クロード・レイモンド・ウィッカード

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クロード・レイモンド・ウィッカード

クロード・レイモンド・ウィッカード(Claude Raymond Wickard, 1893年2月28日 - 1967年4月29日)は、アメリカ合衆国政治家フランクリン・ルーズベルト政権で1940年から1945年までアメリカ合衆国農務長官を務めた。

生い立ちと初期の経歴[編集]

1893年2月28日、クロード・レイモンド・ウィッカードはインディアナ州キャロル郡カムデン近郊において誕生した[1]。ウィッカードは1915年パデュー大学を卒業し、農学の学士号を取得した[2]。ウィッカードは在学中、畜産を専攻した[3]。大学卒業後、ウィッカードは家族と農場経営を行った。ウィッカードの農場は成功を収め、1927年に農業誌プレイリー・ファーマーで「インディアナの農場主マスター」に選ばれた[4]

インディアナ州での政治[編集]

1932年、ウィッカードはインディアナ州上院議員に選出され、1933年まで1期のみ務めた[1]。続いてウィッカードは1933年から1937年まで、州農業調整局の穀物課および養豚課において課長補佐を務めた[4]1937年から1940年までは、州農業調整局で中北部担当部の部長を務めた[2]

アメリカ合衆国農務省での政治[編集]

農務長官時代のウィッカード

1940年3月、ウィッカードはフランクリン・ルーズベルト政権で農務次官に任ぜられた。ウィッカードはニューディール政策で実施された農業計画について分析を行い、精度の高い推計を行った。ウィッカードは1940年のトウモロコシ生産量の予測を行い、後の公式値に極めて近い値を算出した[5]1940年9月農務長官ヘンリー・ウォレス副大統領指名を受けて辞任すると、ウィッカードは後任の農務長官として任命を受けた[3]。ウィッカードは「ウォレス前長官の政策路線を継承するつもりだ」と述べた[5]。ウィッカードは第二次世界大戦中、戦時食糧公社を指揮した。ウィッカードは農業生産力の向上を愛国心と絡めて勧奨し、「食糧こそが勝利をもたらし、平和を描き出す」とのスローガンを掲げた[6]

晩年[編集]

1945年6月、ウィッカードは農務長官を辞任した。ウィッカードは農村電化公社長官となり、1953年まで務めた[2]1956年、ウィッカードは連邦上院議員の民主党候補となったが、共和党の現職候補ホーマー・ケイプハートに敗れた[7]

1967年4月29日、ウィッカードは自動車事故により死去した。ウィッカードはインディアナ州デルファイ南方の国道421号州道18号の交差点において、一時停止標識を無視した。ウィッカードの乗用車は砕石を搭載したトラックと衝突した[8]。ウィッカードの遺体はインディアナ州フローラメイプルローン墓地に埋葬された[9]

脚注[編集]

  1. ^ a b The Political Graveyard(英語)
  2. ^ a b c NNDB(英語)
  3. ^ a b United States Department of Agriculture(英語)
  4. ^ a b Miller Center Public Affairs, University of Virginia(英語)
  5. ^ a b TIME Magezine, Aug. 26, 1940(英語)
  6. ^ Conrey, Guy W. (July 1974). "Agriculture and the War" (PDF). The Ohio Journal of Science 42 (4): pp 167–169. Retrieved 2008-07-06.  (英語)
  7. ^ Homer E. Capehart, 1938-1962(英語)
  8. ^ "Agriculture Secretary for FDR Killed in Crash," The Daily Plainsman (Huron, S.D.), April 30, 1967, p.6; "Former Secretary of Agriculture Claude Wickard Killed in Crash," Kokomo Morning Times, April 30, 1967.(英語)
  9. ^ クロード・レイモンド・ウィッカード - Find a Grave(英語)

外部リンク[編集]

公職
先代:
ヘンリー・アガード・ウォレス
アメリカ合衆国農務長官
1940年9月5日 - 1945年6月29日
次代:
クリントン・プレスバ・アンダーソン