ジョー・ルイス
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基本情報 | |
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本名 | ジョセフ・ルイス・バロー |
通称 | Brown Bomber(褐色の爆撃機、ブラウン・ボマー) |
階級 | ヘビー級 |
国籍 |
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誕生日 | 1914年5月13日 |
出身地 |
![]() アラバマ州ラファイエット |
死没日 | 1981年4月12日(66歳没) |
スタイル | オーソドックス |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 69 |
勝ち | 66 |
KO勝ち | 52 |
敗け | 3 |
ジョー・ルイスことジョセフ・ルイス・バロー(Joseph "Joe" Louis Barrow、1914年5月13日 - 1981年4月12日)は、アメリカ合衆国のプロボクサー。アラバマ州ラファイエット出身。身長187cm、体重89kg。元WBA(当時はNBA)ボクシング世界ヘビー級王者。
人物[編集]
ニックネームは「褐色の爆撃機(The Brown Bomber)」。11年間の王座在位中に、プロボクシングの全階級を通じて最多防衛記録である世界王座25回連続防衛の記録保持者であり、この記録は現在も破られていない。
ジャック・ジョンソン以来、史上二人目のアフリカ系アメリカ人世界ヘビー級王者である。
アメリカ合衆国ミシガン州デトロイトには彼の功績を称え、彼の名を冠するジョー・ルイス・アリーナという競技場が建てられた。
来歴[編集]
幼少期[編集]
ジョー・ルイスはアラバマ州ラファイエットでモンロー・バローの息子として生まれた。父親が病院に送られデトロイトに引っ越した後、ボクシングに興味を持つ。1934年7月4日にプロデビューする。
黒人差別から救世主へ[編集]
白人の神経を逆なでし続けた黒人初のヘビー級王者ジャック・ジョンソンの経験から、黒人は王座に挑戦する機会を永遠に剥奪されたはずだった。ジョー・ルイスが世界ヘビー級王座に挑戦できたのは、その人柄による物だった。
そして第二次世界大戦間近の1938年、ドイツのアドルフ・ヒトラーから「アメリカのボクサーを叩きのめせ」という命令を受けたボクサーがアメリカに送り込まれてきた。その男の名はマックス・シュメリング(ただし、皮肉なことに、シュメリングは明快な反ナチス主義者だった。詳しくはマックス・シュメリングの項参照)。元世界ヘビー級王者で、かつてジョー・ルイスと対戦し12回KO勝ちしたことのある男である。「第二次世界大戦前哨戦」と銘打たれた決戦の前に、時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトはホワイトハウスにジョー・ルイスを招待し激励している。
- 「敵国ドイツを打ち負かすためには、君のような筋肉が必要なのだ」
いつの間にか、それはボクシングではなくアメリカ代表のルイスとドイツの刺客シュメリングの国家間の戦いへと摩り替わっていた。国家の威信同士をかけた戦いだけに、ルイスのプレッシャーは想像だにできないものだったであろう。しかし、敵国に乗り込んできたシュメリングには更に大きなプレッシャーがかかっていた。
2年前には熱狂的に歓迎してくれたニューヨークの同じ街なのに、今度は反ナチスのデモ隊が彼目掛けて押し寄せてくるのだ。シュメリングがホテルに泊まっている間にもデモ隊はホテル前に詰めかけ脅迫とも言える暴言を投げかけていた。試合当日の控え室、シュメリングは孤独だった。一緒にアメリカに来た仲間たちは、アメリカ人からの数え切れない脅迫状に怯えてしまい会場に姿を現さなかった。
試合は124秒の間に3度のダウンを奪ったジョー・ルイスの勝利に終わった。ジョー・ルイスが人種の壁を越えて米国の国民的英雄となった瞬間だった(この勝負の模様と2人のボクサーのその後は、2002年に『ファイター リングの戦火』の題名でテレビドラマ化もされている)。
引退[編集]
1948年6月25日にジャーシー・ジョー・ウォルコットを相手に最後の防衛戦を果たすと、1949年3月1日に引退を表明。しかし1950年にカムバックを宣言し、空位の王座を獲得したイザード・チャールズに挑戦するも15R判定負けを喫する。その後は8連勝を記録して、後にヘビー級王者となるロッキー・マルシアノ戦に挑んだが、8RでKO負けし完全に引退した。
晩年[編集]
引退後の1951年に米軍の慰問使節団の一員として日本を訪問している。
ルイスは引退するまでの間に460万ドル以上を稼いだとされているが、そのほとんどが搾取され、ルイスが受け取ったのはわずか80万ドルだけであった[1]。それにもかかわらず、ルイスは寄付行為や親兄弟に家や車を買い与え浪費。さらにレストラン、保険業、ソフトボールチームの運営、牛乳屋、広告代理店、カフェ、馬の牧場などさまざまな事業に手を出すが全て失敗し、無一文になる[2]。税金の支払いを100万ドル以上滞納し、母親の遺産も国税局に差し押さえられるほど経済的に困窮したルイスはプロレスラーに転向する、数試合で心臓を悪くして続けられなくなると今度はプロレスのレフェリーとして活動した。晩年はラスベガスのホテルでカジノ客相手の接客業を長く続けていたが、その中で一番多く質問されたのは「アリとやって勝つ自信はあるか?」だったという。
1981年4月12日、心筋梗塞の為に逝去。66歳没。ボクサー時代の偉大な功績を称えられ、その死後、ワシントンD.C.にあるアーリントン国立墓地に埋葬される栄誉を得た。
戦績[編集]
- プロボクシング:69戦66勝52KO3敗
プロゴルフ[編集]
ルイスの情熱はゴルフにも注がれ、これがゴルフ史に重要な役割を果たした。長年にわたり熱狂的なスポーツファンであり、1936年のシュメリングと最初の対戦をする以前よりゴルフを嗜んでいた。1952年、サンディエゴオープンにアマチュアとしてスポンサー枠で招待され、PGAツアーでプレーした最初のアフリカ系アメリカ人となった。当時の規約ではメンバーは白人 (Caucasian) に限るとされており、PGA(全米プロゴルフ協会)は当初ルイスの出場に難色を示した。だがルイスの名声は素晴らしく、ついには件の内規削除の検討が始められることになった。実際にPGA憲章から「白人のみ」の条項が削除されるのには1961年11月まで待たなければならなかったが、これにより第一世代の黒人プロゴルファー(例えばカルビン・ピート)に道筋をつけた。ルイスはビル・スピラー、テッド・ローズ、ハワード・ウィーラー、ジェームズ・ブラック、クライド・マーチン、チャーリー・シフォードといった初期の黒人プロゴルファーに対して資金援助も行った。また、恵まれない子供達にゴルフを知る機会を与える慈善活動を行う「ファーストティー (The First Tee)」設立にも尽力し、ルイスの息子であるジョー・ルイス・バローJr. が現在もこの団体の統轄を行っている。
2009年、米国PGAは現役当時にメンバーとなれなかったプロゴルファーであるテッド・ローズ、ジョン・シッペン、ビル・スピラーの3人に対して、メンバー資格を当時に遡って与えた。また、ルイスに対しても名誉メンバー資格を与えた。
脚注[編集]
- ^ “Joe Louis” (2006年4月16日). 2013年11月25日閲覧。
- ^ “Joe Louis(1914-1981)” (2004年9月22日). 2013年11月25日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- ジョー・ルイスの戦績 - BoxRec(英語)
前王者 ジェームス・J・ブラドック |
第17代世界ヘビー級王者 1937年6月22日 - 1949年3月1日(返上) |
空位 次タイトル獲得者 イザード・チャールズ |