オットー・マイスナー
| オットー・マイスナー Otto Meißner | |
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マイスナーの肖像写真(1930年) | |
| 生年月日 | 1880年3月13日 |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1953年5月27日(73歳没) |
| 死没地 |
ミュンヘン |
| 出身校 |
シュトラスブルク大学 ベルリン大学 |
| 前職 | 陸軍軍人(陸軍予備役大尉)、外交官 |
| 所属政党 |
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| 称号 |
法学博士 |
| 在任期間 | 1920年4月1日 - 1945年5月23日 |
| 大統領 大統領 総統 大統領 |
フリードリヒ・エーベルト パウル・フォン・ヒンデンブルク アドルフ・ヒトラー カール・デーニッツ |
| 内閣 | ヒトラー内閣 |
| 在任期間 | 1937年12月1日 - 1945年4月30日 |
| 総統 | アドルフ・ヒトラー |
| 軍歴 | |
|---|---|
| 所属組織 | |
| 軍歴 |
1903年 - 1904年 1915年 - 1917年 (ドイツ帝国陸軍) |
| 最終階級 |
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| 戦闘 | ・第一次世界大戦 |
| 除隊後 | 外交官、大統領府官僚、大統領府長官 |
オットー・マイスナー(ドイツ語: Otto Meißner, 1880年3月13日 - 1953年5月27日)は、ドイツの国家官僚、政治家。ヴァイマル共和政からナチス・ドイツの時代にかけて大統領府長官を務め、エーベルト、ヒンデンブルク、ヒトラーの三代の国家元首に仕えた。ナチス政権樹立にも一役買った。
経歴
[編集]初期の経歴
[編集]郵便局員のグスタフ・マイスナーの息子として、ドイツ帝国エルザス=ロートリンゲン州のビッシュヴァイラー(現在のフランス領バ=ラン県ビシュヴィレール)に生まれる。 マイスナーの遠縁にはナポレオン戦争の際のフランス軍の名将ジャン=バティスト・クレベールがいる[1]。また、マイスナーはエルザス出身であったため、ドイツ語に加えフランス語とアルザス語を習得しており、さらにロシア語とラテン語も流暢に話せ、執筆もできた[2]。1898年から1903年まで、シュトラスブルク大学とベルリン大学で法学を学び、1902年に法学博士号を取得。最優秀の成績で卒業した。また在籍中に、後に大統領府で自身の側近を務めることになる法学者のハインリヒ・デーレとも知り合った。1903年から翌年にかけて一年志願兵として兵役に従事する。1906年にエルザス=ロートリンゲン州裁判所試補となる。1908年、エルザス=ロートリンゲン及びルクセンブルク鉄道局に行政官試補として移る。また同年に結婚し、息子と娘をもうける。
第一時世界大戦・軍歴
[編集]1915年から1917年にかけて、第一次世界大戦に従軍し、第4ロートリンゲン歩兵連隊附属第136連隊に所属した。最終階級は予備役大尉であり、1915年に初めてパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥と出会い、鉄道橋の迅速な建設における功績が認められ、二級鉄十字章、一級鉄十字章を授与され、ヒンデンブルクに好印象を抱かせた。以後1919年までドイツ軍占領下にあるブカレストやキエフに駐在した。1916年から翌年4月まで、ブカレストの軍鉄道局で交通担当官を務め、最終的にはキエフの鉄道中央局で勤務した。その後外交官となり、ウクライナ国政府でドイツ政府連絡官を務める。1918年末のドイツ敗戦により、ドイツ占領下の東ヨーロッパ地域のドイツ勢力圏が崩壊した後、マイスナーは、ウクライナに取り残された数百人のドイツ軍駐屯兵士を乗せた列車を、数千キロの距離と複数の内戦地域を横断して、本国ドイツまで移動させることに成功した。さらに彼は、キエフのドイツ公使館から委託されていた340万マルクの現金も回収し、ベルリンの帝国政府に引き渡すことにも成功した。
ヴァイマル共和国時代
[編集]終戦後の1919年、ヴァイマル共和政初代大統領となったフリードリヒ・エーベルトの知遇を得て、その大統領府参事官に就任。なお、フランス領になったエルザス出身のマイスナーは、フランス国籍とストラスブールのフランス行政高官の申し出を辞退し、死後までドイツ人としてドイツ政府に仕えることになる。
1919年、エーベルトが国会から共和国の新国歌制定を依頼された際に、マイスナーはドイツの歌謡に精通しているとして見られたため、エーベルトから助言を求められ、アウグスト・フォン・ファラースレーベン作の「ドイツの歌」を新国歌とすることを提案した。エーベルトはこの提案を国会に持ち込み、国会はこれを承認した。以後、「ドイツの歌」はワイマール時代、そしてナチス時代と継承され、さらに1949年にドイツ連邦共和国が建国された際も国歌に制定された。
マイスナーは1920年に大統領府長官で直属の上司のルドルフ・ナドルニーが駐スウェーデンドイツ大使に転出したことを受けて後任の大統領府長官に就任し、1923年には秘密顧問、事務次官から政務官となった。エーベルトの死後大統領となった元陸軍元帥のヒンデンブルクの下でも同職に留任した。元将校で大統領とも面識のあるマイスナーは大統領府長官として、国防次官クルト・フォン・シュライヒャー将軍やヒンデンブルクの息子オスカーと共に大統領に影響力を持つようになる。彼らはカマリラというヒンデンブルクの側近グループを形成し、1929年から1930年にかけての議院内閣制崩壊にも一役買った。しかし、あくまで政務次官にすぎないマイスナーが政治的影響力を持つことはなかったという見解も存在する。ヒンデンブルク伝記作家ヴォルフラム・ピータはマイスナーの大統領の側近としての立場に異議を唱え、ヒンデンブルクはマイスナーのような非政治的な国家官僚に依存することを望んでいなく、マイスナー自身も自分の考えを一切表明しなかったという[3]。
さらに決定的な役割を演じたのは、1932年末から1933年1月にかけての時期で、オスカーと元首相フランツ・フォン・パーペンとともに、機能不全に陥ったシュライヒャー内閣の退陣と、それに代わるアドルフ・ヒトラーの首相就任に関係した。オスカー、パーペンと共に大統領側の中心人物として、ナチス側代表の銀行家クルト・フォン・シュレーダー、ヴィルヘルム・ケプラー、ヨアヒム・フォン・リッベントロップらと折衝に当たり、個人的にも反目していたヒンデンブルクとヒトラーの接近をもたらした。
ナチス政権樹立
[編集]1933年にヒトラーが首相に就任した際も、マイスナーは職に留まったが、1934年のヒンデンブルクの死後、辞職を申し出たが慰留された。大統領職を首相職に統合し、国家元首となったヒトラーは、1935年に大統領府長官の役所名を大統領官房と改め、職務を象徴的・儀礼的なものに限定した。また、ヒトラーの指示により、マイスナーが保持していた権限の大部分が帝国首相府長官ハンス・ハインリヒ・ラマースに移管された。なおラマースと共に、マイスナーも1933年にハンス・フランクのドイツ法律アカデミーの創設メンバーの一人となった[4]。
1937年にマイスナーは「大臣待遇国務相、及び指導者兼ドイツ国首相の大統領官房長」に任命された。ヒトラーが自殺して役職が消滅した1945年までこの職にあったが、ナチス・ドイツ時代を通じて儀礼的・形式的な役職であり、政治的影響力はほぼ無かった。また1937年1月30日にヒトラーよりナチス党員名誉金章を授与され、同時にナチ党に入党した(党員番号3,805,235)。1939年、マイスナーは帝国大統領官邸にある住居を明け渡すことをリッベントロップから求められ、大統領府の事務所と公邸をベルビュー宮殿に移した。
第二次世界大戦中の1940年にフランスが占領されると、マイスナーの故郷であるエルザスは再びドイツに併合され、併合を正当化する2冊の書籍を出版した[5]。マイスナーとアルザス人民族主義者のロベルト・エルンストは、ベーメン・メーレン保護領をモデルに、自らを将来のエルザス保護領総督と見なしていたが、総督には大管区指導者のヨーゼフ・ビュルケルとロベルト・ヴァーグナーが選ばれた[6]。エルンストはストラスブールの市長に就任したが、マイスナーはベルリンに留まった。
ヒトラーがマイスナーに最後に会ったのは1945年3月13日であり、ヒトラーがマイスナーの65歳の誕生日を祝って、10万ライヒスマルクの現金小切手を渡したときだった。同年4月30日にヒトラーが自殺に際して遺言で首相職と大統領職を分離し再創設した際、マイスナーは最後の大統領であるカール・デーニッツ大提督のもとでも大統領府長官を務めた。これによりマイスナーはエーベルト、ヒンデンブルク、ヒトラー、そしてデーニッツの4人の国家元首の下で大統領府を率いたことになる。
戦後
[編集]ドイツ降伏後の1945年5月23日、マイスナーは連合国軍に逮捕され、ルクセンブルクのバート・モンドルフに他のナチス高官とともに抑留された。同年8月、彼はニュルンベルクに移送され、ニュルンベルク裁判に証人として出廷させられた。1947年7月には法務次官フランツ・シュレーゲルベルガーの弁護人尋問に証人として出廷。1948年1月から1949年4月にかけてアメリカ合衆国により行われたニュルンベルク継続裁判の一つである大臣裁判では自己批判し、4月19日に無罪判決を受けた。直後にミュンヘン控訴裁判所に告訴され、一度は有罪とされたが、1952年に却下されて審理は停止された。1950年に三代の元首に仕えた経験を記した回顧録『エーベルト、ヒンデンブルク、ヒトラーの下での政務次官』を出版し、この中で自らのナチ政権での立場について説明し、常に党とは無関係であり、党やその下部組織に所属したことは一度もないと主張している。なお法制やエルザス=ロートリンゲン地方に関する著作もある。間もなくミュンヘンで死去した。
息子のハンス=オットー・マイスナー(1909年‐1992年)は外交官となり、戦後は旅行作家として活躍した。父の活躍した1930年代に関する著作も多い。著書『アラスカ戦線』『スパイ・ゾルゲ』が邦訳されている。
評価
[編集]ベルリンで長年フランス大使を務めていたアンドレ・フランソワ=ポンセは、マイスナーを「脳卒中を起こしやすい体質で、丸々と太った体型(彼のスーツはどれも彼にはきつすぎた)で、分厚い眼鏡の奥に恥ずかしそうな視線を隠し、不透明な性格で、すべての政府要人と良好な関係を築き、あらゆる秘密を託されていた人物」と評した。
栄典
[編集]外国勲章
[編集]ギャラリー
[編集]- マイスナーとエーベルト、1922年
- 執務するマイスナー、1928年
- ヒンデンブルクとマイスナー、1932年
脚注
[編集]- ↑ Hans-Otto Meissner: Junge Jahre im Reichspräsidentenpalais, 1988, S. 7.
- ↑ Karl-Heinz Janßen: Diener dreier Herren. Von Ebert über Hindenburg zu Hitler. Die einzigartige Karriere des Geheimrats Dr. jur. Otto Meißner. In: Die Zeit Nr. 38, 14. September 2000.
- ↑ Wolfram Pyta: Hindenburg. Herrschaft zwischen Hohenzollern und Hitler. Siedler, Berlin 2007, S. 559–561.
- ↑ Jahrbuch der Akademie für Deutsches Recht, 1. Jahrgang 1933/34. Hrsg. von Hans Frank. (München, Berlin, Leipzig: Schweitzer Verlag), S. 255.
- ↑ Lothar Kettenacker: Nationalsozialistische Volkstumspolitik im Elsaß. Deutsche Verlagsanstalt, Stuttgart 1973, S. 48f.
- ↑ Staatsminister Dr. Otto Meißner: Das Schicksal Elsaß und Lothringens im Wandel der Geschichte, in: Otto Meißner (Hrsg.): Deutsches Elsaß, deutsches Lothringen, 1941, S. 47.
- ↑ 「独国外務大臣男爵「フォン、ノイラート」外三十三名叙勲ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113228200