小松清廉

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小松 清廉
Komatu Tatewaki.jpg
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保6年10月14日1835年12月3日
死没 明治3年7月20日1870年8月16日(満34歳没))
改名 肝付兼戈→小松清廉
別名 通称)尚五郎、帯刀
(号)観瀾、香雪齋
墓所 禰寝・小松家墓所(鹿児島県日置市日吉町吉利
官位 従四位玄蕃頭
主君 島津斉彬忠義
薩摩藩
氏族 肝付氏伴氏)、小松氏(禰寝氏嫡流)
父母 父:肝付兼善、母:島津久貫(又左衛門)の娘
兄弟 肝付兼両、肝付兼次、肝付兼之、小松清廉、肝付兼文、肝付兼資、肝付兼愛
正室:小松近
側室:三木琴
清直、壽美

小松 清廉(こまつ きよかど、天保6年10月14日1835年12月3日) - 明治3年7月20日1870年8月16日))は、日本武士政治家位階勲等従四位玄蕃頭。通称は尚五郎(なおごろう)のちに帯刀(たてわき)。前名は肝付兼戈。維新の十傑の1人。

生涯[編集]

天保6年(1835年)10月14日、薩摩国鹿児島城山下町の喜入屋敷にて喜入領主・肝付兼善(5,500石)の三男として生まれたとされるが[1]、系図によれば兼善の四男である[2]。 母は島津久貫(又左衛門)の娘である[3]。父母は次兄・要之介を寵愛しており、乳母も短慮な性格であったため、両親の愛情に恵まれず育ったという[4][脚注 1]。 13、4歳ごろから学問の才覚を発揮し、漢学者・横山安容の下で儒学を修める[5]が、体質的に虚弱であったことと昼夜を問わない勉学が災いして17歳を数える頃から病に伏せがちの生活を送るようになった[5]。しかし、勉学に対する向上心は衰えることなく、湯治に出向いた先でも地域や身分の異なる様々な人々から知識や考えを吸収していったという[5]。その他、歌道を八田知紀に学び、観瀾、香雪齋と号した[6]。また、病弱ながらも武術の修練にも励み、演武館示現流を学んでいる[6]

安政2年(1855年)正月に21歳で奥小姓・近習番勤めに任じられ、同年5月には江戸詰めを命じられた[7]。 しかし在府わずか2ヶ月で帰国を命じられ、同年10月8日に鹿児島へ帰着した[8]。道中の旅日記には尚五郎が詠んだ歌が幾編も残されている[9]。安政3年(1856年)、吉利領主・小松清猷(2,600石)の跡目養子となって家督を継承し、宮之原主計の養女となっていた清猷の妹・(千賀)と結婚した[10]。安政5年(1858年)、24歳となった尚五郎は帯刀清廉と改名した[11]。同年7月に島津斉彬が没し、島津忠義が藩主になると清廉は当番頭兼奏者番に任命され、集成館の管理や貨幣鋳造を職務とした[12]。 その後、万延元年(1860年)には伊勢雅楽北郷作左衛門らとともに弁天波止場受持を命じられている[12]

文久元年(1861年)に北郷作左衛門とともに長崎出張を命じられ、1月17日に蒸気船「天佑丸」に乗船して前之浜を出立した[13]。長崎では通詞を雇い、オランダ軍艦に乗船して軍艦操作、破裂弾・水雷砲術学などを修学、八木玄悦石河正龍らとともに研究している[14]。帰鹿した同年6月に石河によって忠義臨席のもと電気伝導で水雷を爆発させる実演が行われ、これらの功績によって同年5月18日、島津久光の側役に抜擢されている[15]。10月に入って大幅な人事異動のもと久光体制が確立すると、清廉は御改革御内用掛に任命され、藩政改革に取り組んだ[16]。配下に大久保利通がいた。文久2年(1862年)には久光による上洛に随行し、帰国後は家老職に就任した。薩英戦争では、研究した水雷を鹿児島湾に配置するなど尽力する。戦後は集成館を再興して特に蒸気船機械鉄工所の設置に尽力する一方で、京都にあって主に朝廷幕府、諸藩との連絡・交渉役を務め、参与会議等にも陪席した。他方で御軍役掛や御勝手掛、蒸気船掛、御改革御内用掛、琉球産物方掛、唐物取締掛などを兼務して藩政をリードし、大久保や町田久成とともに洋学校「開成所」を設置した。禁門の変では、幕府の出兵要請に対して消極的な態度を示したが、勅命が下されるや薩摩藩兵を率いて幕府側の勝利に貢献した。戦後、長州藩から奪取した兵糧米を戦災で苦しんだ京都の人々に配った。第一次長州征討では長州藩の謝罪降伏に尽力している。

在京中に土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬と昵懇となった。亀山社中(のちの海援隊)設立を援助したり、龍馬の妻・お龍の世話をしている。長州の井上馨伊藤博文を長崎の薩摩藩邸にかくまってグラバーと引き合わせ、その後、鹿児島へ井上を伴って薩長同盟の交渉を行った。なお薩長同盟における密約や桂小五郎が滞在したのも、京都における清廉の屋敷であったと伝えられる。

イギリスと薩摩の友好に尽力し、五代友厚らを密かにイギリスへ留学させた。また英国公使ハリー・パークスを薩摩に招き、島津久光と引き合わせた。兵庫が開港されると、大和交易コンパニーという株式会社を設立して貿易拡大にも努めた。第二次長州征討には反対し、慶応3年(1867年)の薩土盟約四侯会議など、諸藩との交渉に関与した。討幕の密勅では請書に、西郷隆盛・大久保利通とともに署名している。大政奉還発表の際は藩代表として徳川慶喜に将軍辞職を献策し、摂政・二条斉敬に大政奉還の上奏を受理するよう迫った。西郷・大久保を率いて薩摩に戻って藩主・島津忠義の率兵上洛を主張する。上洛の随行が命じられるも、病によりこれを断念している。明治2年(1869年)9月、明治維新の功により賞典禄1,000石が授けられる。

禰寝・小松家歴代墓所にある小松清廉の墓

新政府においては、総裁局顧問、徴士参与や外国事務掛、外国官副知官事、玄蕃頭などの要職を歴任した。フランスが、江戸幕府の借金を新政府が返済しないなら横須賀造船所を差し押さえると主張した際、清廉と大隈重信はイギリスから資金を借りてフランスに返済して窮地を脱している。他にも堺事件浦上四番崩れの交渉を行った。またグラバーや五代友厚とともに、日本初の西洋式ドックを備えた小菅修船場を建設した。

明治2年(1869年)1月11日には大久保に版籍奉還の申し出を催促し、1月20日に吉井友実とともに鹿児島に帰藩する。同年1月8日付大久保宛書状ではこの頃オランダ人のアントニウス・F・ボードインの診察を受けたことが記されている[17]。小松の病状に関しては万延元年頃から「足痛」を患っており、たびたび入湯による治癒を行っている[18]。明治元年10月8日には「胸痛」、同年12月8日には「肺病」が記されているが、この症状は以後触れられておらず、同年9月中旬には左下腹部の腫瘍の存在を記しており、ボードウィンは切除困難と判断したという[19]

医師3月10日には長崎で井上馨らと協議し、2月1日に再び帰藩する。2月4日には病気により領地・家格の返上を願い出て、5月15日に官吏公選により退職する。版籍奉還では、久光を説得し率先して自らの領地を返上して範を示し、8月17日には領地返上が許可され、永世禄300石を給せられ、さらに9月26日には賞典禄1000石を給与される[20]。9月には下腹部の腫瘍が悪化し、大阪薩摩掘(大阪市西区立売堀)に借宅する[21]

明治3年(1870年)1月には大久保や木戸らが小松を見舞うが、この頃には遺言書を作成している。7月18日に数え年36歳で大阪にて病死し、最期は側室三木琴(琴仙子)が看取った。葬儀は同年7月21日に天王寺村夕日岡(大阪市天王寺区夕陽丘)で神式により行われた[22]。明治9年には遺骨が小松家の旧領吉利の園林寺廃寺跡である鹿児島県日置市日吉町吉利の禰寝・小松家歴代墓所に移される。

人物[編集]

鹿児島市山下町にある小松帯刀像
  • 愛妻家で、新婚時代の安政3年4月23日から5月6日(1856年5月26日から6月8日)にかけて当時珍しい新婚旅行で霧島栄之尾温泉に滞在した記録がある。この滞在には千賀の父も同行した。ちなみに日本初の新婚旅行を行ったとされる龍馬は寺田屋事件直後の慶応2年(1866年)であり、実際には清廉のほうが10年早く新婚旅行を行っていたことになる[23]
  • 寛容で雄弁明快な人柄で人望が厚く、若くして薩摩藩の重職に取り立てられた。西郷隆盛に初めて会いに行った際、西郷が、身分としては遥かに上とはいえ自らより7歳若い小松の度量を試そうと、わざと部屋で横になり小松を待っていたところ、小松はその姿を見て立腹することなく、むしろ西郷のために枕を持って来るよう従者に促したため、西郷はその一言を聞くや居住まいを正し小松に詫び、忠誠を誓ったという[24]。新政府においても将来を嘱望された。
  • 妾の琴は帯刀清廉の死後、長男・安千代を鹿児島の千賀に預け、帯刀と親交の厚かった五代邸で長女の壽美とともに暮らした。
  • 大正11年(1922年)、時の鉄道大臣は、清廉の子孫である伯爵・小松重春品川駅立売営業権を許可している。これは、清廉が慶応3年(1867年)に鉄道敷設建白書を呈上した功績を考慮したことに因んでいる。これにより、小松家は「株式会社常盤軒」として省線(現JR品川駅駅弁などの販売を開始した。しかし2010年(平成22年)の品川駅改装を機に、駅ビルのルミネ・ザ・キッチンに移ったが程なく閉店した。駅蕎麦屋や仕出し弁当などは引き続き営業している。
  • 坂本龍馬の新政府の人事構想では、西郷や大久保、桂らを抑えて、筆頭に挙げられていた。
  • 下記参考文献中の瀬野富吉によれば、清廉は乗馬の達人で、夜、提灯をさして馬に乗っても、提灯が揺れなかったという。
  • 幕末に英国の外交員として派遣されていたアーネスト・サトウの著書[25]において、「私の知っている日本人の中で最も魅力的な人物」と評されている。

系譜[編集]

本姓平氏平維盛入婿により建部氏より改姓)。家系は禰寝氏(根占氏)嫡流にあたり、江戸時代中期に禰寝氏直系は小松清香が小松氏に改姓した。同家家紋は抱き鬼梶の葉。正式な姓名は平朝臣小松帯刀清廉(たいらのあそん こまつ たてわき きよかど)。

清廉は慶応2年(1866年)に近の甥・町田申四郎実種(薩摩藩第一次英国留学生町田久成弟)を養子として清緝と称させていた[26]。清廉の死後、清緝が明治3年(1870年)10月に家督を継承したものの、明治5年9月25日1872年10月27日)には清廉と琴の長男で千賀が養育していた清直に家督を譲る。

その後、清直は30歳で隠居。嫡子・帯刀は祖父・清廉の功により伯爵に叙せられて貴族院議員をつとめるが、明治38年(1905年)3月に死去。家督は清直の次男・重春が相続し、経國銀行頭取など務めるなど経済界で活躍した。その後、重春には嗣子がなかったため、侯爵西郷従道の七男・従志が養嗣子となって家督を相続した。

重春までの墓は鹿児島県日置市(日吉町吉利)の小松家(禰寝・小松氏)歴代墓所だが、従志以後の墓所は東京に存する。

脚注[編集]

  1. ^ 高村直助は「両親に溺愛されなかった事が逆に周囲に広く配慮する小松帯刀の人柄を形成したのではないか」と推察している[5]

出典[編集]

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  1. ^ 『小松帯刀』pp.1-3
  2. ^ 鹿児島県歴史資料センター黎明館編集 『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家わけ二』 鹿児島県1991年、596-601頁。
  3. ^ 『小松帯刀』p.1
  4. ^ 『小松帯刀』p.3
  5. ^ a b c d 『小松帯刀』p.4
  6. ^ a b 『小松帯刀』p.5
  7. ^ 『小松帯刀』p.7
  8. ^ 『小松帯刀』p.10
  9. ^ 『小松帯刀』p.9
  10. ^ 『小松帯刀』p.11
  11. ^ 『小松帯刀』p.17
  12. ^ a b 『小松帯刀』p.18
  13. ^ 『小松帯刀』pp.25-26
  14. ^ 『小松帯刀』p.26
  15. ^ 『小松帯刀』pp.26-28
  16. ^ 『小松帯刀』p.28
  17. ^ 高村(2012)、p.269
  18. ^ 高村(2012)、pp.270 - 271
  19. ^ 高村(2012)、p.271
  20. ^ 高村(2012)、p.270
  21. ^ 高村(2012)、p.271 - 272
  22. ^ 高村(2012)、p.274
  23. ^ 日本初の新婚旅行は小松帯刀?通説“龍馬”に異論登場 読売新聞(2008年10月16日)
  24. ^ その時歴史が動いた』2008年11月19日放送
  25. ^ 一外交官の見た明治維新 岩波書店 (1960/9/25) ISBN-10: 4003342518 ISBN-13: 978-4003342510
  26. ^ 『近世禰寝文書』参照。

参考文献[編集]

  • 瀬野冨吉、原口泉[監修] 『幻の宰相 小松帯刀伝』 宮帯出版社。
  • 原口泉 『龍馬を超えた男 小松帯刀』 グラフ社、PHP文庫。
  • 根占献一 『日伊文化研究 第26号 - 「小松帯刀とカヴール-1860年代の日伊関係」』、1988年、43-54頁。
  • 高橋裕文 『もうひとつの明治維新 - 「武力討幕方針をめぐる薩摩藩内反対派の動向」』 有志舎、2006年、230-260頁。
  • 鹿児島県歴史資料センター黎明館[編集] 『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家わけ二』 鹿児島県、1991年
  • 高村直助 『小松帯刀』 吉川弘文館、2012年ISBN 978-4-642-05262-7

関連作品[編集]

テレビドラマ
小松清廉

1835年10月14日 - 1870年7月20日

先代:
小松清猷
小松清廉
1856年 - 1870年
次代:
小松清緝