH-53D シースタリオンが故障した上に、ロッキードC-130輸送機とヘリコプターが接触し、砂漠上で炎上するという事故が起き作戦は失敗した[3]。これによってイラン政府はさらに態度を硬化し、事態は長期化する傾向を見せた。またこの後、さらなる救出作戦の実施に備えて、人質はイラン国内に分散して軟禁されることになった。 

解決[編集]

アメリカ空軍基地に着いた人質
アメリカ軍ボーイングVC-137輸送機で帰国した人質

アメリカ政府は軍事力による人質の解放を一旦は諦め[5]サウジアラビアヨルダンなどのアメリカと近いイスラム諸国などによるイラン政府の説得を試みるが、事態は膠着したままであった。

ところが、1980年7月27日にパフラヴィー元皇帝が、最終的な亡命先となったエジプトカイロで、アンワル・アッ=サーダート大統領の保護下で死去したことで、学生らによる大使館占拠の根拠が消滅した。これを受けてアメリカ政府とイラン政府は引き続き水面下で交渉を続け、両国間の妥協点を模索した[3]

その後アメリカで行われた大統領選挙で、再選を狙ったカーターが共和党ロナルド・レーガンに敗北した。その後、イランは仲介国と人質の返還でアメリカと合意し、レーガンが新大統領に就任し、カーターが大統領の座から退任する1981年1月20日に人質が444日ぶりに解放された。

なお、このタイミングでの人質の解放については、後に明らかになる「イラン・コントラ事件」と絡めて、レーガン陣営とイラン政府との間の裏取引の存在を主張する、民主党支持者を中心としたジャーナリストも存在する。

帰国[編集]

人質たちはアメリカ政府が用意した特別機でテヘランを後にし、西ドイツヴィースバーデンにあるアメリカ空軍基地を経由して帰国の途に就いた[3]。帰国後人質たちは病院に検査入院した後、自宅に戻った。

なお、この事件の解決後40年近くが経っても、イスラム教指導者が実権を握り続けるイラン政府によるアメリカ政府への謝罪は全く行われていない上に、両国間の国交は断絶されたままであり、さらに核開発を続けているイランに対するアメリカによる経済制裁が行われている。

駐英イラン大使館占拠事件[編集]

「イーグルクロ―作戦」が行われた直後の1980年4月30日に、ホメイニーらペルシア人が主体のイラン政府と対立するアラブ人組織「アラブ自由と民主革命運動(DARLA)」の6人が、イラン政府に捕えられていたアラブ系活動家の開放を求めて、イギリスのロンドンにあるイギリス大使館に26人の人質を取り立てこもる事件(駐英イラン大使館占拠事件)が発生した。

5月5日に人質1人が殺害されたことから、イギリス陸軍の特殊部隊「SAS」が突入し、人質1人が死亡したものの残りの人質は無事解放された。なおこの際に5人の犯人グループを殺害し1人を逮捕した。なお、この事件とテヘランのアメリカ大使館人質事件に直接の関係はなかった。

脚注[編集]

  1. ^ Timeline of Turkish-Israeli Relations, 1949–2006”. Turkish Research Program. Washington Institute for Near East Policy (2006年). 2018年1月8日閲覧。
  2. ^ Turkey and Israel”. Smi.uib.no. 2011年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月8日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i 『昭和55年 写真生活』p8-9(2017年、ダイアプレス)
  4. ^ 「The Fall of a Shah」 BBC 2009年2月27日 ファラフ皇后の証言
  5. ^ しかし、裏では第160特殊作戦航空連隊の前身となる第101師団隷下のヘリ部隊による特殊作戦用ヘリ開発と奪還計画が存在した。

関連項目[編集]