皇后雅子
雅子 | |
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第126代天皇后 | |
皇后 | 2019年(令和元年)5月1日 |
誕生 |
1963年(昭和38年)12月9日(55歳)![]() 国家公務員共済組合連合会 虎ノ門病院 |
諱 | 雅子(まさこ) |
旧名 | 小和田 雅子(おわだ まさこ) |
印 | ハマナス |
氏族 | 小和田氏 |
父親 | 小和田恆 |
母親 | 小和田優美子 |
配偶者 | 徳仁(今上天皇) |
結婚 | 1993年(平成5年)6月9日 |
子女 | 敬宮愛子内親王 |
身位 |
皇后 (←皇太子妃) |
栄典 |
勲一等宝冠章![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
役職 | 日本赤十字社名誉総裁 |
称号: 皇后 | |
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敬称 |
陛下 Her Majesty the Empress または Her Imperial Majesty (H.I.M.) |
皇室 |
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雅子(まさこ、1963年〈昭和38年〉12月9日 - )は、日本の第126代天皇・徳仁の皇后(在位:2019年〈令和元年〉5月1日 - )[1]。皇族。お印はハマナス。敬称は陛下[2]。勲等は勲一等宝冠章。旧名は小和田 雅子(おわだ まさこ)。
住居は、東京都港区元赤坂の赤坂御用地内にある赤坂御所[3]。
目次
来歴[編集]
生い立ち[編集]
1963年(昭和38年)12月9日、外務省職員であった小和田恆、優美子夫妻の長女として東京都港区虎ノ門にある国家公務員共済組合連合会虎の門病院にて誕生。出生時は一家で世田谷区桜上水の外務省官舎に居住していた[4]。
父の恆が在ソ連日本大使館一等書記官に就任したため、1歳数か月からソビエト連邦・モスクワ市で過ごす。2歳の終わりごろから同国のモスクワ市立ジェツキサートNo.1127保育園に通園した。当初は慣れない言語や集団生活で泣き出すこともあったが、ロシア語もすぐに上達し、妹たちにロシア語で話し掛けたり、寝言もロシア語で言うほどだったという[5]。このとき、モスクワ市のクツゾフスキーで過ごした。1966年(昭和41年)7月、スイス連邦・ジュネーブで、妹として礼子と節子の双子が誕生。後年、母の優美子と生後直後の両者は同国ベルンのスイス大使公邸に滞在したため、恒と雅子だけモスクワに戻り家政婦と3人での生活を送った。
1968年(昭和43年)5月から、父が国際連合日本政府代表部一等書記官に就任したため、アメリカ合衆国のニューヨーク州ニューヨーク市に一家で渡りブロンクス区のヘンリーハドソン・パークウェイという郊外で過ごした。この頃から区内のコンドミニアムに家族と引っ越し、同年9月から1年間、ニューヨーク市立第81パブリックスクール(P.S.)付属幼稚園(キンダガーデン)に通園する。1969年9月、市立第81パブリックスクール(P.S. 81-Robert J. Christen School)に入学。この頃からピアノを習得し始め、またこのニューヨーク滞在期間中は補習授業校に通学していた[6]。
1971年(昭和46年)3月、父が外務大臣秘書官事務取扱(前任は第87代内閣総理大臣小泉純一郎)に就任したため一家は日本に帰国し新宿区大久保の国家公務員官舎に居住を移転する。目黒区立原町小学校第1学年に編入し、5月には新宿区立富久小学校第2学年に編入する[7]。第67代内閣総理大臣福田赳夫次男・横手征夫一家と毎年冬になると1、2週間スキー旅行をしていた。
義母の上皇后美智子が雙葉小学校附属幼稚園に通園していた当時の担任教師が開設した塾に通い、編入学試験の勉強を一年する[8]。1972年(昭和47年)4月、田園調布雙葉学園・田園調布雙葉小学校の3年生に編入学する[注釈 1]。生物部に所属し卒業文集に「将来は獣医になりたい」と記した。この頃から江頭豊宅(目黒区南)にて同居をはじめる。その後、田園調布雙葉中学校に進学し、ソフトボール部を結成し活動した[9]。同高校に進学。
1979年(昭和54年)7月から父が在米日本大使館公使に就任したため、1985年(昭和60年)6月までの6年間米国のマサチューセッツ州ボストン市へ移住する。
1979年(昭和54年)より、ボストン市郊外のベルモント市にあるマサチューセッツ州立ベルモント・ハイスクールへ11年生(日本の高校2年生に相当)として転入学し2年間通学し、ソフトボール部と数学クラブに所属した。High Honor student (最優等学生)と認められ、アメリカ政府が米国全体の上位5%の生徒に贈る「ナショナル・オーナー・ソサイティー」National Honor Society(NHS)を受賞し在学中、地元紙が年に数回掲載する「成績優秀者」の欄に常に登場していた。また、ドイツ語科において、ドイツ政府運営のドイツ総領事賞及びゲーテ・インスティトゥート賞(Goethe-Institut)を受賞するなど、語学活動にも熱心だった[10]。この期間、高校(12年生)から大学1年にかけて講談社がアメリカで編集製作していた「エンサイクロペディア・オブ・ジャパン(英語版日本百科事典)」の編集を手伝う(編集責任者・板坂元)。
1981年(昭和56年)、同ハイスクールを卒業する。
同年、ハーバード大学経済学部に入学。国際経済学専攻。ハーバード大学のほかイェール大学、プリンストン大学などアイビー・リーグ校を受験したが、「日本で就職するには名前の通った大学がいい」と考え進学した。恒が在ソ連特命全権公使に就任したため雅子1人を残し、一家はロシアのモスクワに引越す。在学中は、心身障害児の運動指導[11]やフランス語のサークルに参加した。また、1学次時に日本文化クラブ(ジャパニーズ・カルチャー・ソサエティー)を自ら創立し、1年次の時に書記を担当、2年次で副会長、3年次には会長を務める。同大学のライシャワー教授などの著名人を招待しての講演会、浮世絵や能の紹介、黒澤明監督作品などの日本映画上映、習字・折り紙の紹介、日本食の試食会、ダンスパーティーなど日本文化を紹介するイベントを企画していた。さらに学生評議会の広報担当もしゴードン教授の助手として日本現代史関係の資料研究を手がける。1年次の夏休みにはドイツのゲーテ・インスティチュートで2か月滞在しドイツ語の特訓をし[12]、2年の夏休みにはフランスのグルノーブル大学のフランス語夏期講座に参加するなど外国語の活動も活発だった。
雅子が日本で教育を受けた期間は計9年4か月であり、海外で教育を受けた期間は計9年と、若干多く日本の教育を受けたこととなる[13]。また、初等教育・中等教育(小学校1学年3学期 – 高等学校1学年1学期)は日本で生活し義務教育を受けているため、厳密な意味での帰国子女ではない。
独身時代[編集]
1985年(昭和60年)6月、ハーバード大学を卒業する[13]。専攻は数理経済学。卒業論文『External Adjustment to Import Price Shocks : Oil in Japanese Trade(輸入価格ショックに対する外的調節:日本の貿易における石油)』(糠沢和夫・真野輝彦・榊原英資協力)。成績優秀な学生に贈られる「Magna Cum Laude(マグナ・クム・ラウデ、優等賞)」を受賞した[13]。1985年の卒業生は大学全体で1681人であり、「マグナ・クム・ラウデ」を受賞した学生は全学年を合わせて55人、雅子が在籍した経済学部では3人だった。卒業論文の指導教官だったジェフリー・サックス(理論経済学者)は、「卒論のテーマは、70年代と80年代のオイルショック後の日本の貿易政策で、輸出を増やし石油を輸入した日本のやり方を分析した。彼女のコンピューター分析は、特に学部生としては高度なものだった。夜遅くまでコンピューターにかかりきりだった姿は忘れません」といった評価をした。また、指導したエズラ・ファイヴェル・ヴォーゲル教授(『ジャパン・アズ・ナンバーワン』著者)は、「彼女は非常にプロフェッショナルな意識が強い女性で、よく勉強しました」と評している[14]。
1986年(昭和61年)、米国から帰国後の4月に東京大学法学部第3類(政治コース)[15]の3学年に外部学士入学する[13]。100名中3名の合格であった[16]。雅子は皇太子徳仁親王(当時)との婚約内定後にこの事を振り返り、「米国に残ったら根無し草になってしまうような気がして日本に帰りたかった」と語っている。
駐スウェーデン特命全権大使・村角泰の娘が外交官になったことに刺激を受けて外交官を志し[17]、同年10月に外務公務員上級採用I種試験(外交官試験)に合格し、外務省入省が決まる[13]。合格者は28名でうち女性は3名であった[18][19]。渋谷区広尾の公務員官舎に居住し始める。
1987年(昭和62年)に東京大学を中途退学し、外務省に入省。「経済局国際機関第二課」に配属された[13]。この頃から東京都目黒区南にある小和田・江頭両家の二世帯住宅に居住し始める。
1988年(昭和63年)から外務省の研修留学として、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに留学[13](在イギリス日本国大使館付)。国際関係論を専攻し学部長のアダム・ロバーツ教授の研究室で、日本の国防産業(軍需産業)や次期支援戦闘機選定問題(FSX問題)についてよく語っていた。ホリウェル・マナー寮にはほとんど滞在せずフランス・パリの両親宅(OECD大使邸)にいた。その頃より、皇太子妃候補と報道され、大学にまで日本からのマスコミが押しかける騒ぎとなった。同年7月9日から11日に第16回先進国首脳会議(G7ヒューストンサミット)の半導体の市場開放問題担当海部俊樹の通訳の一人として小和田恆とともに父子で米国に出張。
1990年(平成2年)6月に研修留学から帰国、7月1日付で「北米局北米二課」に配属された[13]。経済局国際機関第二課配属・OECD(経済協力開発機構)の担当をしたのは1年4か月、北米局北米第2課勤務は2年8か月。総計して、外務省での職歴は5年10か月(留学期間を省くと4年)である。配属の2日目は徹夜で業務をこなし、その後も徹夜は無いが週に3日は帰宅が午前様になるなど激務であった[20]。1991年(平成3年)3月には、スウェーデン首相イングヴァール・カールソンの歓迎夕食会に通訳で出席。同月11日に港区外務省飯倉公館で行われた米国国務長官ジェイムズ・ベイカーと当時の外務大臣渡辺美智雄、竹下登、中曽根康弘の会談の通訳など、語学力を生かして幅広く活躍した。
皇太子徳仁親王との婚約・結婚の儀[編集]
当時、皇太子徳仁親王(今上天皇)の配偶者選考は大きく三種類のルートによって行われた。一つ目は、「天皇明仁(現・上皇)の成婚時に名前の挙がったお妃候補のリストをもとにその娘について追跡調査する」というもの、二つ目は「明仁天皇の学習院初等科時代以来の学友グループ・郁沃会を中心にその子女を考査する」というもの、最後の三つ目は「皇太子自身の交友範囲、個人的な交友関係・友人知人および親戚などの知り合いから好ましい女性を探す」というものだった[21]。
雅子は最後のルートから浮上し、1986年(昭和61年)10月18日に来日したスペイン国王カルロス1世の長女、エレナ王女の歓迎レセプションに出席した時に徳仁親王と知り合う[22]。このパーティーは小和田条約局長令嬢として参加したにすぎなかった。同年11月に寛仁親王が名誉総裁を務めていた日英協会主催のパーティーで顔合わせをする。同年12月に、東宮御所で催された内輪の茶会(年越し会)に一家で招かれる。出席者は外務省関係者やハーバード大学教授・広中平祐同夫人など学者家族と、皇太子明仁親王と同妃美智子、皇孫徳仁親王(いずれも当時)を囲み約2時間歓談した。
1987年(昭和62年)4月上旬、日英協会のパーティーで徳仁親王と再会する。4月下旬、高円宮家の宮務官から電話で招待され[23]、赤坂御用地高円宮邸の茶会に雅子ほか数名のお妃候補が招かれた。高円宮同妃と徳仁親王と歓談、夕食を共にした。同年10月24日、東宮御所で夜の茶会が催され、徳仁親王、徳仁親王の学友で旧皇族・賀陽宮家の賀陽正憲と3時間ほど歓談した。同年12月9日、24歳の誕生日に皇太子からの花束が東宮事務官を通じて小和田邸に届けられる。
1991年(平成3年)9月、東京芸術劇場で開かれた中村紘子のチャリティーコンサートの打ち上げの席に、高円宮家が雅子と母の優美子を招待する[24]。1992年(平成4年)8月16日、すでに皇太子になっていた徳仁親王と柳谷謙介宅にて5年ぶりに再会する。平成5年の誕生日記者会見で、「警備なしという極めて無防備な状態ではあったわけですけれども、それをする価値は十分にあったという、このことに関してはそういうふうに思っています」と述べている[25][26]。「鴨場でのデート」も話題になった。柳谷が再説得に乗り出すとともに、皇太子徳仁親王から電話での説得が行われており、11月中旬、悩みから外務省を体調不良で10日ほど休む[27]。同年10月20日には、「(雅子の)気持ちが決まらない」という趣旨で小和田家サイドから断りの返事がされるが[28]、同年12月12日に皇太子徳仁親王からの求婚を受諾している[22][注釈 2]。その他の有力候補には今上天皇の学友で元華族・男爵の明石元紹の長女がおり、1988年(昭和63年)秋の秋篠宮文仁親王のダブル婚約の動きがあったが明石家の辞退でこの話は立ち消えた。その後最も有力といわれた妃の候補には旧皇族で久邇邦昭の長女(香淳皇后の大姪)がおり、数回見合いをして電話やファックスのやり取りを重ね前年には久邇家も当人も了承し内定寸前まで話が進んだが、皇太子自身が小和田雅子への思いを捨てきれず結局は破談となった[29]。
1993年(平成5年)1月19日、皇室会議にて「皇太子徳仁親王妃」に内定し、記者会見を行う。「ハーバード大卒で外交官」といういわゆる「キャリアウーマン」であること等が世間の注目を受けた。同年2月をもって外務省を退職。同年4月12日の納采の儀(婚約)を経て、同年6月9日に「皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀」が執り行われた。「結婚の儀」のテレビ中継の最高視聴率は77.9%(午前10時12分(JST)に記録。ビデオリサーチ・関東地区調べ、NHK総合と民放を合わせた総世帯視聴率)[30]を記録した。成婚パレードには沿道に19万人の市民が集まり、テレビ中継放送の最高視聴率は79.2%(パレード終了直後の午後5時21分(JST)に記録。ビデオリサーチ・関東地区調べ、NHK総合と民放を合わせた総世帯視聴率)[30](資料によっては79.9%[31])を記録した。6月17日に皇太子妃雅子の名が皇統譜に登録された。
1990年代(1993年(平成5年)頃)に皇太子妃になる小和田雅子の愛車がトヨタ・カローラIIであると報道され、販売台数が爆発的に増加した。
皇太子妃時代[編集]
1994年(平成6年)11月にサウジアラビア、オマーン、カタール、バーレーン、そして1995年(平成7年)1月にクウェート、アラブ首長国連邦、ヨルダンにおける皇太子徳仁親王の公式訪問に同行した[32]。
1996年(平成8年)5月、米国のニューズウィーク誌が「日本の雅子皇太子妃は、伝統の中で能力を発揮できない」という主旨の記事を掲載する[33]。同年12月の誕生日記者会見には単独で応じ、以後2002年(平成14年)まで6回、単独会見を開いている。
1999年(平成11年)12月10日、朝日新聞が朝刊一面で皇太子妃雅子の懐妊の兆候をスクープ報道する[34]。宮内庁および同東宮職は複数回に亘り、過熱報道の自粛を要請した。皇太子妃雅子は12月23日の天皇誕生日一般参賀には出席したが、その後12月30日に稽留流産の手術を受けたと発表された。古川清東宮大夫・川口政行東宮侍医長・医師の岡井崇が記者会見を開き、懐妊が早期から大々的に報道され雅子妃に心労を与えたことを批判する一方、海外訪問[35]との因果関係については否定した[36]。また、過度の報道に対して徳仁親王は遺憾の意を表明した[37]。2000年(平成12年)2月から、公務に復帰する。
2001年(平成13年)4月16日に懐妊の可能性が発表された。同年5月15日に懐妊が正式に発表された。同年12月1日に第一女子・敬宮愛子内親王が誕生。世継ぎ問題のプレッシャーがかかる中、結婚から8年余りでの第一子誕生だった[38]。
2002年(平成14年)12月、皇太子徳仁親王とともに夫妻で、ニュージーランドとオーストラリア両国を公式に親善訪問した[39][40]。
2003年(平成15年)12月3日に帯状疱疹を発症し、公務を休み療養した[41]。
2004年(平成16年)5月、夫の徳仁親王が訪欧を前にした記者会見で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言[42]。海外育ちで国際派と見られていた皇太子妃雅子と、伝統と慣習に厳格な宮内庁との間で不和があることをうかがわせた。この発言は「人格否定発言」と呼ばれ、大きな反響を呼んだ。同年6月、適応障害の医師の診断を受け、療養に入る[43]。
2006年(平成18年)8月17日から31日まで、オランダ王室のベアトリクス女王(当時)の好意で、療養のためオランダ王国へ夫の皇太子徳仁親王と長女の敬宮愛子内親王(当時4歳)と共に一家で旅行し海外静養した[44]。オランダをはじめベルギーやルクセンブルクの王族と交流した。
2010年(平成22年)3月以降、学習院初等科で学校生活内で問題を抱えた長女の敬宮愛子内親王を母親として気遣って登下校に付き添うようになり[45]、外出の機会が一時期増加した。
2013年(平成25年)4月28日、皇太子同妃はオランダ王国政府からの招待を受け同国の公式訪問が実現し、30日に同国首都アムステルダムにある新教会で国王ウィレム=アレクサンダーの即位式に出席した [46]。海外公式訪問は、夫妻で2002年(平成14年)にニュージーランドとオーストラリアを訪問して以来約11年ぶり。 同年10月12日、全国障害者スポーツ大会の開会式に10年ぶりに出席した[47]。
2014年(平成26年)7月15日、武蔵陵墓地に12年ぶりに参拝、7月29日に伊勢神宮に20年ぶりに参拝した[48]。8月3日には全国高等学校総合体育大会に12年ぶりに出席、皇太子一家で競技を観戦した[49]。同年10月29日オランダ国王夫妻歓迎行事に出席(5年ぶり)[50]。宮中晩餐会には11年ぶりに出席した[51][52]。
2015年(平成27年)7月2日-6日、トンガを公式訪問し、4日に国王トゥポウ6世の戴冠式に参列した[53]。続く昼食会では、ウルカララ王太子同妃夫妻らトンガ王族と交流を持った。5日には在留邦人らとの懇談の場に参加した[54]。同年11月12日、赤坂御苑で開かれた秋の園遊会に出席した。(12年ぶり)[55]。
2017年(平成29年)6月16日、天皇の退位等に関する皇室典範特例法公布、同年12月1日開催の皇室会議(議長:安倍晋三内閣総理大臣)及び12月8日開催の第4次安倍内閣の定例閣議で同法施行期日を規定する政令が閣議決定され、夫の皇太子徳仁親王(当時)が2019年5月1日に皇位継承をして第126代天皇に即位し、上皇后となる義母の皇后美智子(当時)に代わって自身が新皇后となる日程が確定された。
皇后時代[編集]
2019年(平成31年)4月30日、天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づく代替わりで義父の第125代天皇・明仁が退位(譲位)する。
翌(令和元年)5月1日に夫の皇太子徳仁親王が皇位継承して第126代天皇に即位した。これに伴い、義母の皇后美智子が上皇后となるのに代わり、自身は立后して新たな皇后となり[1]、同日の皇居・松の間での「即位後朝見の儀」に第126代天皇后として公の場に表した。
同年5月22日、東京都渋谷区の明治神宮会館で開催された「令和元年全国赤十字大会」に日本赤十字社名誉総裁として、同名誉副総裁の文仁親王妃紀子(皇嗣妃)、正仁親王妃華子、寛仁親王妃信子及び憲仁親王妃久子と共に出席した。皇后雅子は同役職を、退任した上皇后美智子から引継いだ[56]。
同年10月22日の即位礼正殿の儀、11月9日の「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」、11月10日の祝賀御列の儀、11月14日・15日の大嘗祭と、続けて即位関連儀式に出席する。
年譜[編集]

- 1963年(昭和38年)12月9日、東京都港区虎ノ門の虎ノ門病院に生まれる。
- 1966年(昭和41年)9月(2歳)、ソビエト連邦・モスクワ市立ジェツキサートNo.1127保育園入園
- 1968年(昭和43年)9月(4歳)、米国・ニューヨーク市立第81パブリックスクール付属キンダガーデン入園
- 1969年(昭和44年)9月(5歳)、米国・ニューヨーク市立第81パブリックスクール(P.S. 81-Robert J. Christen School)入学
- 1971年(昭和46年)3月(7歳)、東京都・目黒区立原町小学校1年に編入
- 1971年(昭和46年)4月、東京都・新宿区立富久小学校2年に編入
- 1972年(昭和47年)4月(8歳)、田園調布雙葉小学校3年に編入
- 1976年(昭和51年)4月(12歳)、田園調布雙葉中学校入学
- 1979年(昭和54年)4月(15歳)、田園調布雙葉高等学校入学
- 1979年(昭和54年)9月(15歳)、マサチューセッツ州立ベルモント・ハイスクールに編入
- 1985年(昭和60年)6月(21歳)、ハーバード大学経済学部卒業
- 1986年(昭和61年)4月(22歳)、東京大学法学部第3類(政治コース)に学士入学。3年に編入学
- 1987年(昭和62年)4月(23歳)、外務省入省。経済局国際機関第二課に配属(OECD担当)
- 1988年(昭和63年)(24歳)、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに外務省の研修で留学
- 1990年(平成2年)(26歳)、北米局北米二課に配属
- 1993年(平成5年)1月19日(29歳)、皇室会議(議長:宮澤喜一内閣総理大臣/宮澤改造内閣)で皇太子徳仁親王の妃に内定
- 2001年(平成13年)12月1日(37歳)、敬宮愛子内親王を出産
- 2004年(平成16年)、適応障害と医師が診断
- 2019年(平成31年)4月30日、天皇の退位等に関する皇室典範特例法が施行。
- 翌日、令和元年(2019年)5月1日に夫の皇太子徳仁親王による皇位継承と第126代天皇即位に伴い、皇后となる(立后)。即位後朝見の儀。
子女[編集]
今上天皇との子女、1女がいる。上皇明仁の皇孫にあたる[57][58]。
諱 | 読み | 生年月日 / 年齢 | 御称号 | 身位 | 続柄 |
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愛子 | あいこ | 平成13年(2001年)12月1日(18歳) | としのみや 敬宮 |
内親王 | 第1皇女子(第1子) |
人物[編集]
食べ物[編集]
語学[編集]
複数国・地域での海外滞在や外交官という経歴もあって、英語のみならず、フランス語、ドイツ語、ロシア語に堪能であり、高校時代には韓国語(朝鮮語)の学習にも取り組んだ[60]。
発言[編集]
結婚以前[編集]
- 「勉強にも差し障るので、本当にやめていただきたいんですけれども。」
- 1989年(平成元年)、皇太子徳仁親王(当時)のお妃候補への日本人記者からのインタビューに応じる、外務省職員研修生として英オックスフォード大学留学中だった小和田雅子(当時)の発言。
- 「殿下からは私の心を打つようなお言葉はいくつかいただきました。『皇室に入られるということには色々な不安や心配はおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから』というふうにおっしゃって下さいました」
皇太子妃時代[編集]
- (皇太子徳仁親王:「『コウノトリのご機嫌に任せて』とあの時申しました気持ちは今も変わっておりません。ただ,あまり周りで波風が立ちますと,コウノトリのご機嫌を損ねるのではないかというふうに思います。今回,風邪をひいたことが思わぬ方向に発展しまして大きな騒ぎになっておりますので,私としては正直言ってびっくりしております」)
- (同妃雅子:当時、以下同)「私も殿下のお考えと同じでございます。一言付け加えるといたしましたら,依然としてオーケストラは考えておりませんということでございましょうか。」
- 1994年(平成6年)2月9日、婚姻に関する皇室会議終了後の記者会見から1年を経ったことにあたっての皇太子徳仁親王と同妃雅子の記者会見にて[61]。
- 「私がとても現代的なのかもしくは保守的なのかということは、2つに1つということなどではなくて、(中略)古いものでも良いものは大切にしながら、そして新しい時代の要請というものも考慮に入れていくことが大切なのではないかというふうに考えています」
- 1996年(平成8年)12月6日、皇太子妃雅子の33歳の誕生日に際しての単独での記者会見にて[62]。
- 「いろいろなことが変化する時代の中にあって、大変難しい境遇に置かれる人々に対しても心を寄せていきたいというふうに思っています。(中略)できるだけ多くの人がその人その人の幸せなり、可能性といったものを見いだしていくことのできる社会であることを、常に願っています」
- 1997年(平成9年)12月5日、皇太子妃雅子の34歳の誕生日に際しての単独での記者会見にて[63]。
- 「夫婦喧嘩につきましては、ご期待にそえないかも知れませんが、仲直りが必要なような喧嘩には余りなりません。ただ、相手に不快な思いをさせてしまったかしらと思うときには、素直に謝るということが大切なのかもしれないと思っております。それから、今、犬がおりますけれども、この、犬がいるというのも夫婦の仲にとって、とても良いように思います。よく『夫婦喧嘩は犬も食わぬ』と申しますけれども、喧嘩の種は割とよく拾って食べてくれるような気がいたします」
- 1998年(平成10年)12月4日、皇太子妃雅子の35歳の誕生日に際しての単独での記者会見にて[64]。
- 「無事に出産できましたときには、ほっといたしますと同時に、初めて私の胸元に連れてこられる生まれたての子供の姿を見て、本当に生まれてきてありがとうという気持ちで一杯になりました。今でも、その光景は、はっきりと目に焼き付いております。生命の誕生、初めておなかの中に小さな生命が宿って、育まれて、そして時が満ちると持てるだけの力を持って誕生してくる、そして、外の世界での営みを始めるということは、なんて神秘的で素晴らしいことなのかということを実感いたしました」
- 「正直を申しまして私にとりまして、結婚以前の生活では私の育ってくる過程、そしてまた結婚前の生活の上でも、外国に参りますことが、頻繁にございまして、そういったことが私の生活の一部となっておりましたことから、6年間の間、外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は、正直申しまして私自身その状況に適応することになかなか大きな努力が要ったということがございます」
- 「平成の御代最後となる年の暮れが近づきます中、私にとりましては、平成5年(1993年)に皇室に上がりましてから26回目となる今年の誕生日を、平成最後の誕生日として、深い感慨とともに、ある種の寂しさを感じながら迎えようとしております。」
- 「(中略)この先の日々に思いを馳せますと、私がどれ程のお役に立てますのか心許ない気持ちも致しますが、これまで両陛下(上皇明仁上皇后美智子夫妻、以下同)のなさりようをお側で拝見させていただくことができました幸せを心の糧としながら、これからも両陛下のお導きを仰ぎつつ、少しでも皇太子殿下(今上天皇、以下同)のお力になれますよう、そして国民の幸せのために力を尽くしていくことができますよう、研鑽を積みながら努めてまいりたいと思っております。」
- 「(中略)私たち一人一人がお互いを思いやり、広い心を持って違いを乗り越え、力を合わせることによって、社会的に弱い立場にある人々を含め、全ての人が安心して暮らすことのできる社会を実現していくことや、このかけがえのない地球を健全な形で将来の世代に引き継いでいくために、私たちが何をすべきなのか、それぞれが真剣に考えていくことが必要な時代になっているのではないかと感じます。」
- 「(中略)また、この一年も、皇太子殿下を始め、色々な方のお力添えをいただきながら、体調の快復に努め、少しずつ果たせる務めが増えてきましたことをうれしく思っております。(中略)今後とも、引き続き体調の快復に努めながら、できる限りの公務に力を尽くすことができますよう、努力を続けてまいりたいと思っております。国民の皆様から日頃よりお寄せいただいている温かいお気持ちに、この機会に重ねてお礼を申し上げます。」
- 2018年(平成30年)12月9日、自身の皇太子妃として迎える最後の誕生日(55歳)に際しての感想[67]。
生家・小和田家[編集]
- 曾祖父:江頭安太郎 - 海軍中将、海軍省軍務局長、海軍省人事局長、従四位・勲二等・功三級。
- 曾祖父:山屋他人 - 海軍大将、横須賀鎮守府司令長官、連合艦隊司令長官、勲一等旭日大綬章[68]。
- 祖父:江頭豊 - チッソ会長、日本興業銀行(現:みずほ銀行)常務取締役、海城学園名誉学園長。
- 祖母:江頭寿々子 - 山屋他人の五女。豊と寿々子の仲人は昭和天皇侍従長・百武三郎(海軍大将)。
- 祖父:小和田毅夫 - 高校教員(新潟県立高校長[68])。高田市教育委員長。
- 父:小和田恆 - 外交官、国際法学者。第22代国際司法裁判所(ICJ)所長、国連大使、外務事務次官。
- 母:小和田優美子 - 江頭豊の長女。
- 妹:池田礼子 - 国際公務員。国際連合児童基金(UNICEF)駐日事務所副代表[注釈 3]。
- 妹:渋谷節子 - 文化人類学者、翻訳家。福知山公立大学教授[注釈 3]。
親族[編集]
小和田家の古文書における初出は江戸時代中期の1740年(元文5年)であり、 越後国村上藩藩士の小和田貞左衛門(貞右衛門)の子二人が早世し、城下の本悟寺で「釈入信」、「釈敬信」という法名を与えられた。村上市細工町の本悟寺も小和田家ゆかりの寺院である。
墓碑は新潟市泉性寺、1993年(平成5年)4月17日に、小和田恆・優美子夫妻と雅子が墓参。妻の墓は村上市西真寺で、墓碑には「小和田匡利墓/明治七甲戌年 七月二十八日 永代経金一圓/新潟県貫族 士族村上住」と刻まれている(新潟県貫族=新潟県民の意)。
神一行によれば、「雅子妃の実家の小和田家であるが、そのルーツは現在の新潟県村上市を治めていた村上藩内藤家五万石の下級武士とされる」[69]。「代々下横目(目付)、奥方付きお庭番などの役職につき柔術“制剛流”の達人の家柄だった」という。
小和田家を含め村上藩史は戊辰戦争以来の3度にわたる火災で重要資料が焼失しているため調査が困難であったが[70]、山本茂の調査によれば、「同心・新六匡安(しんろくただやす)の子で郡方懸りの道助匡春(1858年〈安政5年〉11月11日64歳没)という人物がおり[71]、その兄弟・兵五郎が分家し[71]、兵五郎の嫡男・道蔵匡利(1874年〈明治7年〉7月28日没)の三男が金吉である」と推測している[72]。
毎日新聞の取材によると、小和田家は下級武士であったためか、金吉の父も含め、金吉氏以前の系譜は判然としない[73]。村上市の西真寺の過去帳には「小和田兵五郎」の名もあるが、小和田兵五郎と小和田金吉の関係は不明としている[73]。
なお、金吉の長男である毅夫の代までは、旧村上藩士が権利を持っていたサケの漁業権収入を相続していた[74]。
愛子内親王の系譜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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皇后雅子 | 父: 小和田恆 |
祖父: 小和田毅夫 |
曾祖父: 小和田金吉 |
曾祖母: 熊倉竹野 | |||
祖母: 小和田静 |
曾祖父: 嵩岡又四郎 | ||
曾祖母: 井上タカ | |||
母: 小和田優美子 |
祖父: 江頭豊 |
曾祖父: 江頭安太郎 | |
曾祖母: 古賀米子 | |||
祖母: 江頭寿々子 |
曾祖父: 山屋他人 | ||
曾祖母: 丹羽貞子 |
栄典[編集]
日本[編集]
外国[編集]
オーストリア: オーストリア共和国勲章 -
[75]
ベルギー: レオポルド勲章 -
[76]
ギリシャ: 救い主勲章 -
[77]
ルクセンブルク:ナッサウ家金獅子勲章 -
マレーシア : ラム・クラウン勲章 -
[78]
ハンガリー: ハンガリー共和国功労勲章 -
[79][80]
オランダ: クラウン勲章 -
[81]
ノルウェー: 聖オーラヴ勲章 -
ポルトガル: エンリケ航海王子勲章 -
[82]
スペイン: イザベラ・カトリック勲章 -
[83]
トンガ: サローテ・トゥポウ3世勲章 -
[84]
名誉役職[編集]
- 日本赤十字社名誉総裁
外務省同期[編集]
以下、年表記は西暦下2桁のみ。
- 石塚英樹(18年広州総領事)
- 植野篤志(19年中国公使)
- 岡野正敬(19年国際法局長)
- 紀谷昌彦(19年シドニー総領事・17年政策立案参事官・15年南スーダン大使)
- 志野光子(19年国際文化交流審議官・18年外務副報道官・14年アイスランド大使)
- 高橋克彦(19年中東アフリカ局長)
- 塚田玉樹(19年地球規模課題審議官)
- 中川勉(18年デトロイト総領事)
- 中田昌宏(16年EU代表部参事官)
- 中村耕一郎(18年ウラジオストク総領事)
- 早川修(18年タイ公使・15年OECD代表部公使)
- 松浦博司(19年中南米局審議官)
- 松田弥生(弁護士、一等書記官)
- 本清耕造(18年国際協力機構理事)
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b 令和幕開け=天皇陛下退位「国民に感謝」-皇太子さま即位(2019年5月1日)、時事通信社、2019年5月1日閲覧。
- ^ 皇室典範第二十三条第一項「天皇、皇后、太皇太后及び皇太后の敬称は、陛下とする。」
- ^ 2019年(令和元年)5月1日内閣告示第3号「天皇皇后両陛下の御在所が定められた件」第4次安倍第1次改造内閣
- ^ 『歴代皇后人物系統総覧』292頁
- ^ 上野緑子(幼児教育ガイダー) (2001年12月25日). “雅子さまが受けられた小和田家の教育方針”. All About. 2015年12月16日閲覧。
- ^ 渡辺みどり『美智子さま雅子さま涙の日、深まる絆』(講談社・2001年)107頁
- ^ 『歴代皇后人物系統総覧』293頁中段
- ^ 江森敬治『雅子さま 殿下の愛に守られて』(集英社・2001年)
- ^ 歴代皇后人物系統総覧293頁下段
- ^ 『諸君!』2006年10月号、文藝春秋。
- ^ 『素顔の雅子さま』主婦と生活社
- ^ 『婦人公論』1994年7月号23頁
- ^ a b c d e f g h 学歴・職歴の出典。『皇太子さま雅子さまご成婚記念写真集 平成の華燭』京都新聞社、京都新聞社、1993年。ISBN 4-7638-0323-9。 ※書籍デザイン上ノンブルなしのためページ数指定できず。
- ^ 『女性セブン別冊 皇太子さま・雅子様〜華麗平成絵巻〜』(1993年)、小学館。
- ^ 日刊スポーツ 皇太子妃に小和田雅子さん内定/復刻
- ^ 『人間・皇太子さま―雅子さまとの“ちょっと気になる話”』(松崎敏弥、1993年)55頁
- ^ 八幡哲郎『さらば霞が関』PHP
- ^ 1986年10月17日号「外交官に「清原級」ルーキー ハーバード出身小和田雅子さんの完全無欠」1986年12月6日 毎日新聞(夕刊)
- ^ 「麗しき外交官の卵」1986年10月6日 日本経済新聞(夕刊)
- ^ 週刊文春2012年10月25日号
- ^ 文藝春秋1993年3月号「新皇太子妃物語」
- ^ a b 1993年1月19日 毎日新聞「昨年5月に申し入れ 宮内庁長官、新事実明かす」
- ^ 『週刊文春』2012年10月25日号「ザ・プリンセス雅子妃物語」、文藝春秋。
- ^ 『週刊新潮』1993年1月21日号「『皇太子妃内定』巻談」
- ^ “皇太子殿下お誕生日に際し(平成5年)”. 宮内庁. 2015年12月18日閲覧。
- ^ 光文社『FLASH』1993年1月26日号
- ^ 『美智子さまから雅子さまへ-プリンセスへの道』(河原敏明・1993年)
- ^ 椎谷哲夫『敬宮愛子さまご誕生―宮中見聞記』(2002年)61頁
- ^ 『FLASH』1993年1月26日
- ^ a b 皇太子ご成婚テレビ番組 結婚の儀・パレードの視聴率、瞬間最高80%、読売新聞、1993年6月10日付東京夕刊、社会面。(インターネットアーカイブのキャッシュ)
- ^ “【皇室ウイークリー特別編】お写真で振り返る皇太子ご夫妻の15年”. MSN産経ニュース (産業経済新聞社). (2008年6月8日). オリジナルの2010年6月24日時点によるアーカイブ。 2013年10月19日閲覧。
- ^ 宮内庁 皇太子同妃両殿下のご活動
- ^ 1996年5月27日 読売新聞「「雅子妃は伝統の壁の中にこもってしまった」 米誌が特集記事」
- ^ 1999年12月10日 朝日新聞「雅子さま、懐妊の兆候 近く詳細な検査」
- ^ 12月3日 - 12月7日、ベルギー訪問(フィリップ王太子の結婚式に出席のため)なお、滞在中ヒール靴を履いたり等、妊娠を予感させる素振りは見せなかった(『週刊朝日』1999年12月24日号)
- ^ 『読売新聞』1999年12月31日「雅子さま流産 医師らの祈り届かず」
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- ^ “デンマーク・ポルトガル・スペインご訪問に際し(平成16年)”. 宮内庁. 2013年10月20日閲覧。
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- ^ 東京新聞 2006年8月18日朝刊
- ^ 2010年12月9日 読売新聞「雅子さま47歳 体調 着実に快復」
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- ^ 日テレ24 皇太子ご夫妻、スポーツ大会開会式に出席(2013.10.12)
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- ^ 日テレ24 雅子さま、5年半ぶりの歓迎行事に出席 (2014.10.29)
- ^ 朝日新聞デジタル 雅子さま11年ぶり宮中晩餐会出席(2014.10.30)
- ^ 日テレ24 皇居でオランダ国王夫妻歓迎の宮中晩さん会 (2014.10.30)
- ^ 日テレ24 皇太子ご夫妻 トンガ国王の戴冠式に出席 (2015.7.4)
- ^ 日テレ24 皇太子ご夫妻 トンガ邦人らとの懇談に出席 (2015.7.5)
- ^ 日テレ24 秋の園遊会 雅子さま12年ぶりに出席(2015.11.12)
- ^ 皇后陛下、全国赤十字大会へ|写真で見る赤十字活動|日本赤十字社 2019年5月24日
- ^ “Girl Born to Japan's Princess”. The New York Times. (2001年12月1日) 2011年11月16日閲覧。
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- ^ 『人間皇太子さま 雅子さまとの“ちょっと気になる話“』松崎敏弥著 P57(フローラル出版、1993年)
- ^ 『小和田雅子さん 素顔の29年』(永井雄一・1993年、データハウス)pp.118-121
- ^ 皇太子同妃両殿下の記者会見|ご婚姻に関する皇室会議終了後の記者会見から1年を経ったことにあたり(平成6年)- 宮内庁
- ^ 皇太子同妃両殿下の記者会見|皇太子妃殿下のお誕生日に際し(平成8年)- 宮内庁
- ^ 皇太子同妃両殿下の記者会見|皇太子妃殿下のお誕生日に際し(平成9年)- 宮内庁
- ^ 皇太子同妃両殿下の記者会見|皇太子妃殿下のお誕生日に際し(平成10年)- 宮内庁
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- ^ 皇太子同妃両殿下の記者会見|ニュージーランド・オーストラリアご訪問に際し(平成14年)- 宮内庁
- ^ 皇太子妃殿下お誕生日に際し(平成30年) - 宮内庁
- ^ a b 「小和田家系図」『毎日グラフ臨時増刊 皇太子さま雅子さま ご成婚記念特別号』、毎日新聞社、1993年6月26日、 161頁。
- ^ (神 2002, p. 399)
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- ^ a b 『皇太子殿下と雅子さま ご結婚記念保存愛蔵版豪華写真集』、毎日新聞社、1993年、133頁
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- ^ “Reply to a parliamentary question about the Decoration of Honour (pdf)” (German). p. 1299. 2012年11月28日閲覧。
- ^ Newm Royals
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- ^ “Semakan Penerima Darjah Kebesaran, Bintang dan Pingat Persekutuan.”. 2012年6月13日閲覧。
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- ^ “Masako de Japón vuelve a vencer su tristeza para rendir homenaje a Máxima de Holanda”. 2012年6月13日閲覧。
- ^ “Cidadãos Estrangeiros Agraciados com Ordens Portuguesas” (ポルトガル語). presidencia. 2012年6月13日閲覧。
- ^ Boletín Oficial del Estado
- ^ Tonga
参考文献[編集]
- 神, 一行『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』角川書店〈角川文庫〉、2002年、394-401頁。ISBN 978-4-04-353306-0。
- 山本, 茂『遥かなる村上藩 雅子妃のふるさと』恒文社、1993年。ISBN 4-7704-0782-3。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 天皇皇后両陛下 - 宮内庁 - 今上天皇皇后雅子夫妻の略歴と愛子内親王の紹介
- とっておき!雅子さまの写真(写真家・浅岡敬史による)
- 皇太子妃雅子様ゆかりの地・村上(おしゃぎり会館・新潟県村上市郷土資料館)
- NHKアーカイブス 皇太子さま・雅子さまご結婚(1993年) - 日本放送協会(NHK)
- ご結婚20年 皇太子さま 雅子さま - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
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