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グルジア民主共和国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
グルジア民主共和国
საქართველოს დემოკრატიული რესპუბლიკა (ジョージア語)
グルジアの位置
グルジア民主共和国の主張した領土(1920年)
国歌:დიდება(ジョージア語)
称賛
公用語 ジョージア語
言語 ロシア語
アルメニア語
アブハズ語
アゼルバイジャン語
ギリシャ語
オセチア語
スヴァン語
メグレル語
ラズ語
トルコ語
首都 チフリス
政府長
1918年5月26日 - 7月24日 ノエ・ラミシヴィリ英語版
1918年7月24日 - 1921年3月18日 ノエ・ジョルダニア
面積
1919年 107,600km²
人口
1919年推定 2,500,000人
変遷
建国(独立) 1918年5月26日
ソビエト政府樹立 1921年2月25日
共和国政府国外亡命 1921年3月18日
通貨 マネティ英語版
現在 ジョージアの旗 ジョージア
アルメニアの旗 アルメニア
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン
ロシアの旗 ロシア
トルコの旗 トルコ
先代 次代

グルジア民主共和国(グルジアみんしゅきょうわこく、ジョージア語: საქართველოს დემოკრატიული რესპუბლიკა, Sakartvelos Demokratiuli Respublika)とは、1918年から1921年にかけてグルジア(ジョージア/サカルトヴェロ)に存在した国家。現地語ではサカルトヴェロ民主共和国となる。ザカフカース民主連邦共和国の崩壊にともない、メンシェヴィキを中心として独立を果たしたが、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国赤軍に首都チフリスをおとされて崩壊した。

歴史

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ザカフカース民主連邦共和国の崩壊後、1918年5月26日、グルジア国民会議により建国が宣言された。当初の政府は、メンシェヴィキ(ノイ・ラミシュヴィリロシア語版議長、エヴゲニ・ゲゲチコリロシア語版ノエ・ジョルダニアアカーキ・チヘンケリロシア語版イラクリー・ツェレテリ等)、連邦社会主義者、民族民主主義者の連合政権だったが、後に国民会議は議会に改称され、メンシェヴィキのみとなった(ジョルダニア議長)。1918年5月からドイツ帝国軍がグルジアに進駐し、グルジア政府はドイツ軍の助けを得てドゥシェチでの反乱を鎮圧した。6月4日、オスマン帝国と条約を結び、アジャリア等一部の領土がオスマンに譲渡された。1918年7月、グルジア軍は、クバーニ=黒海ソビエト共和国領内に侵攻した。

ドイツ降伏後、ドイツ軍は撤収した。1918年12月から三国協商国のザカフカース干渉が始まった。1919年3月から議会の役割は、建国会議(定員130人の内、メンシェヴィキが109人。ニコライ・チヘイゼ議長)が執行した。グルジア政府の下では、産業・貿易は従来のままで、農地改革は立憲民主党(カデット)のプログラムを切り詰めたものだった。また、グルジア領内に居住する他の民族には、民族自決権も、母国語で教育を受ける権利も認められなかった。ロシア内戦中、グルジア政府は、白軍を援助し、デニーキン軍撃破後、彼らに隠れ家を提供した。

1919年10月~11月、グルジアの各地で武装蜂起が始まったが鎮圧された。国内外情勢の悪化により、グルジア政府は、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国と平和条約を締結せざるを得ず(1920年5月7日)、白軍と手を切り、外国軍を追い出し、ボリシェヴィキを合法化することが義務付けられた。セルゲイ・キーロフが全権代表に任命され、1920年5月、グルジア共産党(ボリシェヴィキ)が創設された(党員約2万人)。ボリシェヴィキは、地下活動から表に出、政府打倒を準備した。1921年2月11日、蜂起が始まり、ボリシェヴィキはロシア政府に援助を要請した。2月25日、赤軍の支援の下、グルジア革命会議が首都チフリスを支配下に置き、ソビエト派によってグルジア社会主義ソビエト共和国が建国された。グルジア政府はバトゥミに移ったが、3月17日に国軍が降伏し、3月18日には政府自体が国外に亡命した。

政府と法律

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1921年2月21日に憲法制定議会で採択されたグルジア憲法の一部

1918年5月26日に宣言された「グルジア独立法」は、将来の民主国家としての基本原則を簡潔に示した。この法律によれば、「グルジア民主共和国は、その領土内のすべての市民に対し、国籍、信条、社会的地位、性別に関係なく平等に政治的権利を保障する」とされた。同日に最初の政府が成立し、ノイ・ラミシュヴィリロシア語版 が率いた。1918年10月、グルジア国民評議会は「議会」へ改称され、1919年2月14日に新たな選挙を実施すると発表した。

1919年から1921年までの2年間、選挙で選ばれたグルジア制憲議会は、ニコライ・チヘイゼ議長の下で126本の法律を採択した。その内容には、市民権、地方選挙、国防、公用語、農業、法制度、少数民族の政治・行政制度(アブハジア人民評議会に関する法律を含む)、公教育制度、さらに財政・金融政策、鉄道、貿易と国内生産の規制などが含まれていた。1921年2月21日、赤軍による侵攻の危機に直面する中で、制憲議会はグルジア民主共和国憲法を採択した。これはグルジア史上初の近代的基本法であり、人権を重視した内容であった。当時としては非常に先進的な憲法とみなされ、国際的にも高く評価された。[1]

この国は、行政機関を備えた「分権型単一議会共和国」として統治された。憲法では「国家は全人民に属し、議会が国家主権を行使する」と定められていた。三つの分権地域として、アブハジア自治地域、ムスリム・グルジア自治地域、ザカタラ地域が存在し、地方自治が認められていた。

政府議長は国家の最高執行職であり、議会の承認を受けて1年任期で就任した(連続2期を超えて務めることはできなかった)。議長は閣僚を任命し、国家運営および外交においてグルジアを代表した。しかし、議会解散権や法案拒否権など、国家元首と政府首脳を兼ねる立場に一般的な権限の一部は持っていなかった。

1919年、グルジア政府は陪審制に関する法律を採択した。重大刑事事件、政治事件、報道事件における陪審裁判の権利は、1921年憲法に盛り込まれた。[2]最高裁判所は元老院であり、議会によって間接的に選出された。憲法改正には、まず議会の3分の2以上の承認が必要であり、その後、国民投票で過半数の賛成を得なければならなかった。ノエ・ジョルダニアは、グルジア民主共和国における地方分権化について、地方自治議会(エロバ)が国家議会と権力を分担する強力な役割を持つものと考えていた。[3]

領域と構成

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グルジア民主共和国時代、1920年にグルジア民主共和国制憲議会の自治委員会によって策定された「グルジア領土を新たな行政単位(地域)へ分割する計画」に基づき、行政区画改革が行われた。

この改革では、従来の「」および「」区分は廃止され、一方で「ウエズド(郡)」と「オクルグ(管区)」は維持されたうえで、「地域」へ改称された。地域名は主として行政中心地の名称から採られた。また、境界線には若干の変更が加えられ、いくつかのウエズドやオクルグは統合された。

例えば:

さらに、以下の3つの自治地域が設置された:

  • アブハジア自治地域(スフミ地域)
  • ムスリム・グルジア自治地域(バトゥミ地域)
  • ザカタラ地域

また、二層制の地方自治制度が導入され、18の地域と、それに相当する行政区画が設置された。首都ティフリス(現在のトビリシ)が地域レベルの中心となり、地方レベルでは356の都市および共同体が存在した。

さらに、アルダハン地区南部およびオルタ地区については、もしグルジア民主共和国が実効支配を確立した場合、新設されるアルタアニ地域へ編入される予定であった。

グルジアの領土を新たな行政単位(地域)に分割する計画、1920年。

ロシア帝国時代のウエズドおよびオクルグを基礎として、「地域分割計画」に従い設置されたグルジア民主共和国の新たな行政区画(括弧内は別称):

  1. チフリス地域(サモカラコ)  首府:チフリス
  2. ボルチャルィ地域(クヴェモ・カルトリ)  首府:ラテヴァニ/エカテリネンフェルト(現ボルニシ)
  3. アハルツィヘ地域(サムツヘ=ジャヴァヘティ)  首府:アハルツィヘ
  4. ゴリ地域(シダ・カルトリ)  首府:ゴリ
  5. アナヌリ地域(ムティウレティ)  首府:アナヌリ
  6. テラヴィ地域(シダ・カヘティ)  首府:テラヴィ
  7. シグナギ地域(キジキ)  首府:シグナギ
  8. ザカタラ地域(サインギロ)  首府:ザカタラ
  9. クタイシ地域(クヴェモ・イメレティ)  首府:クタイシ
  10. ゼスタポニ地域(ゼモ・イメレティ)  首府:ゼスタポニ/クヴィリリ
  11. オニ地域(ラチャ)  首府:オニ
  12. ツァゲリ地域(レチフミ=スヴァネティ)  首府:ツァゲリ
  13. スフミ地域(アブハジア=サムルザカノ)  首府:スフミ
  14. ズグディディ地域(ゼモ・オディシ)  首府:ズグディディ
  15. セナキ地域(クヴェモ・オディシ)  首府:アハル=セナキ/ノヴォ=セナキ
  16. オズルゲティ地域(グリア)  首府:オズルゲティ
  17. バトゥミ地域(アジャリア=クラルジェティ)  首府:バトゥミ
  18. アルタアニ地域(タオ=アルタアニ)  首府:アルタアニ/アルダガン
  19. チフリス(トビリシ)  グルジア民主共和国の首都

外交

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1920年5月7日の「モスクワ平和条約」において、グルジアはボリシェヴィキ組織の合法化および、グルジア領内への外国軍駐留を認めないことを条件として、ソビエト・ロシアから独立を承認された。[4]

グルジア民主共和国の独立は、ルーマニアアルゼンチンドイツトルコベルギーイギリスフランス日本イタリアポーランドチェコスロヴァキアシャムエストニアなど、多くの国々によって法的に承認された。[5]

1921年以降もしばらくの間、「亡命グルジア民主共和国政府」は、多くのヨーロッパ諸国によってグルジア唯一の合法政府として承認され続けた。この亡命政府は1954年まで存続し、グルジアにおけるソビエト支配への反対を継続した。[6]

領土の変遷

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1918年から1921年のグルジア民主共和国の領土の変遷図。

1918年から1921年にかけてのグルジアの国境は、周辺諸国との国境紛争および、それに続く条約・協定によって形成された。

北方では、1920年春に北カフカスでボリシェヴィキ政権が樹立されるまで、グルジアはロシア内戦下のさまざまな政権と接していた。ソビエト・ロシアとグルジアの国境は、1920年のモスクワ条約 (ロシア — グルジア)ロシア語版によって規定された。白軍とのソチ紛争ロシア語版の際には、グルジアは1918年に一時的にソチを支配した。

南西部では、グルジア民主共和国の国境は第一次世界大戦の進展とともに変動し、オスマン帝国敗北後に改定された。イギリス軍が1920年に撤退した後、グルジアはアルトヴィンアルダハン、バトゥミ県の一部、アハルツィヘおよびアハルカラキを再び支配下に置いた。1920年のセーヴル条約では、リゼおよびホパを含む東ラズィスタンロシア語版の支配権がグルジアに与えられた。しかし、グルジア政府はトルコ革命派との新たな戦争へ巻き込まれるのを避けるため、これら地域の実効支配には踏み切らなかった。

アルメニア第一共和国との間では、ボルチャルィ地区の一部を巡る国境紛争が1918年12月の短期戦争へ発展した。イギリスの仲介によってロリ中立地帯が設置されたが、1920年末のアルメニア共和国崩壊後、グルジアが再占領した。

南東部では、グルジアはアゼルバイジャンと国境を接していた。アゼルバイジャンはザカタラ地区ロシア語版などの領有を主張していたが、両国関係は概ね平和的であり、アゼルバイジャンがソビエト化されるまで敵対行為には至らなかった。[7]

1919年の諸計画および1921年憲法では、アブハジア、アジャリア、ザカタラに一定の自治権が与えられていた。[8]憲法第107条はアブハジアとザカタラの自治を保障していた。しかし、赤軍侵攻のため自治制度の具体的内容は最終的に確定されなかった。[9]それでも、近代史上においてアブハジアが地政学的実体として定義された最初の事例となった。[10]

グルジア民主共和国の領土には、現在では他国領となっている地域も含まれていた。当時の面積は約10万7600平方キロメートルであり、現代のグルジア(約6万9700平方キロメートル)より大きかった。グルジア民主共和国のソビエト占領後、大規模な領土再編が行われ、グルジアは領土のおよそ3分の1を失った。アルトヴィン、アルダハンおよびバトゥミ県の一部はトルコへ割譲され、アルメニアはロリを獲得、アゼルバイジャンはザカタラ地区を獲得した。また、大カフカース山脈沿いの一部地域はロシアに編入された。

人口動態

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バトゥム条約ロシア語版締結後のグルジア民主共和国は、主にティフリス県、クタイス県、バトゥミ州、スフミ管区の領土から構成されていた。当時の人口は、グルジア人1,607,000人、アルメニア人535,000人、ムスリム200,000人、その他510,000人の計2,852,000人であった。[11]

1921年までに、隣接するアルメニアおよびアゼルバイジャン両共和国の崩壊と、グルジアによるロリ地区およびザカタラ地区の再取得を経て、ソビエト側の資料によれば人口は2,677,000人に達した。このうち都市人口は475,000人(17.7%)であった。この数値は、約5年後の1926年に行われたソ連によるグルジア国勢調査の結果(人口2,667,000人)とも整合しており、前述のロリ地区とザカタラ地区がそれぞれ隣国のアルメニアとアゼルバイジャンに帰属(喪失)したことによる人口減を裏付けている。[12]

軍事

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グルジア政府議長ノエ・ジョルダニアと人民親衛隊長ヴァリコ・ジュゲリ、および人民親衛隊の面々。トビリシ、1919年-1920年。

グルジア人民親衛隊ロシア語版は、国内で特権的な地位にある軍事組織であった。1917年9月5日に「労働者親衛隊」として設立され、後に「赤衛隊」、最終的に「人民親衛隊」へと改称された。これは高度に政治化された軍事構造であり、陸軍省ではなく議会の直接の管理下に置かれていた。1917年から1921年の存続期間を通じて、親衛隊はメンシェヴィキの活動家ヴァリコ・ジュゲリロシア語版の指揮下にあった。[13]

グルジア民主共和国は、独自の正規軍も編成していた。平時に武装していたのは一部のみで、大部分は予備役としてそれぞれの家業に従事していた。共和国が危機に瀕した際には参謀本部によって召集され、武器を支給されて各地に配置される手はずとなっていた。ギオルギ・クヴィニタゼロシア語版将軍が二度にわたり総司令官を務めた。

「レスプブリケリ(グルジア語で『共和国派』の意)」と名付けられたグルジアの装甲列車。

1919年3月から1920年10月にかけて、グルジア民主共和国正規軍英語版は再編された。それは3個歩兵旅団(後に1個師団に統合)、1個騎兵旅団、2個要塞連隊、3個砲兵旅団、1個工兵大隊、1個電信小隊、装甲車隊を含む1個自動車隊、1個騎兵連隊、および陸軍士官学校で構成されていた。[14]人民親衛隊は4個の正規大隊で構成されていたが、さらに18個大隊、すなわち1個師団を動員することが可能であった。こうして1920年、グルジア軍と人民親衛隊を合わせると、16個歩兵大隊(陸軍1個師団と人民親衛隊1個連隊)、1個工兵大隊、5個野戦砲兵大隊、2個騎兵軍団、装甲車隊2個を擁する2個自動車隊、1個航空隊、および4編成の装甲列車で構成されるに至った。参謀本部と要塞連隊を除いた軍の総員は2万7,000人であったが、動員によってこの数は8万7,000人まで増強可能であった。グルジア海軍は、駆逐艦1隻、戦闘機4機、水雷艇4隻、掃海艇4隻、および蒸気船10隻を保有していた。[15]

共和国には、熟練した将軍や将校を含む第一次世界大戦の退役軍人が約20万人いたものの、政府は効果的な防衛体制を構築することに失敗した。このことが、共和国崩壊の大きな要因となった。

経済

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グルジア民主共和国の建国宣言当時、グルジア経済は強固な状態にはなかった。1918年の経済難は第一次世界大戦の影響による全欧州的な問題であったが、新国家としてのグルジアは、より多くの困難に直面していた。[16]即座に浮上した主な課題は、ロシアへの経済的依存と、大規模な農本社会の工業化の必要性であった。[17]さらに、安定した経済を維持するための財政的裏付けを欠きながらも、経済に社会主義的な政策を導入しようとしたグルジア政府の方針の欠如も、問題を深刻化させた。[18]

ロシア帝国の一部であった時代、グルジアは部分的に工業化が進んでおり、天然資源の抽出はこの地域の主要な輸出項目となっていた。しかし、歴史家のスティーヴン・フランシス・ジョーンズロシア語版が指摘するように、帝政ロシアの政策は本国の需要と帝国への統合を優先するものであり、「原材料の生産、輸送、軍需品の開発、そして茶、タバコ、綿花といった特殊作物の生産という国家レベルの枠を超えた、地域独自の経済発展戦略」は存在しなかった。[19]この傾向は民族的な構成にも見られ、グルジアの商人や企業主の圧倒的多数はアルメニア系であり、行政は主にロシア系で構成されていた。一方で、民族的グルジア人の多くは農業にとどまるか、都市部で未熟練労働に従事していた。この民族間の分業構造は、共和国の成立後、調整が困難であることが判明した。1918年12月のグルジア・アルメニア戦争の余波により、グルジア全土で反アルメニア感情ロシア語版が高まったことで、経済改善に必要な変革への協力を、実業界を支配していたアルメニア層が渋るという事態を招いた。[20]

農業はグルジア経済の中核であり続け、共和国の存続期間を通じてその地位は変わらなかった。人口の約79%が農業に従事していたが、その手法は旧態依然としており、効率的とは言い難かった。これにより都市部では食料不足が発生した。全耕作地の81%が穀物生産に充てられていたにもかかわらず、穀物、果物、野菜などの食品の禁輸措置とともに、輸入も必要とされる状況であった。[21]

チアトゥラマンガン産業は、20世紀初頭の欧州の冶金産業において極めて重要であり、世界のマンガン供給量の約70%を占めていた。また、伝統的にグルジアは、バトゥミポティといった主要な黒海港を通じた国際的な輸送回廊としての役割も果たしていた。[22]しかし、第一次世界大戦はこの産業にも壊滅的な打撃を与えた。大戦中、黒海が封鎖されたことで輸出が厳しく制限され、グルジアの経済活動は激減した。チアトゥラの労働者数は1913年の3,500人から1919年には250人まで落ち込み、1920年になってようやく増加に転じた。ブラジルインドという新興市場の台頭も、世界規模におけるチアトゥラの鉱山の重要性を低下させ、生産高をさらに弱める結果となった。[23]

国際的な承認の欠如と、政府の経済政策が部分的な成功にとどまったことは、共和国の経済発展を妨げ、国は経済危機に見舞われた。1920年から1921年にかけて、ようやく改善の兆しが見られ始めたところであった。

教育・科学・文化

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この激動の時代における文化的に最も重要な出来事は、1918年のチフリスにおける国立大学(現在のトビリシ国立大学)の創設であった。これは、帝政ロシア当局によって数十年にわたり阻まれてきたグルジア人の長年の夢であった。その他の教育機関としては、チフリス、バトゥミ、クタイシ、オズルゲティ、ポティ、ゴリのギムナジウム(中等教育機関)、トビリシ軍事学校、ゴリ教員養成セミナー、女子教員養成セミナーなどが存在した。また、グルジアには少数民族のための学校も数多く設置されていた。

グルジア国立博物館、チフリスおよびクタイシの劇場、トビリシ国立オペラ劇場、国立芸術アカデミーなどが、文化的生活の先陣を切った。

国内の出版界をリードしたのは、『サカルトヴェロス・レスプブリカ(グルジア共和国)』、『サカルトヴェロ(グルジア)』、『エルトバ(統一)』、『サムショブロ(祖国)』、『サハルホ・サクメ(公務)』といった新聞や、英語で発行されていた『ザ・ジョージアン・メッセンジャー』および『ザ・ジョージアン・メール』であった。

遺産

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1918年から1921年にかけてのグルジアの独立は短期間であったものの、グルジア人の国民意識の発展において特別な重要性を持っており、それは後にソビエト連邦内でも最も活発な独立勢力の一つとなる大きな要因となった。1980年代後半の民族運動の指導者たちは、しばしばグルジア民主共和国をロシア帝国に対する闘争の勝利の一例として言及し、当時の政治状況と重ね合わせることで、グルジア「第一共和国」のやや理想化されたイメージを描き出した。

1991年4月9日、グルジア共和国最高会議によって「グルジアの国家独立回復に関する法」が採択され、グルジアの独立が回復した。[24]かつてグルジア民主共和国で使用されていた国家の象徴(国旗や国章など)は、新たに独立した国家の象徴として再制定され、2004年まで使用され続けた。グルジア民主共和国が建国された5月26日は、現在もグルジアの独立記念日として国民の祝日となっている。[25]

関連項目

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脚注

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  1. Lee, Eric (September 15, 2017). The Experiment: Georgia's Forgotten Revolution 1918-1921. Zed Books. ISBN 9781783609581. "The Georgian Constitution was seen as highly progressive in its time and future British Labour Prime Minister Ramsay MacDonald wrote, 'I familiarised myself with its constitution, its social and economic reconstruction and what I saw there, I wish I could see in my country too.'"
  2. Papuashvili 2012, p. 324
  3. Stephen F. Jones [英語版]; Natalie Sabanadze [英語版] (2023年3月10日). “Elections Are Not Enough: Georgia Needs a New Model of Democracy”. ユーラシアネット (英語). Wikidata Q137163565. 2025年11月30日時点のオリジナルよりアーカイブ.
  4. Kazemzadeh 1951, p. 210
  5. #GEORGIA100 | Embassy of Georgia (英語) (2018年6月8日). 2024年1月5日閲覧。
  6. Stefan Talmon (1998), Recognition of Governments in International Law, p. 289-290. Oxford University Press, ISBN 0-19-826573-5.
  7. Yilmaz 2009, pp. 40–43
  8. Papuashvili 2012, p. 345
  9. Welt 2012, pp. 214–215
  10. Blauvelt 2014, p. 26
  11. Hovannisian, Richard G. (1967). Armenia on the road to independence, 1918. Berkeley: University of California Press. pp. 236. ISBN 0-520-00574-0. OCLC 825110
  12. Pipes, Richard (1959). “Demographic and Ethnographic Changes in Transcaucasia, 1897–1956”. Middle East Journal (Middle East Institute) 13 (1): 48. JSTOR 4323084.
  13. (French) Valiko Djougheli.
  14. Armed Forces of Georgian Democratic Republic in 1918–1921”. 2024年2月25日閲覧。
  15. (ロシア語) А. Дерябин, Р. Паласиос-Фернандес (2000), Гражданская война в России 1917–1922. Национальные армии. ACT, ISBN 5-237-01084-9.
  16. Jones 2014, pp. 1–2
  17. Jones 2014, p. 2
  18. Jones 2014, pp. 3–4
  19. Jones 2014, p. 2
  20. Jones 2014, p. 3
  21. Jones 2014, p. 9
  22. Jones 2014, p. 2
  23. Jones 2014, p. 4
  24. Act of Restoration of State Independence of Georgia (英語). სსიპ "საქართველოს საკანონმდებლო მაცნე". 2023年12月30日閲覧。
  25. Georgia National Day 2023 (英語). United States Department of State. 2023年12月30日閲覧。