アフリカ統一機構
アフリカ統一機構(アフリカとういつきこう、英: Organization of African Unity, OAU, 仏: Organisation de l'Unité Africaine, OUA)は、かつてアフリカ大陸に存在した国際組織。
国連憲章と世界人権宣言を尊重し、アフリカ諸国の統一と連帯を促進し、人民の生活向上のための相互協力・調整、国家の主権と領土を守り、独立の擁護、新植民地主義と闘うことが目的。1963年5月25日発足。2002年7月9日にアフリカ連合へ発展した。
概要[編集]
アフリカ地域諸国の連帯・団結により、政治的・経済的発言力を強化することのほか、植民地主義と戦うことを目的とする世界最大の地域統合だった。特に冷戦期においては、大国による武力介入の可能性を考慮し、政治的中立性にも配慮して戦争や人権侵害を防止できなかったことから「独裁者クラブ」[1]と揶揄されることもあった。ただし、チャド・リビア紛争では平和維持活動としてザイールとナイジェリアとセネガルによるインター・アフリカ軍を派遣した[2][3]。
1963年、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世、エジプト大統領ガマール・アブドゥル=ナーセル、ガーナ大統領クワメ・エンクルマらの尽力で発足した。エチオピアのアディスアベバに当時のアフリカ独立国33カ国のうち、除外された南アフリカ共和国と不参加のモロッコ、トーゴを除く、30カ国の元首・政府首脳が会議を開き、憲章に調印した。加盟国はOAU成立以前の政治状況を反映して大きく3つのグループに分かれており、いくつかの問題で対立がみられた。1961年1月にできたカサブランカ・グループ(ガーナ、ギニア、マリ、アルジェリア、モロッコ)、1960年12月にできたブラザビル・グループ(旧仏領諸国のうちセネガル、コートジボワール、コンゴなど12カ国)、その他のリベリア、トーゴ、ナイジェリアなどのモンロビア・グループが存在していた。しかし、ハイレ・セラシエ1世の仲裁もあって[4]、汎アフリカ主義のもとアフリカ統一への機構の設立を実現させた[5]。

1994年にアパルトヘイトを廃止した南アフリカ共和国が加盟することで、モロッコを除く全てのアフリカ諸国が加盟することとなった。モロッコは1963年の設立時より加盟していたものの、1982年にモロッコが領有権を主張する西サハラのサハラ・アラブ民主共和国がOAUに加盟したことに抗議し、1984年11月12日をもって脱退、後続のアフリカ連合にも参加していなかったが、2017年再加入した。
歴代の総会議長[編集]
脚注[編集]
- ^ “African Union replaces dictators' club” (プレスリリース), BBC, (8 July, 2002) 2018年7月15日閲覧。
- ^ 小田英郎「リビア・チャド合邦問題とOAU」慶應義塾大学法学研究会1990年
- ^ Terry M. Mays, Africa's First Peacekeeping Operation: The OAU in Chad, 1981-1982, Praeger (30 April 2002); ISBN 0-275-97606-8
- ^ 中村弘光 『アフリカ現代史IV』 山川出版社〈世界現代史16〉、東京、1982年12月。p186
- ^ 岡倉、2001年、222-228ページ
参考文献[編集]
- 岡倉登志『アフリカの歴史-侵略と抵抗の軌跡』明石書店 2001年ISBN 4-7503-1372-6
関連項目[編集]
- 汎アフリカ主義
- パン・アフリカ会議
- アフリカ合衆連合、(1958年–1962年)
- 全アフリカ人民会議(AAPC、1958年11月23日)
- en:Casablanca Group
- アフリカ連合
- アフリカ合衆国
- アフリカの日