出淵勝次

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出淵勝次

出淵 勝次(でぶち かつじ、1878年7月25日 - 1947年8月19日)は、日本の外交官政治家外務次官在アメリカ合衆国日本大使、勅撰貴族院議員参議院議員等を務めた。

来歴・人物[編集]

岩手県第一大区一小区仁王村(現盛岡市梨木町)で旧盛岡藩藩士の次男として生まれる。旧制盛岡中学校(岩手県立盛岡第一高等学校の前身)卒、1902年旧制東京高等商業学校一橋大学の前身)専門部貿易科卒業[1][2]

1902年、外交官及び領事官試験に合格し外務省入省。京城在勤、ドイツ在勤、政務局第一課長を歴任。第一次世界大戦中は在中国公使館一等書記官を務め、戦後五四運動などを受け、山東半島の利権を中国に返還すべく山東還付委員として対処にあたった[2]在アメリカ合衆国日本国大使館一等書記官、在ドイツ日本国大使館参事官を経て、1923年に外務省アジア局長。対支文化事務局長併任となり東方文化事業に関わる。

1924年外務次官に就任し満4年務める、1925年同情報部長兼務、1928年駐アメリカ合衆国特命全権大使に就任し満6年務め、排日移民法への対応や、満州事変に関する対米外交等にあたり、軍部の意向に反して日米関係改善に努めた[2]

1934年待命、親善大使としてオーストラリア訪問、1936年貴族院議員に勅選。1947年、貴族院の廃止を受け、第1回参議院議員通常選挙に岩手県から無所属で立候補し当選。選挙直後に地元で肺炎となったが、全快。しかし病気の影響で身体が衰弱。国会召集日には所属先の緑風会までは来られたが、体調を理由に本会議には出席できずに帰宅。その後も登院することができず、同年死去。8月21日の参議院本会議において佐藤尚武の弔意決議案に基づき弔意が表された。

死亡する前年、前々年にも大規模な開腹手術を受けているにもかかわらず、参議院選に立候補することを聞いた佐藤尚武は、「どうかね君、それは大丈夫だろうか?」と心配したところ、本人は「いや君、男は年に一度ぐらい腹を切るものだよ。」と言った逸話が残っている。

妻浜は司法省民事局長、中央大学学長東京弁護士会会長等を歴任した菊池武夫の娘。外務省顧問や衆議院議員を務めた白鳥敏夫は義弟。娘の洋子は外務審議官や駐アメリカ大使を歴任した朝海浩一郎の妻。EU代表部大使を務めた朝海和夫は孫。

栄典[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 朝海和夫「東京商大の外交官」
  2. ^ a b c 「第119回:出渕勝次(でぶちかつじ)」盛岡市
  3. ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。