ハリコフ攻防戦

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ハリコフ攻防戦(ハリコフこうぼうせん、ドイツ語: Schlacht bei Charkow)は、第二次世界大戦中の1941年から1943年に掛けて、ウクライナでは、キエフに次ぐ大都市であるハリコフの制圧をめぐって4度にわたり繰り返された、ナチス・ドイツ軍とソビエト赤軍の戦いである。

第一次ハリコフ攻防戦[編集]

1941年のバルバロッサ作戦の際、ドイツ南方軍集団とソ連南西方面軍との間に、ハリコフで小競り合いがあった。

第二次ハリコフ攻防戦[編集]

モスクワ前面でのドイツ軍の敗退を過大評価したスタフカは、雪解け期前にドイツ軍を国内から駆逐するため1月に全戦線で戦略的攻勢を命じたが、戦力や補給不足で、ドイツ軍を駆逐することはできず、戦線に凸凹をつけるぐらいで雪解け期を迎えた。この結果、ハリコフ南方にソ連軍の大きな突出部が出来ていた。

雪解け期の間、独ソ両軍はそれぞれ夏季の戦略プランを検討したが、ソ連側は突出部を利用して南北からハリコフを奪還する計画を立案した。一方、ドイツ軍はボルガ河およびコーカサス征服を含むブラウ作戦をまとめたが、ブラウ作戦の実施の前に準備作戦としてソ連軍の突出部を南北から挟撃して切り取ってしまうフレデリクス計画も立案した。

両軍はそれぞれの攻勢計画の為に作戦準備を始めたが、実際にはソ連軍が先に準備を完了し、5月12日には攻勢を開始した。しかし、この動きは結果的にはドイツ軍の思うつぼとなり、フレデリクス計画によってソ連軍攻勢部隊は包囲されて壊滅してしまい、南部での戦車戦力の殆どを失ってしまった。この結果、この作戦前はほぼ同等レベルであった南部での独ソの戦力バランスは大きくドイツ軍に傾き、ソ連軍はドン河を目指して東方へ撤退を続けることになった。

第三次ハリコフ攻防戦[編集]

1942年のスターリングラード攻防戦の結果、北方のスターリングラードに向かっていたB軍集団主力第6軍が壊滅したため、南方油田地帯を攻めていたA軍集団は背後を襲われる危機に陥ったが、ギリギリのタイミングで辛くも脱出に成功した。春の雪解け期がくる前に可能な限りの領土回復を目指す戦略をとるソ連軍は、引き続き進撃を続け、1943年2月18日ハリコフを落とし、ドイツ南方軍集団司令部も危機に瀕した。

しかし、南方軍集団司令官マンシュタイン元帥はソ連軍も補給線が伸びきり、前進限界点に達していると分析。マンシュタインは脱出したA軍集団・残存B軍集団・増援のSS装甲軍団を展開して、数日後には一気に反撃に転じた。進撃続きで疲弊していたソ連軍は総崩れとなり、南部から次々と壊走し、3月14日ハリコフもドイツ軍の手中に戻った。

この勝利でクルスクを中心とした突出部が出来、7月のクルスクの戦いへと繋がっていく。

第四次ハリコフ攻防戦[編集]

1943年7月のドイツ軍ツィタデレ作戦は、連合軍のシチリア上陸と、ソ連軍のオリョール湾曲部への攻勢により、7月12日には中止となり、南部でも7月末までに、攻勢開始点まで押し戻されてしまった。8月には、アゾフ海沿岸までの南部全戦線で、ソ連軍の攻勢が始まった。 8月6日にはベルゴロドが陥落し、ハリコフも次第に包囲されつつあったので、マンシュタインもハリコフからの撤退に同意していたが、ヒトラーは、8月12日には、”いかなる状況でも、ハリコフを保持せよ"、との命令を出した。状況は絶望的になりつつあったが、8月21日に、マンシュタインは、ヒトラーの同意を取らずに、第8軍司令官ブェーラーに同意して撤退命令を出し、ドイツ軍は撤収を始めた。8月23日には、街は、最終的にソ連軍の手に戻った。

関連項目[編集]