レオ・フォン・カプリヴィ

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ドイツの旗 ドイツ帝国の政治家
ゲオルク・レオ・フォン・カプリヴィ
Georg Leo von Caprivi
Bundesarchiv Bild 183-R09316, Leo Graf von Caprivi.jpg
生年月日 1831年2月24日
出生地 プロイセン王国の旗 プロイセン王国 ベルリン
没年月日 1899年2月6日(満67歳没)
死没地 ドイツの旗 ドイツ帝国 スコルレン
称号 プール・ル・メリット勲章
サイン Caprivi Signature.svg

ドイツの旗 ドイツ帝国第2代帝国宰相
内閣 カプリヴィ内閣
在任期間 1890年3月20日 - 1894年10月26日
皇帝 ヴィルヘルム2世

Flag of Prussia (1892-1918).svg プロイセン王国首相
内閣 カプリヴィ内閣
在任期間 1890年3月20日 - 1892年3月22日
国王 ヴィルヘルム2世
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ゲオルク・レオ・フォン・カプリヴィGeorg Leo von Caprivi1831年2月24日 - 1899年2月6日)は、ドイツ軍人政治家オットー・フォン・ビスマルクの跡を継いで、1890年3月から1894年10月までドイツ帝国宰相を務めた。

来歴[編集]

軍人[編集]

1831年2月24日、ベルリンのシャルロッテンブルク地区で生まれる。父のユリウス・レオポルト・フォン・カプリヴィは最高裁判所判事及び貴族院ドイツ語版議員を務めた。生家はイタリア系、スロベニア系であり、ドレンスカ地方コチェーヴィエが発祥の地とされている[1][2][3]。しかし、カプリヴィ家の起源についてはこの説を否定する見解もある[4]

1849年プロイセン王国陸軍ドイツ語版に入隊し、第二次シュレースヴィヒ戦争英語版に従軍した。1866年フリードリヒ・カールの参謀として普墺戦争に、1870年第10軍英語版参謀として普仏戦争にそれぞれ従軍している[5]。カプリヴィは普仏戦争の戦功によりプール・ル・メリット勲章を授与され中佐に昇進した。

普仏戦争後はプロイセン戦争省英語版に配属され、1882年メッツに駐留する第30歩兵師団長に任命される[5]1883年ドイツ帝国海軍本部長官に就任する。この人事は海軍将校たちからは不評だったが、カプリヴィは軍官僚として組織管理に優れた才能を発揮した[5]1888年ヴィルヘルム2世の政策転換により海軍本部長官を辞任し、ハノーファー駐留の第10軍司令官に転任した。

ドイツ宰相[編集]

宰相カプリヴィ

1890年3月、ベルリンに召喚されビスマルクの解任を伝えられ、後任として帝国宰相に任命される。もっとも、ビスマルクの跡を襲うことは不本意であったようで「どんな愚か者がビスマルクの跡を継ぐことなど、あえてするだろうか」と語っていた。

カプリヴィ内閣は、国内外の施策において「新しい方針」を提示した。内政ではドイツ社会民主党との融和策を取り、外交政策では親英路線を取った。1890年7月にはイギリスとの間にヘルゴランド=ザンジバル条約を締結し、イギリスはザンジバルと引き換えにヘルゴランド島をドイツに割譲した。また、ドイツ領南西アフリカ(現在のナミビア)にアフリカ東海岸のタンガニーカへ通じるルートであるザンベジ川へのアクセスを得るため、内陸部を併合した(現在のカプリヴィ回廊[6]

カプリヴィは進歩主義政策を実施し、1890年に産業裁判所を設立して労使紛争の調停を行わせると同時に13歳未満の子供の雇用を禁止し、13歳から18歳の労働時間は1日10時間以内に定めた。1891年には日曜日の労働禁止と最低賃金制度の導入、女性の労働時間を1日11時間以内に定めた。

しかし、自由貿易政策を推進しようとしたが国内の保守層や植民地獲得を主張する人々を中心とする保護貿易論者の反対に遭った。また、軍事面ではアルフレート・フォン・ヴァルダーゼーが主張したロシア帝国に対する予防戦争に反対していたが、反ロシア政策を取るヴィルヘルム2世と外務省のフリードリヒ・アウグスト・フォン・ホルシュタインドイツ語版の主導により独露再保障条約の更新が拒否された[7]

1892年には教育関係法案を提出するが保守党の反対により否決され、国民自由党中央党の支持も失った。これにより兼務していたプロイセン首相を辞任し、ボート・ツー・オイレンブルクが後任となった。しかし、プロイセン首相辞任により権力が分散してしまい、国政の掌握に困難を感じたカプリヴィは1894年に帝国宰相を辞任し、クロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルストが後任となり、再びドイツ宰相とプロイセン首相が兼任されることになった。

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ "Rodbina † grofa Caprivija." 1899. Slovenec: političen list za slovenski narod 27(31) (8 Feb.): 4. (スロベニア語)
  2. ^ "Ministri slovenskega rodu, a nemškega mišljenja." 1918. Tedenske slike 5(14): 154. (スロベニア語)
  3. ^ Žužek, Aleš. 2013. "Nemški kancler, ki je bil slovenske gore list." SIOL (8 Dec.). (スロベニア語)
  4. ^ Petschauer, Erich. 1984. "Das Jahrhundertbuch": Gottschee and Its People Through the Centuries. New York: Gottscheer Relief Association, p. 205.
  5. ^ a b c Wikisource-logo.svg Rines, George Edwin, ed (1920). “Caprivi, Georg Leo, Graf von”. Encyclopedia Americana. 
  6. ^ Calleo, D. (1980). The German Problem Reconsidered:Germany and the World Order 1870 to the Present. Cambridge University Press. p. 19. ISBN 9780521299664. https://books.google.com/books?id=RYA8AAAAIAAJ 2015年2月27日閲覧。. 
  7. ^ Raymond James Sontag, Germany and England: Background of Conflict, 1848–1894 (1938) ch 9

外部リンク[編集]

公職
先代:
オットー・フォン・ビスマルク
ドイツの旗 ドイツ帝国宰相
第2代:1890年 - 1894年
次代:
クロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト
先代:
オットー・フォン・ビスマルク
Flag of Prussia (1892-1918).svg プロイセン王国首相
1890年 - 1892年
次代:
ボート・ツー・オイレンブルク
軍職
先代:
アルブレヒト・フォン・シュトッシュ
ドイツの旗 海軍本部長官
1883年 - 1888年
次代:
アレクサンダー・フォン・モンツドイツ語版