原節子

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はら せつこ
原 節子
原 節子
映画『新しき土』(1937年)より
本名 會田 昌江(あいだ まさえ)
生年月日 (1920-06-17) 1920年6月17日
没年月日 (2015-09-05) 2015年9月5日(95歳没)
出生地 日本の旗 日本神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在の同県横浜市保土ケ谷区月見台[1]
死没地 日本の旗 日本・神奈川県
身長 165cm[2]
職業 女優
ジャンル 映画
活動期間 1935年 - 1963年
配偶者 なし
主な作品
わが青春に悔なし』(1946年)[1]
安城家の舞踏会』(1947年)
お嬢さん乾杯』(1949年)
青い山脈』(1949年)[1]
晩春』(1949年)
麦秋』(1951年)
めし』(1951年)
東京物語』(1953年)[1]
秋日和』(1960年)
 
受賞
ブルーリボン賞
主演女優賞
1951年麦秋』『めし
その他の賞
毎日映画コンクール
女優演技賞
1949年『青い山脈』『晩春』『お嬢さん乾杯!
1951年『麦秋』『めし』
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原 節子(はら せつこ、本名:會田 昌江(あいだ まさえ)、1920年6月17日 - 2015年9月5日)は、日本女優[1]

戦前から戦後にかけての日本映画を代表する女優のひとりで、「永遠の処女」と呼ばれた。『晩春』(1949年)や『東京物語』(1953年)などの小津安二郎監督の出演で知られ、ほか『わが青春に悔なし』(1946年)、『青い山脈』(1949年)、『めし』(1951年)などに出演した。

1963年に女優業を引退し、2015年に死去するまで隠遁生活を送った[3]

経歴[編集]

神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在の横浜市保土ケ谷区月見台)で父・藤之助、母・ナミの間に末っ子として生まれた。兄弟は男2人、女5人であった[4]。保土ヶ谷尋常高等小学校(現:横浜市立峯小学校)から私立横浜高等女学校(現:横浜学園高等学校[5][6]に進むが、家庭が経済的に困窮していたこともあり、次女光代と結婚していた映画監督の熊谷久虎の勧めに従って映画界に入ることにし[注釈 1]、女学校を二年で中退した[1]。一年の時には、後に小説家となる中島敦から直接の授業を受けている[8]

1935年4月15日、日活多摩川撮影所に入社し、同年の日活映画『ためらふ勿れ若人よ』(田口哲監督)で映画デビュー。同作で演じた役名「節子」は芸名の「節子」と一致していた[9][注釈 2]

東海林太郎と(1936年)
『日活画報』1936年7月号。右が原節子。左は黒田記代

1936年、第7回出演作品『河内山宗俊』撮影中に見学にきたドイツのアーノルド・ファンク監督の目にとまり、初の日独合作映画『新しき土』のヒロイン役に抜擢される。ファンクは当初、田中絹代も一緒にキャスティングしようとしたが田中が松竹の専属であったためにかなわず、原のみのキャスティングとなった。伊丹万作監督も請われて協力したこの作品は、結果としてファンクが編集した版と、ファンクと対立した伊丹が編集した版の両方がつくられてどちらも公開された。

1937年3月12日、原は義兄熊谷久虎や東和の川喜多長政らと共に下関から海路大連に向かった。そこからシベリア鉄道を利用して3月26日にベルリンに到着。先に帰国していたファンクが一行を出迎え、アドルフ・ヒトラーはじめ、ナチ党幹部がこの映画をすでに見ており、皆から高評価を受けたと伝えた。宣伝省の工作もあって、原はドイツ各地で大歓迎された。この後一行はフランスからアメリカへ渡り、7月28日に帰国した(ちなみにこの『新しき土』における日独合作映画の製作は、11月25日に締結される日独防共協定の交渉と準備のための両国スタッフの往来をカモフラージュするためのものだったという[10][11]

11月30日に発足した東宝映画株式会社に移籍する。『新しき土』への出演によって一躍、銀幕のスターダムに駆け上がった原だったが、「もっと勉強してからスターになるべきだった」と小杉勇が述懐したように、しばしば演技が未熟であるという批判にさらされることになる[12]今井正によれば、戦中の原は義兄熊谷久虎[注釈 3][13][14]に影響されて「ユダヤ人謀略説」を唱えていたという[15]太平洋戦争中は、1942年の『ハワイ・マレー沖海戦』をはじめ『決戦の大空へ』、『勝利の日まで』、『望楼の決死隊』などの戦意高揚映画に数多く出演している。

1946年9月、終戦後の翌年の原は資生堂のイメージガールに起用され、戦後初の多色刷りポスターが街中を賑わせた。さらに黒澤明監督の戦後初の作品『わが青春に悔なし』のヒロインに抜擢される。当時の東宝はいわゆる東宝争議のさなかにあり、そのあおりを受けた原は新東宝映画製作所に移る。

1947年6月、フリーの女優として独立する[16]。フリー第1作は初の松竹出演作品となった『安城家の舞踏会』(1947年)であった。同作のヒットで原は戦後のトップ女優としての地位を確立した。

1949年、『青い山脈』では女性教師役を演じ、服部良一作曲の同名主題歌とともに映画も大ヒットした。初めて小津安二郎監督と組んだ作品『晩春』に出演。1961年、『小早川家の秋』まで小津監督の6作品に出演を果たすことになる。

原は一般的に小津作品での印象が強いが、出演作の中でもっとも多くメガホンをとったのは山本薩夫監督(7本)であり、以下6本で小津、島津保次郎渡辺邦男今井正が続く。小津監督は女優としての原節子を絶対的に高く評価し、自らの作品に起用し続けた。

東京物語』撮影中の原節子と小津安二郎監督(1953年8月16日、尾道浄土寺

1949年(昭和24年)、『晩春』『青い山脈』『お嬢さん乾杯』の演技が評価され、毎日映画コンクールの女優演技賞を受賞した。ルックス先行の人気、とささやかれてきた原にとって演技面での評価をうけることは長きにわたる宿願であった[17]。1952年の『東京の恋人』以降、しばらく出演作が途絶えたことでマスコミから「伝説の存在」と表現されるようになった(1953年公開の『恋の風雲児』は1945年作品)[18]。ところが原が現場に復帰した1953年、『白魚』の御殿場駅での撮影中に原の眼前で、実兄会田吉男(東宝のカメラマンであった)が助手の伊藤哲夫と共に列車に撥ねられ不慮の死を遂げる、という悲劇に遭った。小津監督と原の代表作になった『東京物語』はこの事件の直後にクランクインしている[19][20]。1954年、原は体調を崩して通院を繰り返すことになり、引退をささやかれるようになった[21]

1955年、公開された『ノンちゃん雲に乗る』では初めて母親役を演じる。体調が回復した。

1956年、『婚約三羽烏』が原にとって初のカラー作品である。

1962年稲垣浩監督による東宝創立30周年記念作品『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』が封切られ、原は大石内蔵助の妻りくを演じた。これが原にとって最後の出演作品となった。

1963年12月12日、小津監督が東京医科歯科大学附属病院で没し(その日は小津監督の還暦の誕生日だった)、その通夜に出席したのを最後に原は女優業を事実上引退し、以降表舞台には一切姿を見せなくなった[1]。晩年の原は鎌倉市で親戚と暮らしているとされ、近況に関してはほとんど外出しないが元気であったということだけが伝えられた[22]。引退に関しては「老いていく姿を人前に晒したくないと考えていた」「撮影用のライトで白内障を患い、健康上の理由で引退を決意した」「戦前の国策映画に出演していた自分の責任を強く感じており、けじめをつけるべきだと考えていた」といった様々な憶測が飛び交ったが[22]高橋治は原が「小津の死に殉じるかのように」公的な場から身を引いたと表現している[23]。当時、その理由として「畳の上での芝居がしづらくなったから」と岡田茉莉子に語っている[24]。引退後は好きなだけ海外旅行へ行きたいと語っていたが、海外旅行どころか国内旅行にさえ一切行かず、晩年には外食さえしなかったと言われている[25]。同年に東宝が毎年制作しているカレンダーはこれまで11年連続で原節子が1月を飾っていたが、前年より撮影を拒否し密かに引退を決意していたといわれる[26]。この年の1月は司葉子藤山陽子だった。

1964年東京都狛江市の実家から神奈川県鎌倉市の義兄宅の敷地内へ引っ越す[27][28]

1965年、これまで東宝には「気に入った作品があれば出る」とお茶を濁していたが[29][注釈 4]、東宝に戻る気がないことを正式に通達し、映画に出なくなってから振り込まれた契約料を返却し、今後は一切振り込まないよう伝えた[30]。一方、1968年ごろまで東宝が年間契約料を払っていたという資料もある[28][注釈 5]

1968年9月、小津との共同脚本家野田高梧の通夜に出たのを最後に、公の場から姿を消した[32][24]

1969年、映画監督の成瀬巳喜男が亡くなったとき「会田昌江」名義で供花を送る[33]

1973年、小津の没後10年を記念して信州蓼科に小津と野田の有縁地碑を建てるとき「会田昌江」名義で寄付をする[34]

1993年笠智衆の通夜前に極秘に訪れ、一部の関係者に気付かれたのが最後の目撃であった[35]

1994年、東京都内のかつての自宅の土地を売却し、約12億円の所得を得たことで、この年の高額納税者番付で全国の75位で登場し、この時再び話題となった[36]

2015年9月5日、肺炎のため神奈川県内の病院で95歳の生涯を閉じた。原の訃報は、没後約2か月半が経過した11月25日にマスメディアで伝えられた[3][37]

引退後のメディア登場[編集]

原節子は明確に引退宣言はしていないので、実質最後の作品になった『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』(1962年)以降に限って記す。そのほとんどが隠し撮りであった。

  • 1963年12月12日、小津監督の通夜に出席。『日刊スポーツ』記者のインタビューに答えている。「先生のあの独特の作風が、もう二度と見られないと思うと…(中略)。せめてもう一度、小津先生とごいっしょに、精いっぱいの仕事ができたらと、それだけが、ほんとうに心残りです」。この時は会田昌江名で弔問に訪れていた[38][39]
  • 1968年9月、野田高梧の通夜出席[32][24]
  • 1970年6月、『週刊平凡』の隠し撮り[40][41]
  • 1973年2月、『報知新聞』へのコメント。在米大使館から報知新聞へ持ち込まれた話で、アメリカの退役軍人が中国で拾ってきた日の丸に寄せ書きの一部として原節子と水戸光子のサインがあった[42]。そのことについて電話取材に応じている。それについて義兄たちと一緒に考えたものの「どうしても思い当たる人がいない」と答え以下のように続けている。「私はもう原節子という名前を捨てて、いまは本名の会田昌江で暮らしておりますが、あのころは戦時下で、この種の国旗については何百回とサインしていますので、ほんとうに申し訳ありませんけど、正久さんというお名前には記憶がありません」と答えている。これが、引退後の正式なマスコミに対する最後の肉声となっている[43][44]
  • 1975年8月15日、TBS『モーニングジャンボ奥様8時半です』の隠し撮り[45][46]
  • 1978年6月、『週刊文春』の隠し撮り[47][48]
  • 1983年1月、『FOCUS』の隠し撮り[49][50]
  • 1985年11月、『Emma』の隠し撮り[51][52][53]
  • 1993年、笠智衆の通夜前に出席。
  • 1994年、高額納税者番付全国75位に登場。
  • 2000年6月、『FRIDAY』の隠し撮り[54][55][56]
  • 2002年7月、『女性自身』の隠し撮り[57][58][59]

評価[編集]

1955年

小津安二郎監督は「一時世間から美貌がわざわいして演技が大変まずいというひどい噂をたてられたこともあるが、僕はむしろ世間で巧いといわれている俳優こそまずくて彼女の方がはるかに巧いとすら思っている」とし[60]、1951年には「原節子ほど理解が深くてうまい演技をする女優は珍しい。『原節子は大根だ』と評するのはむしろ監督が大根に気づかぬ自分の不明を露呈するようなものだ。実際、お世辞抜きにして、日本の映画女優としては最高だと私は思っている」[61]とも語っている。現役女優の頃は美貌のトップ女優で、その早い引退と引退後の完全な隠遁生活、生涯独身を貫いたことなども同じことから「日本のグレタ・ガルボ」と言われている。

原と同様、小津作品に多数出演した俳優の笠智衆は著書『大船日記』で「原さんは、きれいなだけじゃなく、演技も上手でした。ほとんどNGも出しません。めったなことでは俳優を褒めなかった小津先生が、『あの子はウマいね』とおっしゃっていたのですから、相当なもんです」「普段はおっとりとして、気取らない方でした。美人に似合わずザックバランなところもありました。撮影の合間に、大きな口を開けて『アハハ』と笑っとられたことを覚えています」と回想している[62]

原と共演したことがある女優の司葉子は原の一番の魅力を「清潔感」と指摘、「演技では出せない生地の魅力」としている[63]。司は引退後の原と電話で時々会話をしていた[64]

2000年に『キネマ旬報』が発表した「20世紀の映画スター・女優編」では第1位に選出された。また、2014年に同誌が発表した『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では女優部門の4位に選ばれた[65]

1936年から1940年までの年代別プロマイドの売上ベスト10では、男女総合1位に選ばれている。

人物[編集]

原はたばこビールが大好きだった[66][67]

1994年にバイク事故で負傷し、芸能活動を休業していたタレントのビートたけしに回復を願い、数珠を贈っていた。原はたけしとの面識はなかったが、報道でたけしの窮状を知り、知人の尼僧に数珠の製作を依頼して入院中のたけしに数珠を贈った。たけしは自身の復帰会見で原から数珠を贈られた事を語り、数珠を肌身離さず身につけている事を明かした。 この時、芸能界を引退して久しかった原の名前が出た事で報道陣は大いに驚くと共に大きな話題となった。

出演映画[編集]

『安城家の舞踏会』(1947年)
『青い山脈』(1949年)(左は杉葉子
『晩春』(1949年)
東京物語』(1953年)のスチル写真(右は笠智衆

関連文献[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 熊谷「日活の東京移轉で、三年ぶりに此方へ參りましてね。久しぶりに逢つた時に、何といふか非常に感受性が鋭い子だなアと直観的に感じたんですね。(中略)これは育て方に依つたら、ものになると思つたんですよ。その日江の島の方へ行つたんですが、その時妹も一緒に行かうと引張り出して、鎌倉で晝食をとつた時『どうだ昌江さん女優になつてみないか』と言つたんですよ。(中略)大體本人の希望は、その時は小學校の先生になりたかつたらしいですよ。然し何になるにしても、僕の力で人間にしてみたいと云ふ一種の衝動にかられましてね。兎に角當分僕等と一緒に暮らすことにしたんです。」熊谷光代「それから二、三日たつて、私が里に行つて、兩親や兄に女優にしてはと相談したんです。」[7]
  2. ^ 熊谷は、「あれでもない、これでもない、とみんなで考へた末原眞白はどうだと云ふことになつたんです。原眞白は腹眞ツ白に通ずるといふわけです。それで會社に行つて原眞白はどうだろうといふと、所長が一寸待つてくれ、原眞白ぢや餘りどうも語呂がおかしい、俺に考へさせてくれといひましてね。二、三日してからでしたか。所長が急に僕を呼び出して、今朝顔を洗つている中に、節子といふのが、靈感の様に頭に閃いたといふのです。僕は不滿だつたんですが、所長が大變な力の入れ方だから、それでもいゝでせうといふので、結局かういふ名前になつたんです。」と証言している[7]
  3. ^ 戦争中に国粋主義思想にのめりこみ映画界を離れて、国粋団体スメラ学塾にも参加した。
  4. ^ 他方、親しい友人には「40歳で引退したい」「引退するときは誰にも気づかれぬように消えていきたい」と話していたという[29]
  5. ^ 東宝副社長松田功「5、6年前まで東宝の契約者として安いものですが毎月契約料を払っていました(サンケイスポーツ1974年12月25日付)」[31]
  6. ^ 現存する最古の原節子作品とされる。
  7. ^ 原初のトーキー作品。
  8. ^ 義兄熊谷久虎の作品への初出演。
  9. ^ 冒頭の15分のみ現存、原はクレジットされているが出演場面を確認できないため、原節子作品リストに掲載されることがない幻の作品[要出典]
  10. ^ 原のフリー第1作にして初の松竹作品。
  11. ^ 原唯一の木下惠介監督作品。
  12. ^ 初の小津安二郎監督作品。
  13. ^ 原にとって初のカラー作品。
  14. ^ 原にとって初のワイドスクリーン作品。
  15. ^ 原が出演した最後の作品。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g 宝島社 2017, p. 10.
  2. ^ キネマ写真館:原節子1第2部-PAGE3”. 2013年5月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年10月26日閲覧。
  3. ^ a b 原節子さん死去、日本映画黄金期を代表する女優 日刊スポーツ 2015年11月25日
  4. ^ 「ヴェールを脱いだ「原節子」隠遁52年間の後半生」『週刊新潮』(2015年12月10日号)掲載
  5. ^ 本地 2006, p. 53.
  6. ^ 『横浜貿易新報』、1935年6月28日付記事にも「日活の銀幕へ 横浜高女から會田昌江嬢」とある。
  7. ^ a b 「熊谷・原兄妹にものを聽く」『婦人畫報』1937年4月号 p.129
  8. ^ “神奈川)原節子を教えた中島敦先生 記録見つかる”. https://www.asahi.com/articles/ASN6273TRN5XULOB00M.html/ 2020年6月12日閲覧。 
  9. ^ 本地 2006, p. 93.
  10. ^ 元海軍省調査課長高木惣吉の証言(『世界』1950年11月号掲載記事)[要文献特定詳細情報]
  11. ^ 本地 2006, p. 100.
  12. ^ 本地 2006, p. 108.
  13. ^ 石井 2016, p. 134.
  14. ^ 佐藤忠男『日本映画史 2 1941-1959』、岩波書店、1995年4月、p.42
  15. ^ 本地 2006, p. 120.
  16. ^ 貴田 2010, p. 162.
  17. ^ 本地 2006, p. 136.
  18. ^ 本地 2006, p. 146.
  19. ^ 四方田犬彦 『日本映画史110年』集英社〈集英社新書〉、2014年、159頁。"戦後民主主義の女神的な存在であった原節子は、小津作品に登場することで」「封建主義の打破を訴える活動家から、伝統的な美徳とされた貞淑さへの最後の体現者へと、女優人生において二度目の転向を果たしたのである"。 
  20. ^ 【復刻】「永遠の処女」絶頂期引退の訳/原さん死去” (2015年11月25日). 2015年11月25日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年11月25日閲覧。
  21. ^ 本地 2006, p. 152.
  22. ^ a b 宝島社 2017, p. 28.
  23. ^ 本地 2006, p. 161.
  24. ^ a b c "伝説の女優"原節子 苦労人としての素顔”. 朝日新聞社 (2015年12月3日). 2016年10月7日閲覧。
  25. ^ 小津が黒澤に抱いた対抗意識生誕100年・原節子を巡る神話と真実:小津映画に不満、生涯の「代表作」を求め続けて2020.06.05(2021.1.3Lastaccess)
  26. ^ 原節子の真実、pp.255-256
  27. ^ 原節子の真実、p.261
  28. ^ a b 原節子のすべて(2012)、p.223
  29. ^ a b 原節子の真実、p.257
  30. ^ 原節子の真実、p.262
  31. ^ 原節子のすべて(2012)、p.183
  32. ^ a b 「“伝説の女優”原節子 苦労人としての素顔」『週刊朝日』2015年12月8日号、朝日新聞出版。
  33. ^ 原節子の真実、p.264
  34. ^ 藤本真澄によると多額だったという(原節子の真実、pp.264-265
  35. ^ 原節子さん死去 昭和の大女優「永遠の処女」”. 中日スポーツ (2014年11月26日). 2015年11月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年11月29日閲覧。
  36. ^ 原節子さん「永遠の処女」のまま伝説の名女優95歳で死去”. スポーツ報知 (2014年11月26日). 2016年3月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年11月26日閲覧。
  37. ^ 原節子さん死去:「東京物語」ロケ 尾道はファンで大騒ぎ”. 毎日新聞 (2015年11月26日). 2015年11月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年11月26日閲覧。
  38. ^ 新潮45 特別編集 2012, p. 55.
  39. ^ 石坂 1995, pp. 165–166.
  40. ^ 1970年 6月発売「映画、テレビの出演を拒否しつづける“最後の大女優"これが原節子の隠された私生活」『週刊平凡』12巻(25号)
  41. ^ 原節子のすべて(2012)、p.78
  42. ^ 旗には「きみがよのぎせいとなれよわがしんみん正久君」と書かれていた(原節子の真実、p.265)
  43. ^ 『報知新聞』1973年2月14日。「原節子さん帰ってきた日の丸語る」
  44. ^ 原節子の真実、pp.264-266
  45. ^ 新潮45 特別編集 2012, pp. 62–85.
  46. ^ 原節子のすべて(2012)、pp.82-85
  47. ^ 『週刊文春』1978年6月15日号「ついにとらえた原節子の近影」、p.79
  48. ^ 原節子のすべて(2012)、pp.78-81
  49. ^ 『FOCUS』1983年1月7日号「縁側の節子さん-永遠の処女師走の御近影」、pp.62-85
  50. ^ 原節子のすべて(2012)、pp.80-81
  51. ^ 『Emma』1985年11月10日号「生涯に一度だけ撮ったまぼろしの水着写真」の記事と共に65歳の近影が掲載
  52. ^ 新潮45 特別編集 2012, pp. 56–57.
  53. ^ 原節子の真実、pp.56-57
  54. ^ 『FRIDAY』2000年6月30日号「80歳を迎える原節子さんの『神々しい老後』
  55. ^ 新潮45 特別編集 2012, p. 57.
  56. ^ 原節子の真実、p.57
  57. ^ 『女性自身』2002年7月30日号「元祖大女優原節子清閑なる生活」
  58. ^ 新潮45 特別編集 2012, p. 58.
  59. ^ 原節子の真実、p.58
  60. ^ 田中眞澄編『小津安二郎 戦後語録集成』(フィルムアート社、1989年)、p.104
  61. ^ アサヒ芸能新聞』1951年9月9日付
  62. ^ 笠智衆『大船日記・小津安二郎先生の思い出』扶桑社、1991年、147頁。
  63. ^ 「はじめての原節子」『朝日新聞』2012年4月16日付朝刊、文化面。
  64. ^ 銀座百点「銀幕からの恩返し」(2014,11)、p.93
  65. ^ オールタイム・ベスト10 日本映画男優・女優”. KINENOTE. キネマ旬報社 (2014年12月). 2016年9月23日閲覧。
  66. ^ 原節子さん「実はさばさばしていて男っぽい方」共演女優語る AERA 2015年12月2日閲覧。
  67. ^ 伝説の女優・原節子、実はたばこやビールが好き 素顔と隠遁生活の晩年 AERA 2020年6月23日閲覧。
  68. ^ 本地 2006, p. 174.
  69. ^ a b 東宝特撮映画全史 1983, pp. 535–536, 「主要特撮作品配役リスト」

参考文献[編集]

  • 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5 
  • 佐藤忠男監修『永遠のマドンナ 原節子のすべて』(出版協同社、1986年
  • マガジンハウス編 写真集『原節子』(マガジンハウス、1992年
  • 「わが青春の原節子」(『This is 読売』1994年新年特大号)(読売新聞社1994年
  • 石坂昌三 『小津安二郎と茅ヶ崎館』新潮社、1995年6月。ISBN 4103856025 
  • 片岡義男『彼女が演じた役 原節子の戦後主演作を見て考える』、(早川書房1998年/ 中公文庫2011年
  • 本地陽彦 『原節子 永遠の処女伝説』愛育社、2006年6月。ISBN 4750002658 
  • 貴田庄 『原節子 あるがままに生きて』朝日新聞出版朝日文庫〉、2010年6月。 
  • 新潮45 特別編集 『原節子のすべて』新潮社〈新潮ムック〉、2012年。ISBN 9784107902344 
  • 石井妙子 『原節子の真実』新潮社、2016年3月。ISBN 9784103400110 
  • 『日本の女優100人』宝島社〈別冊宝島〉、2017年3月。ISBN 9784800268891 

外部リンク[編集]