リダ・バーロヴァ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
リダ・バーロヴァ
Lída Baarová
本名 Ludmila Babková
生年月日 1914年9月7日
没年月日 2000年10月27日(満86歳没)
出生地 プラハ
死没地 ザルツブルク
国籍 チェコの旗 チェコ
配偶者 Jan Kopecky (1949-1956)
Kurt Lundvall (1970)

リダ・バーロヴァ(Lída Baarová、本名Ludmila Babková)(1914年9月7日プラハ-2000年10月27日ザルツブルク)は、チェコ人女優チェコスロヴァキアドイツで多数の映画に出演し一世を風靡した。ナチ・ドイツの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスとの恋愛関係がドイツを揺るがすスキャンダルに発展した。

略歴[編集]

母親も女優。プラハ音楽院で演技を学び、17歳で映画デビュー。ドイツの映画スタジオに見出され、ベルリンに移る。

ドイツ映画界で成功をおさめ、ハリウッドへも招かれたが断る[1]。しばしば共演した俳優のグスタフ・フレーリッヒ(de:Gustav Fröhlich)と婚約し、共にベルリン郊外に居を構える。1935年1月、撮影所見学に訪れたアドルフ・ヒトラーヨーゼフ・ゲッベルスから首相官邸に招待され、それ以来ゲッベルスと顔見知りとなる。1936年からはゲッベルスの愛人となり、フレーリッヒとの婚約を解消する。

ゲッベルスの妻が夫とバーロヴァの関係に気づき、ヒトラーに相談する。ゲッベルスの子供たちの名付け親だったヒトラーは、ゲッベルスに対してバーロヴァと別れるようにと告げる。しかしゲッベルスは辞任を申し出、妻と離婚してバーロヴァと再婚したいとの考えを表す。しかしヒトラーはそれを受け入れず、ゲッベルスは1938年10月15日、自殺を図る。バーロヴァはそのすぐ後、ヒトラーの命令で映画契約を破棄されチェコのプラハに戻った。

1942年にイタリアに移住し、主にコメディメロドラマに出演するが、1943年にイタリア北部がドイツ軍に占領されたため、プラハに戻った。


戦後はチェコスロバキア政府により対独協力者として一時拘束される。その際同様に拘束されていた男性と釈放後オーストリアに逃れ、結婚する。オーストリアで映画界に復帰するものの、ナチス時代にイギリスに亡命していた大スターアントン・ウォルブルックによって共演を拒絶されたという象徴的な出来事に示されるように、反応は辛辣であったため、夫とともにアルゼンチンに移住するが、貧困のため夫とは離婚し、イタリアに行くことを決意する。イタリアではフェデリコ・フェリーニ監督作品の青春群像 - I Vitelloni (1953年)に出演し、1955年からはスペインへ移り住んだ。1957年からはオーストリア西ドイツで演劇活動を再開する。

出演作品[編集]

  • 祖国に告ぐ Patrioten (1937)

参照[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]