小御所会議

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京都御所の小御所
小御所会議が開かれた当時の小御所は、昭和29年に鴨川の花火が原因で焼失。現在のものは昭和33年の再建。

小御所会議(こごしょかいぎ)は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年12月9日1868年1月3日)に京都小御所にて行われた国政会議。同日に発せられた王政復古の大号令において新たに設置された三職(総裁・議定(ぎじょう)・参与)が行った最初の会議である。大政奉還した徳川慶喜の官職(内大臣)辞職および徳川家領の削封が決定され、倒幕派の計画通りに決議されたので王政復古の大号令と併せて「王政復古クーデター」と呼ばれることもある。その一方で、この時期までにしばしば浮上しては頓挫した、雄藩連合による公議政体[1]路線の一つの到達点という面も持ち合わせていた。

この頁では小御所会議前後の状況も併せて記述する。

背景[編集]

大政奉還後の政局[編集]

薩摩藩大久保利通小松清廉西郷隆盛らは、5月の四侯会議の失敗から、従来の公議体制路線を改め、武力倒幕路線に転換する[2]大久保利通らは謹慎中の公家岩倉具視と連携し、討幕の密勅を得るべく朝廷に工作を始めていた。軍事的緊張が高まるなか、土佐藩では坂本龍馬に助言(船中八策)された後藤象二郎が、武力激突を回避する大政奉還論を前藩主山内容堂に提案。自らの政治的影響力を保持したいと考えた将軍徳川慶喜は在京の諸藩士を10月13日に二条城に招集し大政奉還を諮問(14日に明治天皇に奏上し15日に勅許)。同じ13日、薩摩藩へ(翌日には長州藩へ)討幕の密勅が下される寸前に、討幕派の機先を制した恰好となった。

慶喜としては、まだ年若い明治天皇(当時数え16歳)を戴く朝廷に政権担当能力はなく、やがて組織されるであろう諸侯会議で自らが議長もしくは有力議員となるなどの手段で、政治的影響力を行使できるだろうという目論見の上での政権返上であった[3]。果たして倒幕派の勢力はまだ弱く、10月21日朝廷は討幕中止を指示、翌日には大名会議開催までの庶政を慶喜に委任する決定を下し[4]、さらに23日には外交権がまだ幕府にあることを認める通知を出す。こうした状況下、10月24日徳川慶喜は将軍職・辞職願を提出するが[5]、これは一時朝廷から却下された後[6]、受理されている。

倒幕派は勅命を出して諸藩に上京を命じるが、政局の激変を様子見している藩が多く、応じる藩は少なかった。11月13日島津茂久(薩摩藩主)率いる薩摩軍3000人が上京するが、他藩の動きは鈍かった(なお同じく倒幕派の長州藩禁門の変以来朝敵となっており、入京を許可されていなかった)。

王政復古の大号令[編集]

詳細は王政復古を参照

上記のような閉塞状況を打破するため、大久保利通や岩倉具視は秘かにクーデター計画を練る。12月8日夕方から深更にかけて行われた朝議で、毛利敬親長州藩主)・広封(同世子)の官位復活と入京許可、三条実美八月十八日の政変で追放された5人の公卿の赦免、および岩倉具視ら謹慎中の公卿の処分解除が決定された。翌9日未明、公卿たちが退廷した後、待機していた薩摩藩・芸州藩尾張藩など5藩の軍が御所9門を固め、摂政二条斉敬をはじめ要人の御所への立ち入りを禁止した後、明治天皇臨御の下、御所内学問所において王政復古の大号令が発せられた。新政権の樹立と天皇親政をうたい、摂政関白将軍職の廃止、新たに総裁、議定、参与の三職を置くなどの方針が発表された。これにより、二条摂政や中川宮朝彦親王ら親幕府的な公卿は発言権を失うことになった。

この大号令を受けて、さっそく新設の三職を小御所に召集し12月9日18時頃から小御所会議が行なわれた。

小御所会議の構成員[編集]

明治天皇[7]
  • 総裁
有栖川宮熾仁親王皇族
  • 議定
仁和寺宮純仁親王(皇族)
山階宮晃親王(皇族)
中山忠能(公家)
正親町三条実愛(公家)
中御門経之(公家)
徳川慶勝(元尾張藩主)
松平慶永(前越前藩主)
浅野茂勲(芸州藩世子)
山内豊信(前土佐藩主)
島津茂久(薩摩藩主)
  • 参与
公家
大原重徳万里小路博房長谷信篤岩倉具視橋本実梁
尾張藩士
丹羽淳太郎田中不二麿
越前藩士
中根雪江酒井十之丞
芸州藩士
辻将曹桜井与四郎
土佐藩士
後藤象二郎神山左多衛
薩摩藩士
岩下方平西郷隆盛大久保利通

これらの参席者は王政復古に伴い三職(総裁・議定・参与)に任ぜられたものである。ただし各藩の藩士はほとんどが後日(12月10日~12日)の追任であり、小御所会議に出席していない尾張の荒川甚作、越前の毛受鹿之助、芸州の久保田平司、土佐の福岡孝弟も参与に追任されている。

大久保や西郷としては、王政復古の大号令の際に、慶喜の辞官(内大臣の辞職)・納地(徳川家領の奉納)の勅命を出させ、徳川家を無力化することを企図していたが[8]、議定山内容堂・松平春嶽らが抵抗したので審議は小御所会議にずれ込んだ。

小御所会議の展開[編集]

明治天皇の外祖父である議定・中山忠能から開会が宣言された後、公家側が「徳川慶喜は政権を返上したというが、果たして忠誠の心から出たものかどうかは怪しい。忠誠を実績を持って示す(辞官納地を指す)よう譴責すべきである」との議題を出す。しかし山内容堂はそれを遮り、「この会議に、今までの功績がある徳川慶喜を出席させず、意見を述べる機会を与えないのは陰険である。数人の公家が幼い天皇を擁して権力を盗もうとしているだけだ」と論陣を張った[9]。それに対し、岩倉が「帝は不世出の英主であり、今日のことはすべて天皇のご決断である。無礼者!!それを幼い天皇とは妄言である」と論駁したため、容堂が失言を謝罪した[10]。ただし、この容堂と岩倉のやり取りは後に作られた「挿話」であるという説もある[11]

松平春嶽が容堂に助け船を出し、慶喜の出席を重ねて求めたが、岩倉や大久保利通は徳川家の罪状を並べてこれを断然拒否する[12]。大久保は慶喜が辞官納地に応ずることが前提であり、それがない時は免官削地を行いその罪を天下にさらすべきと主張したが、後藤象二郎は公明正大な措置が肝心でこの会議は陰険であると容堂の論を支持。大久保・後藤の間で激論が交わされる。しかし、徳川慶勝・松平春嶽が容堂を支援。岩倉・大久保案は島津茂久が賛同したのみで、会議の趨勢は慶喜許容論に傾きつつあった。中山忠能が場を納めようと正親町三条実愛らと協議しようとしたところ、岩倉が「天皇の御前会議で私語するとは何事か」と叱り、一時休憩となった[13]

休憩中、岩倉は浅野茂勲に対し、この会議での妥協はあり得ず、いざというときは非常手段を取らざるを得ないとの覚悟の程を語り、茂勲の賛同を得る[14]。その知らせを辻将曹が後藤に伝え、妥協を促した。後藤もここに至っては無駄な抵抗となることを悟り、山内容堂を説得[15]。結局、春嶽・容堂ともに決議に従うこととなった。こうして夜半まで続いた小御所会議は決着し、松平春嶽・徳川慶勝が慶喜へ辞官納地の決定を伝え、慶喜が自発的にこれを申し入れるという形式をとることが決定された。

新政権の三職を集めて行われた初めての会議であったが、上記のごとく岩倉・大久保・後藤を除けば小御所会議での実際の発言はすべて議定からなされており、実質的には諸侯会議の色彩が強かった[16]

以後の政局への影響[編集]

小御所会議で徳川慶喜の辞官納地が一応決定されたため、一般的には王政復古クーデターは、薩摩・長州など倒幕派の勝利と受け取られることが多い。しかし慶喜はもちろんのこと越前・土佐・尾張などの親幕派の執拗な抵抗により、辞官納地案は次第に骨抜きとされ、それほど倒幕派の思惑通り事態が進んだわけではない。結局倒幕派が完全に主導権を握るのは翌年初めの鳥羽・伏見の戦いまで待たねばならなかった。

※以下、日付はすべて旧暦天保暦)によるものである。

諸侯会議派の巻き返し[編集]

小御所会議での辞官納地の決定は翌10日、松平春嶽・徳川慶勝によって徳川慶喜に伝えられたが、慶喜はただちに実行すれば部下が激昂するとの理由で猶予を求めた。同日赦免された長州藩兵が入京したこともあり、大久保は強気に出るが、京都には会津藩桑名藩などの徳川方諸藩の兵も駐在しており、戦闘回避を求める声も強かった。ここから春嶽・慶勝・容堂ら反倒幕派が巻き返しを図る。

山内容堂は12日、辞官納地問題を松平春嶽の周旋に委任することを求める建白書を新政権に提出。14日には仁和寺宮(議定)が岩倉や大久保ら身分が低い者を抑えるべく身分を正すことを求める意見書を提出した。これらの情勢から岩倉までもが弱気となり、同日松平春嶽が辞官納地の具体的内容を岩倉に迫った際も、岩倉は慶喜が「前内大臣」と名乗ればよいとし、領地については確答を避けるなど弱腰になってしまう[17]。岩倉は慶喜が辞官納地に応じさえすれば慶喜を議定に任じるという協調策を大久保・西郷らに提示した。

いっぽう、13日に大坂城に戻っていた慶喜は、16日には6国の公使に引見し、王政復古後も外交権が自らにあることをアピールするなど、強気の姿勢を崩していなかった。大目付永井尚志も薩長二賊を討つべしと主張。慶喜は大目付戸川安愛に薩長の非をならす上表文を持たせて上京させるとともに、在京の譜代大名諸藩軍へ上坂を命じた。

一方、新政府側でも19日大久保と寺島宗則が、新政権の諸外国への承認獲得と外交の継続宣言をすべく、アーネスト・サトウ(英国公使館付通訳)やモンブラン伯爵(フランス貴族)と協議し、新政権から諸外国への通達詔書を作成する[18]。しかし松平春嶽・山内容堂らは、その文面に「列藩会議を興して国事を議する」とあることを逆手に取り、小御所会議は所詮数藩の代表のみであり列藩会議とは言えないとして、改めて議論を行うべきと主張し、諸侯会議派がますます勢いを得た。

こうして22日には土佐藩邸に松平春嶽と永井尚志が集って原案を作成し、23日・24日に再び三職会議が召集される(岩倉は欠席)。ここにおいて、徳川家の納地は「政府之御用途」のため供するという表現となり、慶喜に対する処分的な色彩は全く失われた。さらに実際の納地高も「天下公論の上」すなわち諸侯会議における議論を経て決定するとされた[19]。この結果は春嶽・慶勝によって慶喜にもたらされ、慶喜も承諾。ここに小御所会議の結果は無意味化し、辞官納地問題は骨抜きとなり、かえって慶喜を含む諸侯会議派が勢いを得る結果となったのである。

薩摩藩の挑発と幕臣の暴発[編集]

こうした状況を焦慮した西郷は、幕府側を挑発するという非常手段(策略)に出る。江戸の益満休之助伊牟田尚平に命じ、相楽総三ら浪士を集めて江戸市中に放火・掠奪・暴行などを行わせる攪乱工作を開始。江戸警備の任にあった庄内藩がこれに怒り、12月25日勘定奉行小栗忠順ら幕閣の了承の下、薩摩藩および佐土原藩(薩摩支藩)邸を焼き討ちするという事件が発生した。

大目付滝川具挙・勘定奉行並小野友五郎らによって、江戸の薩摩藩邸焼き討ちの報が12月28日大坂城にもたらされると、城内の強硬派が激昂。薩摩討つべしとの主戦論が沸騰し、「討薩表」を携えた滝川が翌慶応4年(1868年)正月3日鳥羽で薩摩藩兵と衝突し、戦闘となった(詳細は鳥羽・伏見の戦いを参照)。戦いは徳川方の敗北となり、慶喜は大坂城を脱出して江戸へ退却。ここに慶喜は正式に朝敵となり、追討令が出されるに至った。慶喜寄りの諸侯会議派もまたこの戦いの結果、倒幕派への転換を余儀なくされたのである。

諸侯会議論の後退[編集]

鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府は、徳川家追討とともに新たな行政制度を整える必要から三職の下に七科を設置、のちに三職八局制となる(詳細は近代日本の官制#明治時代初期を参照)。この間、名目的に要職に任じられた公家・諸侯らが実務に疎かったことから、倒幕派各藩などから召集された徴士が実務を握り、維新官僚として成長し、次第に行政の主導権を握るようになる。1月より持ち越しの由利公正(越前藩士)が起草した新政府の方針案では、諸侯会議派である土佐藩の福岡孝弟が第一条冒頭に「列侯会議ヲ興シ」の字句を挿入し、表題も「会盟」と改めており、3月の木戸による国是建議の後提出したが、もはやこの時期には列侯会議は必要性を失していた。福岡の草案は長州藩の木戸孝允や岩倉・三条実美らの手により「広ク会議ヲ興シ」と修正され、形式も諸藩の会盟から天皇以下諸臣が国是を誓うという形式となり、五箇条の御誓文として発せられた。その後も公議所集議院などの諸侯会議路線は残るが、後退していき、維新官僚による有司専制による明治維新への道が開かれるのである。

脚注[編集]

以下、引用文の旧字は新字に改めてある。

  1. ^ 従来の譜代大名旗本のみによる専断ではなく、全国の有力諸藩の合議により国政を運営しようとする論で、横井小楠大久保一翁勝海舟などの先駆的な人物が唱えていた。形式は有力諸藩の藩主によるもの、全国の藩に議員を募ろうとするもの、大名会議(上院)と藩士会議(下院)に分けて召集するものなど様々な意見が有った。大政奉還の時点までに具体的に設置された諸侯会議機関としては、文久3年(1863年)末から翌年2月まで設置された参預会議、慶応3年(1867年)5月に開催された四侯会議などが挙げられるが、ともに諸侯間の意見不一致により短期間で崩壊した。詳細は公議政体論などを参照。
  2. ^ 『大久保利通文書』慶応三年六月蓑田伝兵衛(薩摩藩家老)宛大久保一蔵書簡「此上は兵力を備へ声援を張御決策之色を被顕朝廷に御尽し無御座候而は中々動き相付兼候」。
  3. ^ 大政奉還の前日、慶喜は側近に洋学者西周に欧米の行政・議会制度について尋ねている。後に西が提出した「議題草案」では天皇を頂点とし、立法府として上・下院を設け、天皇(禁裏之権)・行政(政府之権)・諸侯会議(諸大名之権)の三権をもって国政統治するなどの構想が記されている。
  4. ^ この慶喜への庶政委任方針を取り計らったのは薩摩の小松であった。高橋2007、390頁。
  5. ^ 佐々木2004、406-407頁。
  6. ^ 明治天皇紀』一巻、535頁。
  7. ^ 天皇は小御所会議に臨御していなかったとする説もある(佐々木2004、419頁など)。『岩倉公実記』(後述)では「聖上親臨」とある。
  8. ^ 『大久保利通文書』大久保・西郷・岩下連名岩倉宛書簡「大政官代三職の公論を以て大政を議せられ候日に至候ては戦より亦難」。
  9. ^ 『徳川慶喜公伝』第二十九章大坂城移徙「松平容堂声を励まして曰く「今日の挙、頗る陰険の所為多きのみならず、王政復古の初に当りて凶器を弄すること甚だ不詳にして、乱階を開くに似たり。抑元和偃武以来二百余年、海内をして太平の隆治を仰がしめしは徳川家にあらずや、然るを一朝故なく覇業を抛ち、政権を奉還したるは、政令一途に出でて、金甌無欠の国体を維持せんことを謀るものにして、其忠誠感ずるに堪へたり。且内府(慶喜)英明の名は既に天下に聞ゆ、宜しく之をして朝議に参預し意見を開陳せしむべし。畢竟此の如き暴挙を企てられし三四卿は幼主を擁し奉りて権柄を窃まんとするにあらざるか」と一座を睥睨して意気軒昂たり。」。
  10. ^ 同前「岩倉前中将叱して曰く「御前会議なり、宜しく謹粛なるべし、聖上は不世出の英主にましまし、今日の挙悉く宸断に出づ、幼沖の天子を擁し奉りてなどとは何等の妄言ぞ」と。容堂恐悚し、遽に容を改めて失言の罪を御前に謝し奉る。」。
  11. ^ 高橋2007所収「「公議政体派」と薩摩倒幕派」。同時代の史料『丁卯日記』『大久保利通日記』『嵯峨実愛手記』などに記載がないこと、およびその後も会議において山内容堂の発言力が何ら抑制されていないことなどから、明治天皇の権威を高めるための後世の文飾である疑いが強いとする。なお、高橋は同書において定説とは異なり、まず第1回小御所会議が開かれ、それを受けて王政復古の大号令が宣言された後、第2回小御所会議が開催されたとしている。
  12. ^ 同前「松平大蔵大輔(春嶽)、容堂の説を助けて、「王政の初に、刑律を先にし徳誼を後にせられんこと然るべからず、徳川家数百年隆治輔賛の功業、今日の罪責を償ひて余あり」と、いはせも果てず前中将(岩倉)之を駁して「(中略)且嘉永癸丑(1853年)以来、勅命を蔑如し、綱紀を敗壊し、外は専断を以て欧米諸国と通信・貿易の約を立て、内は暴威を振ひて憂国の親王・公卿・諸侯を廃錮し、勤王の志士を戕害す。尋で無名の師を興して長防を再征し、怨を百姓に結び、禍を社稷に帰したり、其罪大なりといはざるべからず。内府果たして反省自責の心あらば、当に官位を退き、土地・人民を還して、大政維新の鴻図を翼賛すべきに、政権の空名のみを奉還して、尚土地・人民の実力を保有せり、心術の邪正、掌を指すが如し、いかでか之を召して朝議に参預せしむべき。朝廷は宜しく先づ内府に暁諭し、官位を辞退し、土地・人民を還納せしめて、其反省自責の実効を徴すべし。朝議に参預せしむるが如きは、実効の立ちたる後のことなり」といへり。」。
  13. ^ 『岩倉公実記』小御所会議ノ事「忠能乃チ座ヲ起チ将ニ実愛博房信篤ト私語セントス、具視之を搤止シテ曰ク聖上親臨シ群議ヲ聴キ給フ、諸臣宜ク肺肝ヲ吐露シ以テ当否ヲ論弁スベシ、何ゾ漫ニ席ヲ離レテ私語スルヲ用ヰンヤ。上(天皇)弁論ノ未ダ尽キザルヲ見給ヒ少時休憩ヲ命ジ給フ」。
  14. ^ なおこの休憩中に岩下方平が屋外で警備兵を指揮中の西郷隆盛を呼び出し、西郷が岩倉に対して「短刀一本あれば片が付く」と、暗に岩倉に反対派と差し違える覚悟を迫り、それを承知した岩倉が短刀を忍ばせて会議に戻ったといわれる。この話の出典は会議の出席者である浅野長勲が半世紀後に口述した『浅野長勲自叙伝』(昭和12年(1937年))などに見られるのみで『徳川慶喜公伝』『丁卯日記』『岩倉公実記』『明治天皇紀』などの他の史料には見えない。井上清なども著書『明治維新』(新政の演出 岩倉具視)の中で触れているが特に出典は記されていない。
  15. ^ 『岩倉公実記』同前「具視退キ休憩室ニ入リ独リ心語ス。豊信(容堂)猶ホ固ク前議ヲ執リ動カザレバ吾レ霹靂ノ手ヲ以テ事ヲ一呼吸ノ間ニ決センノミ。乃チ非蔵人ニ命ジ茂勲ヲ喚バシム。茂勲至リ座ニ著ク。具視ニ謂テ曰ク予ハ卿ガ論ヲ以テ事理当然トス。今マ辻ニ命ジ後藤ヲ諷諭シテ卿ガ論ニ従ハシメンコトヲ図ル。後藤若シ之を肯ンゼザルトキハ予ハ飽クマデ容堂ト抗弁シテ已マザラントス。将曹已ニ五藩重臣ノ休憩室ニ入ル象次郎切ニ一蔵ヲ説キ豊信ノ議ニ従ハシメントス。一蔵敢テ聴カズ将曹乃チ象次郎ニ諷諭スルニ具視ノ論ニ対シ抗弁スルノ不利ナルコトヲ以テス。象次郎大ニ悟ル。是ニ於テ象次郎ハ慶永豊信ヲ見テ之ヲ説キ曰ク前刻主張セラルヽ尊議ハ恰モ内府公(慶喜)ガ詐謀ヲ懐カルヽヲ知リ之ヲ蔽ハント欲スル者ノ如キノ嫌アリ。願クハ之ヲ再思セラレンコトヲ」。
  16. ^ 原口清『戊辰戦争』塙書房、1963年
  17. ^ 松平春嶽・徳川慶勝が徳川慶喜説得のために持参する交渉案として岩倉具視・後藤象二郎・中根雪江が合意した「奏請書(慶喜が自発的に出す形式をとる)」の内容は「今般辞職被聞食候ニ付てハ辞官仕度、且王政復古ニ付政府御用途之儀モ天下之公論ヲ以テ所領ヨリ差出候仕度奉存候事。」(『岩倉公実記』)とあり、慶喜が自発的に政府の御用のために差し出すという、かなり後退した表現に抑えられている。
  18. ^ 詔書の内容は「朕は大日本天皇にして同盟列藩の主たり、此誥を承くべき諸外国帝王と其臣民とに対し祝辞を宣ぶ。朕将軍の権を朕に帰さんことを許可し、列藩会議を興し、汝に告ぐること左の如し。第一、朕国政を委任せる将軍職を廃するなり。第二、大日本の総政治は内外の事、共に同盟列藩の会議を経て後、有司の奏する所を以て朕之を決すべし。第三、条約は大君の名を以て結ぶといへども以降朕が名に換ふべし。是が為に朕が有司に命じ、外国の有司と応接せしめん。其未定の間は旧の条約に従ふべし」(『徳川慶喜公伝』第三十章)。
  19. ^ 会議に欠席した岩倉の工作により「徳川家ヲ始列藩宮家寺社総而一応取調」の文言が削除されるといった混乱はあったが、結局慶喜に対する御沙汰書は以下のようになった。「今般辞職聞召されたるについては朝廷辞官の例に倣ひ、前内大臣と仰出され候事。政権返上聞召されし上は、御政務御用度の分、領地の中より取調の上、天下の公論を以て御確定遊ばさるべく候事。右両件心得までに御沙汰候事」(『徳川慶喜公伝』第三十章)。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

など。