ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク
ヨハン・ ルートヴィヒ・グラーフ・シュヴェリン・フォン・クロージク Johann Ludwig Graf Schwerin von Krosigk | |
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生年月日 | 1887年8月22日 |
出生地 |
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没年月日 | 1977年3月4日(89歳没) |
死没地 |
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出身校 |
ハレ大学 ローザンヌ大学 オックスフォード大学 |
所属政党 | 国家社会主義ドイツ労働者党(1937年入党) |
称号 |
シュヴェリン伯爵 一級鉄十字章(1914年章) 黄金ナチ党員バッジ |
配偶者 | エーレンガルト・フォン・プレッテンベルク |
内閣 |
フランツ・フォン・パーペン内閣 クルト・フォン・シュライヒャー内閣 アドルフ・ヒトラー内閣 ヨーゼフ・ゲッベルス内閣 ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク内閣 |
在任期間 | 1932年6月1日 - 1945年5月23日 |
元首 |
パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領 アドルフ・ヒトラー総統 カール・デーニッツ大統領 |
在任期間 | 1945年5月1日 - 1945年5月23日 |
元首 | カール・デーニッツ大統領 |
“ルッツ”ヨハン・ ルートヴィヒ・グラーフ・シュヴェリン・フォン・クロージク(Johann Ludwig "Lutz" Graf Schwerin von Krosigk 発音 、1887年8月22日 - 1977年3月4日)は、ドイツの政治家、貴族。
フランツ・フォン・パーペン、クルト・フォン・シュライヒャー、アドルフ・ヒトラーの3代の内閣において財務相を務めた。ヒトラー内閣の財務相時代にはユダヤ人を社会から排除する法律に携わった。第二次世界大戦最末期の1945年5月にはカール・デーニッツの臨時政府(フレンスブルク政府)で首相代行を務めた。戦後、戦犯容疑でニュルンベルク継続裁判の大臣裁判にかけられ、有罪判決を受けた。
経歴[編集]
生い立ち[編集]
ドイツ帝国領邦プロイセン王国ザクセン県のラートマンスドルフ(現ザクセン=アンハルト州シュタースフルトに生まれる。父の家系はアンハルトの貴族クロージク家。母の家系はメクレンブルクとポンメルンの貴族シュヴェリン家であった[1]。
1893年からロスレーベンの修道院学校に通う[1]。アビトゥーア合格後の1905年からハレ大学、ローザンヌ大学、オックスフォード大学で法学と政治学を学ぶ[1][2]。1909年から第一次公務員試験に合格し、ナウムブルクでプロイセン王国公務員の修習生として務めた[1]。1910年からはシュテッティンの地方公務員となった[2]。1914年には最終試験にも合格した[2]。
第一次世界大戦においては第2ポンメルン槍騎兵連隊に予備役将校として入隊した。戦傷を負い、一級鉄十字章を受章した[2]。戦争終結までに中尉に昇進した[1]。
1918年にプレッテンベルク家の男爵令嬢エーレンガルトと結婚した。夫妻は四人の息子と五人の娘に恵まれた[1]。
第一大戦後、財務省勤務[編集]
1920年に上シレジアのヒンデンブルク市(現ポーランド領ザブジェ)役所に試補として勤務[1]。
同年、ベルリンの財務省に高級官僚として招かれ[1]、同省の参事官の文官階級を得た[2][3]。1922年に文官階級が上級参事官に昇進[1][3]。1924年に文官階級が課長に昇進した[1][3]。
1925年、母方の伯父アルフレートの養子となりシュヴェリン伯爵(グラーフ・シュヴェリン)の称号を継承、姓をグラーフ・シュヴェリン・フォン・クロージクと改める[1]。
1929年に文官階級が局長に昇進し、財務省予算部の部長を任せられる[1][3]。さらに1931年には賠償部の部長を兼務した[1]。しかし財務大臣になるまで彼は政治的にはあまり活動してこなかった[4]。
財務相に就任[編集]
パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の大統領内閣として1932年6月1日に成立したフランツ・フォン・パーペン内閣に財務大臣として入閣した。ヒンデンブルク大統領の個人的要請を受けての入閣だった[4]。以降、第二次世界大戦でのドイツの敗戦までドイツの財務大臣の地位を保持し続けることになる。
1932年6月16日からドイツの賠償問題に関するローザンヌ会議がイギリス首相ラムゼイ・マクドナルドを議長として行われ、クロージクは、首相パーペン、外相コンスタンティン・フォン・ノイラート男爵、経済相ヘルマン・ヴァルムボルトらとともに同会議に出席した[5]。その結果、7月9日に締結されたローザンヌ協定によってドイツは賠償金額をだいぶ減らされたが、なお30億マルクの支払いを要求された[5][6]。
首相パーペンと内閣の最大の実力者クルト・フォン・シュライヒャー国防相が対立を深めると1932年12月2日の閣議でクロージクは外相ノイラートとともにシュライヒャー断固支持を表明し、パーペンの失脚に一役買った[7]。12月3日に成立したクルト・フォン・シュライヒャー内閣にも財務大臣として留任した。シュライヒャー内閣は1933年1月28日に倒閣したが、その後を受けて1月30日に成立したアドルフ・ヒトラー内閣でも留任することになる。
ヒトラー内閣の財務相[編集]
ヒトラー内閣においてナチ党員閣僚は首相ヒトラー、内相ヴィルヘルム・フリック、無任所相ヘルマン・ゲーリングの三名のみであった。他はドイツ国家人民党を代表しての入閣者であるアルフレート・フーゲンベルクと鉄兜団を代表しての入閣者であるフランツ・ゼルテを除いて、全て大統領内閣時代からの閣僚たちであった。クロージクもそうである。保守閣僚がナチ党閣僚三人を取り囲んでいた。
クロージクは宣誓の直前になって将来の財政路線についてヒトラーからいくつかの約束を取り付けている[8]。
1933年4月、ヒトラーの介入によりアルトゥーア・ツァルデン次官(のち1944年にゲシュタポに逮捕され自殺)が更迭され、ナチス党の財政専門家であるフリッツ・ラインハルトが次官に就任。ラインハルトは税政などを独断で動かすようになり、実質的に財務省の支配権を握った。しかしフォン・クロージクは、ナチス・ドイツ時代を通じて財務相の地位に留まった。1937年1月30日にはヒトラーよりナチス党員名誉金章を授与され、同時にナチ党に入党している(党員番号3,805,231)。またドイツ国法学会の会員にもなっている。経済相ヒャルマル・シャハトとともにドイツ再軍備計画の監督にあたった[2]。
クロージクは、経済相シャハトと異なり、ヒトラーの反ユダヤ主義政策に反対せず、ユダヤ人排除の法律に携わった[2]。1933年4月7日に公布されたユダヤ人を公務員から排除する「職業官吏再建法」に首相ヒトラーと内相フリックとともに署名している[9]。1938年11月19日には内相フリック、労働相ゼルテとともにユダヤ人を公的な福祉事業から排除する法律に署名した[10]。
1938年の閣議を最後に彼は事務のみをもっぱらとし、以後は政治の場に姿を現すことはほとんどなかった[1]。
第三帝国最後の首相(代行)[編集]
第二次世界大戦末期の1945年4月21日にソ連軍が迫るベルリンを脱出。その後ヒトラーはベルリンの地下壕内で遺言書をしたため、海軍総司令官カール・デーニッツ元帥を大統領に、宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスを首相に、そしてフォン・クロージクを財務相に指名して4月30日に自殺した。
しかし、デーニッツはヒトラーの遺言を無視して自ら首脳陣を選出し、軍需相アルベルト・シュペーアの強い推薦で、フォン・クロージクを臨時政府の首相代行(筆頭閣僚)兼外相[11]に指名した。ちなみに、ヒトラーの遺言で外相に指定されていたのは、アルトゥル・ザイス=インクヴァルトである。
ただし降伏直前の混乱の中でのことであり、実質的な職務も権限もほとんどなかったが、デーニッツに「条約による降伏」を薦めるなどを行っている。なお彼は5月2日にドイツ国民に対するラジオ演説で、ゲッベルスの原稿から引用する形で「鉄のカーテン」について言及したが、これはこの言葉が広まるきっかけとなったウィンストン・チャーチルのフルトン演説(1946年3月)よりも早い使用例である。
第二次大戦後[編集]
ドイツ降伏後の1945年5月23日、フォン・クロージクは連合国軍に逮捕された。ニュルンベルク継続裁判の大臣裁判においては財務省の責任者として第二次世界大戦にユダヤ人の財産を奪った戦犯とされ、1949年4月14日に懲役10年の判決が下された[3]。ランツブルク刑務所に投獄された。
しかし米ソ冷戦の中でアメリカはドイツ戦犯の大量恩赦を行うようになり、クロージクも1951年1月31日に恩赦を受けて出所した。戦後は西ドイツのエッセンで暮らし、財政に関する著書や回顧録を出版した。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 阿部良男『ヒトラー全記録 : 1889-1945 20645日の軌跡』柏書房、2001年。ISBN 978-4760120581。
- ロベルト・ヴィストリヒ(en)『ナチス時代 ドイツ人名事典』滝川義人訳、東洋書林、2002年。ISBN 978-4887215733。
- ラウル・ヒルバーグ著『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 上巻』望田幸男・原田一美・井上茂子訳、柏書房、1997年。ISBN 978-4760115167。
- ラウル・ヒルバーグ著『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 下巻』望田幸男・原田一美・井上茂子訳、柏書房、1997年。ISBN 978-4760115174。
- ハンス・モムゼン(de)『ヴァイマール共和国史―民主主義の崩壊とナチスの台頭』関口宏道訳、水声社、2001年。ISBN 978-4891764494。
外部リンク[編集]
- ドイツ歴史博物館(LeMO)経歴紹介(ドイツ語)
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