緑ウクライナ

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極東ウクライナ共和国
ウクライナ語: Зелений клин
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
極東共和国
1920年 - 1922年 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
極東共和国
極東ウクライナの国旗
(国旗)
極東ウクライナの位置
公用語 ウクライナ語
首都 ニコラエフスク・ナ・アムーレ
極東会議議長
1920年 - 1922年 ユーリ・フルスコ=モヴァ英語版
変遷
独立 1920年4月11日
滅亡1922年10月25日
現在ロシアの旗 ロシア

緑の楔(みどりのくさび、ウクライナ語Зелений клин)は、アムール川から太平洋岸までのロシア極東におけるウクライナ人の植民地の名称。緑ウクライナとも。

1917年のロシア革命以降、極東ウクライナ共和国がウクライナ人によってロシア極東に建国されることが計画された。ボルシェビキ極東共和国が1920年4月6日に設置されると、ウクライナ人が多数であった極東はこの国家を脱して緑ウクライナと呼ばれる国家の建設を試みた。しかし、この運動はすぐに失敗した。

略歴[編集]

会議の議長[編集]

領域[編集]

アムール川近郊からウスリー近郊、ハバロフスクウラジオストク

水界地理学[編集]

現在の極東と同様の海岸線を持っていた。

設置の歴史[編集]

ユーリ・フルスコ=モヴァ

ウクライナにおいて、ウクライナ人は主に農村に住んで農業を営んでおり、ロシア人ユダヤ人などの多い都市部にはあまり住んでいなかった。当時のウクライナ人は都市を敬遠しており、19世紀末のウクライナで進展した都市化や工業化では主にロシア人が流入した一方、ウクライナ人はウクライナ内の炭坑や工場で労働者となるよりもむしろ国外や辺境で農地を持つことを望んだ。多くのウクライナ人がカナダアメリカ合衆国の農業地帯に移民したほか、ロシア帝国内では人口希薄な東方、中でも極東に移動して農業を営んだ。

ロシア極東のアムール川から太平洋岸にかけてはゼレニークリン(Zeleny Klyn ウクライナ語: Зелений клин)、あるいはゼレニーウクライナ、東部ウクライナと呼ばれておりウクライナ人に殖民された地域であった。これらはウクライナ人の植民者が名づけたものである。

これらの領域は100万km2を含む広大な土地でウクライナ人の人口は1926年には人口の41%~47%に達していた。なお総人口は1958年の時点で人口は310万人であった。

ゼレニー・クリンがロシア帝国の一部になったのはシベリアやこの地域を除く極東と比べて遥かに遅かった。この地域への殖民への最初の試みは中期17世紀にさかのぼることができる。この時ハバーロフがアムール川岸のアルバジンに要塞を築いている。このとき以来、絶え間なく斥候兵が満州地方で小競り合いを起こすようになった。1669年にはネルチンスク条約が締結されアムール川を境として北部がロシアの領土となった。

19世紀中期、ロシアが1853年から1856年の間に起こったクリミア戦争に敗北するとロシアは第二次東方拡大を行った。多くのコサック殖民がアムール川近郊に設置された。このときロシアより圧倒的に武力に劣っていた清帝国はロシアとの戦争を避けて1853年にアイグン条約プリモルスク条約を1860年に締結し、現在の国境線になった。

これらの期間の植民者は少なく、これらの地域には1,4000人のコサックと2500人のロシア兵だけであった。1816年、プリモルスキー州とアムールスキー州が設置される。ウラジオストクは1860年に、ハバロフスクは1858年に建設が始まった。

1882年、ウクライナからこの地域への自由移動が公表された。植民者には自由地が提供された。植民者の乗る船はウクライナのオデッサ港から出発した。この結果1897年までに人口が31万人にまで増加した。1901年、シベリア鉄道の設置が完了し、これ以降は1年当たりに14000人の移住者がこれらの領域に渡っていった。1907年に植民者は最大になり78000人の人口がこれらの地域にわたっていった。

1914年これらの地域はアレクサンドル・コルチャーク海軍大将の管轄下に入った。1920年には極東共和国が日本とロシアの緩衝国として設置された。1922年にこの共和国はロシア社会主義共和国に編入された。1934年、ユダヤ人自治州がこの地域の首都であったビロビジャンに設立された。

ソビエトの支配を嫌ったウクライナ人の中には極東から中国領の満州や日本領の南樺太に逃れる者もおり、当地の「白系ロシア人」の大きな部分をなしていた。

参考文献[編集]

  • (日本語)『戰争終末ニ於ケル獨逸及東隣諸國間通商關係條約』 / 外務省臨時調査部[編]. 約改正調査報告 ; 第15號. 外務省臨時調査部, 1921.
  • (日本語)『ウクライナとは何ぞや』 / [野村海外事業部訳編]. 野村海外事業部, 1939.
  • (日本語)『西部白ロシヤ及西部ウクライナ』 / 南満州鉄道株式会社調査部第三調査室編. ソ聯研究資料 ; 第59号. 南満州鉄道, 1940.
  • (日本語)『ウクライナ独立問題の民族史的考察』 / 東亜研究所編; 丙第43号D. 東亜研究所, 1941.
  • (ウクライナ語) Кабузан В. М. Переселення українців у Далекосхідний край // Український історичний журнал. — Київ, 1971.
  • (ウクライナ語) Марунчак М. Українці в СРСР поза кордонами УРСР. Вінніпег, 1974.
  • (ウクライナ語) Сергійчук В. Українці в імперії. — Київ, 1992.
  • (ウクライナ語) Білий Д. Малиновий клин (Нариси з історії українського населення Кубані). — Київ:Україна, 1994.
  • (ウクライナ語) Попок А. Українські поселення на Далекому Сході; історико-соціологічний нарис. — Київ, 2001.
  • (ロシア語) Черномаз В.А. Украинское национальное движение на Дальнем Востоке (1917– 1917-1922 гг.): дис. … канд. ист. наук. Владивосток, 2005.

関連項目[編集]

外部リンク[編集]