薩英戦争

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薩英戦争
Anglo-Satsuma War
KagoshimaShelling.jpg
Illustrated London News 1863年11月3日号のイラスト
戦争:薩英戦争(アングロ=サツマ戦争)
年月日:1863年8月15日-1863年8月17日
場所徳川葵 江戸幕府薩摩国鹿児島湾
結果:勝敗については諸説あり。
交戦勢力
イギリスの旗 イギリス Japanese Crest maru ni jyuji.svg 鹿児島藩
指導者・指揮官
イギリスの旗 ヴィクトリア女王
イギリスの旗 パーマストン子爵
イギリスの旗 ラッセル伯爵
イギリス キューパー提督
Japanese Crest maru ni jyuji.svg 島津茂久修理大夫
Japanese Crest maru ni jyuji.svg 島津久光(三郎)
戦力
イギリス海軍 鹿児島藩
損害
戦死13名[1][2]
負傷者50名[1][2]
負傷者の死亡7人[3]
艦船大破1隻[1]
中破2隻[1]
砲台戦死1名[4][1]
砲台負傷者9名[5]
市街の死傷者9人[6]
大砲8門[2]
弾薬庫x2[2]

薩英戦争(さつえいせんそう、英語: Anglo-Satsuma War, Bombardment of Kagoshima文久3年7月2日1863年8月15日) - 7月4日8月17日))は、生麦事件の解決を迫るイギリスグレートブリテン及びアイルランド連合王国)と鹿児島藩の間で戦われた鹿児島湾における戦闘である。

鹿児島では「まえんはまいっさ」(前の浜戦)と呼ばれる(城下町付近の海浜が前の浜と呼ばれていた)[7]。薩英戦争後の交渉が、英国が薩摩に接近する契機となった。

生麦事件[編集]

文久2年8月21日1862年9月14日) - 生麦事件が発生する。横浜港付近の武蔵国橘樹郡生麦村で薩摩藩の行列を乱したとされるイギリス人4名のうち3名を薩摩藩士・奈良原喜左衛門海江田信義らが殺傷する(死者が1名、負傷者が2名)。

この種の事件は、不平等条約を強制された国々で発生せざるを得ない特徴的な事件である。居留地にいる条約締結国国民は治外法権で保護されている。居留地外では当該国の法に従う事になる。そして、居留地に居住する外国人は遊歩区域が認められいる。横浜では「神奈川 六郷川筋を限として其他は各方へ凡十里」とされていた。このグレーゾーンでは、正統性が両国の力関係で決定される。このような紛争を介して欧米列強は、どの国においても「内地自由通行権」の獲得に力を注ぐことになる[8]

交渉[編集]

イギリス公使代理ジョン・ニール

交渉までの経緯については、備考を参照のこと。

文久3年5月9日(1863年6月24日)、イギリス公使代理のジョン・ニールは幕府から生麦事件の賠償金10万ポンドを受け取った。

6月22日8月6日)、ジョン・ニールは薩摩藩との直接交渉のため、7隻の艦隊(旗艦ユーライアラス(艦長・司令J・ジョスリング一等海佐 (Captain)[9])、コルベットパール」(艦長J・ボーレイス一等海佐 (Captain)[9])、同「パーシュース」(艦長A・キングストン海尉 (Lieutenant-Commander)[10])、同「アーガス」(艦長L・ムーア海尉 (Lieutenant-Commander)[10])、砲艦「レースホース」(艦長C・ボクサー海尉 (Lieutenant-Commander)[10])、同「コケット」(艦長J・アレキサンダー海尉 (Lieutenant-Commander)[10])、同「ハボック」(艦長G・プール海尉 (Lieutenant)[10])、指揮官:イギリス東インド艦隊司令長官オーガスタス・レオポルド・キューパー海軍少将)と共に横浜を出港。6月27日8月11日)にイギリス艦隊は鹿児島湾に到着し鹿児島城下の南約7kmの谷山郷沖に投錨した。薩摩藩は総動員体制に入り、寺田屋事件関係者の謹慎も解かれた。

6月28日8月12日)、イギリス艦隊はさらに前進し、鹿児島城下前之浜約1km沖に投錨した。艦隊を訪れた薩摩藩の使者に対しイギリス側は国書を提出。生麦事件犯人の逮捕と処罰、および遺族への「妻子養育料」として2万5000ポンドを要求。薩摩藩側は回答を留保し翌日に鹿児島城内で会談を行う事を提案している。

6月29日8月13日)、イギリス側は城内での会談を拒否、早急な回答を求める。

薩摩藩は「生麦事件に関して責任はない」とする返答書をイギリス艦隊に提出し、イギリス側の要求を拒否。イギリス艦隊は桜島の横山村・小池村沖に移動した。

一方、奈良原喜左衛門らはイギリス艦が薪水・食料を求めたのに対して奇襲を計画し、海江田信義黒田清隆大山巌らが、国書に対する答使と果物・スイカ売りに変装し艦隊に接近した。使者を装った一部は乗艦に成功したが、艦隊側に警戒されてほとんどの者が乗船を拒まれたため、奇襲作戦は中止され、奈良原らは退去した。

7月1日8月14日)、ニール代理公使は薩摩藩の使者に対し、要求が受け入れられない場合は武力行使に出ることを通告した。薩摩藩は開戦を覚悟し、藩主・島津茂久と後見役島津久光は、鹿児島城が英艦隊の艦砲の射程内と判断されていたため、新たに本営と定めた鹿児島近在西田村(現・鹿児島市常盤)の千眼寺に移った。

戦闘について[編集]

イギリス艦隊の旗艦には幕府から得た賠償金が積まれていたが、イギリス側は薩摩藩との賠償金(妻子養育料)の交渉を有利にするために薩摩汽船3隻を掠奪した[11]。これに激発した薩摩藩の砲台との間で戦闘が開始された。

戦闘詳報[編集]

イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘

7月2日(8月15日) - 夜明け前、「パール」、「アーガス」、「レースホース」、「コケット」、「ハボック」の艦隊5隻は、薩摩の蒸気船の天佑丸 (England)、白鳳丸 (Contest)、青鷹丸 (Sir George Grey) を重富の脇元浦(現在の姶良市脇元付近)において、これら3隻の舷側に接舷するとイギリス艦より50,60人の兵が乱入した[12]。薩摩蒸気船の乗組員が抵抗すると、銃剣で殺傷するなどして3隻の乗組員を強制的に陸上へ排除して船を奪取した[13]。このとき、天佑丸の船奉行添役五代才助や青鷹丸の船長松本弘庵も捕虜として拘禁された[14]

午前10時、捕獲された3隻は[15]、「コケット」、「アーガス」、「レースホース」の各艦の舷側に1隻毎に結わえられて牽引され、桜島の小池沖まで曳航された[16][1]。これをイギリス艦隊の盗賊行為と受け取った薩摩藩は7箇所の砲台台場)に追討の令を出す[1]

当時の新聞による戦況図

正午、湾内各所に設置した砲台の中で薩摩藩本営に最も近い天保山砲台 (Battery Point)へ追討令の急使として大久保一藏が差し向けられ、到着する間もなく旗艦ユーライアラスに向けて砲撃が開始された。一方、対岸の桜島側の袴腰砲台(桜島横山)は城下側での発砲を知ると、眼下のイギリス艦「パーシュース」に対して砲撃を開始した。この砲台の存在を知らなかった「パーシュース」の艦長は、砲台からの命中弾に慌てふためきの切断を下令すると艦はその場より逃走した。[17][1]

不意を突かれたキューパー提督(海軍少将)は艦隊の戦列を整えるために、桜島小池沖の艦隊5隻へ「ハボック」一艦のみを残し、薩摩船3隻の焼却命令を信号により発令した[18]。イギリス側の乗組員は天佑丸、白鳳丸、青鷹丸から貴重品の略奪すると、砲撃を行った上でこれらの蒸気船3隻に放火すると「ハボック」が焼却・沈没を見届けた。

祇園之洲・新波戸砲台の絵巻物

その後イギリス艦隊は戦列を整え、旗艦ユーライアラスを先頭に単縦陣で、第8台場(祇園之洲砲台)、第7台場(新波戸砲台)、第5台場(辨天波戸砲台)に向けて両舷側の自在砲110ポンドアームストロング砲)を用いて発砲(戦況図参照)。艦隊の107門の砲は21門が最新式の40ポンドアームストロング砲や110ポンドアームストロング砲であり、これを用いて陸上砲台(沿岸防備砲・台場)に接近しての砲撃を行った。これに対して薩摩の砲台・台場からの応戦による大砲の発砲は数百発に及び、接近する艦隊に小銃隊も砲撃の合間を縫って狙撃を行った[1]

イギリス艦隊の第8台場(祇園之洲砲台)、第7台場(新波戸砲台)、第5台場(辨天波戸砲台)への攻撃では、精確な射撃により薩摩側の大砲8門を破壊した。薩摩藩側は暴雨風の影響による砲台への浸水やイギリス艦隊の砲に比べると備砲は射程距離が短いなど性能も劣っていたが、薩摩砲台に接近する艦隊は午前よりの荒天や機関故障により操艦を誤るなど、薩摩側への有利な戦闘展開となった。薩摩側も敵艦への突撃・追撃用に上荷船の船首に18斤単銅砲や24斤単銅砲を1門備えた11人乗り小型艇数艘(総数12艘)の水軍隊は、辨天波戸より出動し砲撃を試みたが荒天のため船内への浸水などで退却した。

午後3時前、辨天波戸砲台の29拇臼砲(ボンベン砲)の弾丸1発が旗艦ユーライアラスの甲板に落下[19]、軍議室に入り込み破裂・爆発、居合わせた艦長・司令 (Captain Josling) や次官司令 (Commander Wilmot) などの士官が戦死[1][2]。キューパー提督は艦長や指揮官などと居合わせたが、その場から撃ち倒されて共に転落するも左腕に傷を負ったのみで助かった[20]

午後3時10分、祇園之洲砲台に接近して砲撃中の「レースホース」は、折からの強い波浪や機関故障により吹き流され、砲台手前の200ヤード座礁・擱坐すると大きく傾き、大砲の発砲が出来なくなり小銃で砲台への攻撃を行った[21][22]。しかし、既に祇園之洲砲台の大砲の殆どが破壊されており、この砲台からの大砲による応戦は行われなかった。また、薩摩側はイギリス艦の座礁とは想定せず、艦より端艇が下ろされたことにより、陸戦は必定と上陸に備えて台場の陰で敵の襲来を待ち構えた。

午後4時頃、イギリス艦隊の3隻(コケット、アーガス、ハボック)は僚艦「レースホース」の救出・援護のために祇園之洲砲台に砲撃を加えながら僚艦の離礁を試みた。これに対して新波戸砲台がイギリス艦隊に盛んに砲撃を加え、「アーガス」に3発の命中弾を浴びせたが、「レースホース」は他の僚艦により曳航され、5時半頃には救出され離礁した[23]

午後7時頃、艦隊の「ハボック」は磯に停泊中の琉球船3隻と日向国那珂郡赤江船2隻を襲い焼却する。更に僚艦「パーシュース」ともに砲撃やロケット弾(火箭)で近代工場群を備えた藩営集成館への艦砲射撃を行い破壊した。その後艦隊は桜島横山村小池村沖に全艦が戻って停泊した。

午後8時頃、上町方面の城下では先の艦砲射撃により火災が迫り、民家(350余戸)、侍屋敷(160余戸)、寺社(浄光明寺、不断光院、興国寺、般若院)などの多くが焼失した[24]

7月3日(8月16日)、前日の戦闘で戦死した旗艦艦長や次官司令などの11名を錦江湾で水葬にする[25]。艦隊は戦列を立て直し、市街地と両岸の台場を砲撃して市街地および島津屋敷を延焼させた(島津屋敷は誤認であり、実際には寺院[26])。また、砲撃により第11台場(赤水台場)および突出台場 (天保山砲台) の火薬庫が爆発して、天保山砲台(砂揚場)より反撃があったが、その後台場よりの反撃は収まり、沖小島台場からの砲撃に応戦しながら湾内を南下、谷山沖に停泊し艦の修復を行う。 この時、薩摩藩により沖小島と桜島(燃崎)の間付近に、集成館で島津斉彬公の時代に製造した電気点火装置の水中爆弾3基(地上より遠隔操作)を仕掛けて待ち伏せしていたが、沖小島台場の砲撃によりイギリス艦隊は進路を変更したため近寄らず失敗した。

7月4日(8月17日)、艦隊は弾薬や石炭燃料の消耗や多数の死傷者を出し、薩摩を撤退した。その中の一艦(レースホース[3])は艦隊からとも綱を外し、損壊も甚だしく、小根占の洋上に停泊して修理を行っていたが、この艦を7月6日(8月19日)夜に他の艦が来て曳航して行った[1]

7月11日(8月24日)、全艦隊が横浜に帰着。

戦闘の結果[編集]

薩摩藩の砲台によるイギリス艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人(旗艦ユーライアラスの艦長や次官司令の戦死を含む死者13人、負傷者50人内7人死亡)に及んだ。一方、薩摩藩側の人的損害は祇園之洲砲台では税所清太郎(篤風)[1]のみが戦死し、同砲台の諸砲台総物主(部隊長)の川上龍衛や他に守備兵6名が負傷した[27]。他の砲台では沖小島砲台で2名の砲手などが負傷した[28]。市街地では7月2日に流れ弾に当たった守衛兵が3人死亡、5人が負傷した。7月3日も流れ弾に当たった守衛兵1名が死亡した。物的損害は台場の大砲8門、火薬庫の他に、鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館、鋳銭局、寺社、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、琉球船3隻、赤江船2隻が焼失と軍事的な施設以外への被害は甚大であり、艦砲射撃による火災の焼失規模は城下市街地の「10分の1」になる。

朝廷は薩摩藩の攘夷実行を称えて薩摩藩に褒賞を下した。横浜に帰ったイギリス艦隊内では、戦闘を中止して撤退したことへの不満が兵士の間で募っていた。

当時の世界最強のイギリス海軍が事実上勝利をあきらめ横浜に敗退した結果となったのは西洋には驚きであり[要出典]、当時のニューヨーク・タイムズ紙は「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」とし、さらに、「西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくいかないだろう」とも評している[29]

本国のイギリス議会や国際世論は、戦闘が始まる以前にイギリス側が幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への艦砲射撃は必要以上の攻撃であったとして、キューパー提督を非難している。

イギリス艦艇一覧[編集]

1863年8月15日、鹿児島攻撃時の戦闘隊列でのイギリス艦隊を一覧で表す。死傷者の無かったハボック (Havock) は、琉球船 (Loochoo I. Junks) 3隻と赤江船2隻を襲う。

艦名 艦種 建造年 トン数 乗員
[30]
出力 備砲 損害
[2][3]
ユーライアス
Euryalus
フリゲート
蒸気スクリュー
1853年
(改造)
積載量2371トン(bmトン
排水量3125英トン
600
[30]
540
400NHP 110ポンドアームストロング砲x5
40ポンドアームストロング砲x8
その他22門
鹿児島砲撃時にカロネード砲x16を追加
戦死10名
負傷21名
パール
Pearl
コルベット
蒸気スクリュー
1855年 積載量1469トン(bmトン
排水量2187英トン
245
[30]
400
400NHP 68ポンド砲x1
10インチ砲x20
負傷7名
コケット
Coquette
砲艦
蒸気スクリュー
1855年 積載量677トン(bmトン 78
[30]
90
200NHP 110ポンドアームストロング砲x1
10インチ砲x1
32ポンド砲x1
20ポンド砲x2
戦死2名
負傷4名
アーガス
Argus
スループ
蒸気外輪
1852年 積載量981トン(bmトン
排水量1630英トン
170
[30]
175
300NHP 110ポンドアームストロング砲x1
10インチ砲x1
32ポンド砲x4
負傷6名
パーシュース
Perseus
スループ
蒸気スクリュー
1861年 積載量955トン(bmトン
排水量1365英トン
172
[30]
175
200NHP 40ポンドアームストロング砲x5
32ポンド砲x12
戦死1名
負傷9名
内死亡4人
レースホース
Racehorse
砲艦
蒸気スクリュー
1860年 積載量695トン(bmトン
排水量877英トン
103
[30]
90
200NHP 110ポンドアームストロング砲x1
10インチ砲x1
32ポンド砲x1
20ポンド砲x2
艦体大破
負傷3名
ハボック
Havock
ガンボート
蒸気スクリュー
1856年 積載量232トン(bmトン 50
[30]
37
60NHP 68ポンド砲x2 なし

戦争の処理[編集]

9月28日11月11日) - 第1回和睦の談判、横浜英国公使館の応接室にて薩摩藩の重野厚之丞(安繹)が主導、補佐として同藩岩下左次右衛門、支藩佐土原藩家老樺山久舒(舎人)、能勢二郎左衛門(直陳)などが同席。代理公使ニール大佐との談判では、薩摩側はイギリス艦の薩摩汽船を掠奪した件を追求し、イギリス側は生麦事件を挙げて紛糾・決裂したが、幕府側の仲裁で次回談判を取り決めた。重野らと同行した薩摩藩の高崎猪太郎は一橋卿の内命にて京都に居たため同席せず。

10月4日11月14日) - 第2回和睦の談判、薩摩藩の岩下、重野は、前回と同じくイギリス側の非を責めるが、ニール公使も同様に全く自説を変える様子も無く談判は紛糾・決裂し、次回談判となる。

10月5日11月15日) - 第3回和睦の談判、宗藩を憂慮する和睦派の佐土原藩の樺山、能勢らは幕府側の説得を受け入れて薩摩藩側への和睦を促し、重野らはイギリスからの軍艦購入を条件に扶助料を出すべしと議を決した。イギリス側は軍艦購入の斡旋を承諾。

薩摩藩は2万5000ポンドに相当する6万300を幕府から借用して支払ったが、これを幕府に返さなかった。また、講和条件の一つである生麦事件の加害者は「逃亡中」として処罰されず。

イギリスは講和交渉を通じて薩摩を高く評価するようになり、関係を深めていく(2年後には公使ハリー・パークスが薩摩を訪問しており、通訳官アーネスト・サトウは多くの薩摩藩士と個人的な関係を築く)。薩摩藩側も、欧米文明と軍事力の優秀さを改めて理解し、イギリスとの友好関係を深めていった。

備考[編集]

交渉までの経緯[編集]

生麦事件発生以前にも2度にわたるイギリス公使館襲撃(東禅寺事件)などでイギリス国内の対日感情が悪化している最中での生麦事件の発生にジョン・ラッセル外相(後の首相)は激怒し、ニール代理公使及び当時艦隊を率いて横浜港に停泊していた東インド・極東艦隊司令官のジェームズ・ホープ中将に対して対抗措置を指示していた。実は2度目の東禅寺襲撃事件の直後からニールとホープは連絡を取り合い、更なる外国人襲撃が続いた場合には関門海峡大坂湾江戸湾などを艦隊で封鎖して日本商船の廻船航路を封鎖する制裁措置を検討していた。当時、日本には砲台は存在していたが、それらの射程距離は外国艦隊の艦砲射撃の射程距離よりも遙かに短く、ホープはそれらの砲台さえ無力化できれば巨大な軍艦の無い江戸幕府や諸藩にはもはや封鎖を解くことは不可能であると考えていた。

実際に文久2年11月20日(1863年1月9日)にヴィクトリア女王臨席で開かれた枢密院会議で対日海上封鎖を含めた武力制裁に関する勅令が可決されている。だが、ニールもホープもこの海上封鎖作戦を最後の手段であると考えていた。ニールは、ホープに代わって東インド・極東艦隊司令官となったキューパー少将を横浜に呼び寄せ、文久3年2月4日3月22日)、幕府に生麦事件と東禅寺事件の賠償問題(合計11万ポンド)について最後通牒を突きつけたが、この際に日本を海上封鎖する可能性をわざわざ仄めかしている。

江戸幕府は、フランス公使デュシェーヌ・ド・ベルクールに英国との仲介を依頼し、文久3年5月9日6月24日)にニールと江戸幕府代表の小笠原長行との間で賠償交渉がまとまった。このため、ニールとキューパーは、日本に対する海上封鎖作戦を直前に中断した。幕府との交渉が決着したため、続いて実行犯である薩摩藩との交渉のため、ニールとキューパーは薩摩に向かったが、この時点では戦闘の可能性は低いと考えていた。

なお、ホープは海上封鎖を行っても賠償に応じない場合を想定して陸軍と協議して京都大坂江戸を占領する計画をも検討していたが、仮に占領可能であったとしても天皇将軍が山岳部に逃げ込んでゲリラ戦に持ち込まれた場合は不利であると結論しており、事実上断念している。また、当時の英国に十分な数の陸兵を日本に派遣する余裕はなかった。実際ニールは横浜防衛のために2000人の陸兵派遣要請をしたが、それすらも拒否されている。

その他(異説など)[編集]

アームストロング砲[編集]

当時の最新鋭兵器として期待されていたアームストロング砲は、この戦闘で暴発や不発(不発弾)が多い事が実戦で判明したため、イギリス海軍から全ての注文をキャンセルされた。さらに輸出制限も外されて海外へ輸出されるようになり、後に日本にも輸入される原因になったとされる[31]

なお、当時の事件を伝える新聞(1863年8月26日鹿児島戦争之英文新聞紙翻訳)では[2]、イギリス艦隊側の負傷者氏名と傷の詳細や戦闘の様子が掲載され、その戦死者の負傷状況などからも破裂弾の着弾爆発による被害を物語っているなど、この新聞記事(従軍記者の記述)ではアームストロング砲の暴発については一切触れられていない。また、旗艦ユーライアラスには薩摩側の臼砲弾などが数発命中し、それらの破裂弾により艦隊全体の死傷者数の4割以上を一つの艦で占めるなど、ユーライアラスでの死傷者は31名に及んでおり[2]、その詳細な状況から砲の暴発があったとしても、被害は限られた範囲の事象と推定できる[32]

アームストロング砲暴発の拡大解釈を招く事象として、薩摩側の10インチ砲弾によりユーライアラスの甲板に備えた第3番砲が直撃弾を受けており、その砲員らが一度に死傷している。[33][34]

異説[編集]
  • 薩摩藩は処罰の対象を、犯人ではなく藩主だと勘違いしたため拒否したという説がある(要求文翻訳を担当した福澤諭吉が急いでいたために、原文を直訳してしまい事件の責任者と藩主の区別があいまいになったため)[要出典]
  • この戦闘中指揮官のニールとキューパーは、自ら命がけでイギリス船に乗り込んだ五代友厚松木弘安(寺島宗則)をよび、薩摩藩の実力についてたずねた。五代は「古来日本の士風は死を見ることなお帰するが如きものがある。ことにわが薩藩は武をもってなり、いわんや今回は国家の大事にのぞみ、陸上十万の精鋭は一人として生を欲するものがいない。しかも陸戦はそのもっとも得意とする所であるから、貴国水兵の陸戦隊の上陸を決死奮戦の意気込みでまちかまえている」と答えた。これを聞いたニールとキューパーは途端に上陸作戦を思いとどまる。10万人と聞いては本国から援兵をもとめるにしても到底かなわないと思ったからであろう。五代は砲台備砲についても彼の心胆を寒からしめるような放言をなしたのであった。いわば五代の謀略にかかって戦意を失い、戦い半ばにして退却し、再度の来襲を敢行しなかったのである。「地上戦となれば薩摩の10万人の侍、命を懸けて戦いに臨む。英軍に勝算はなく退避せよ。」という五代の熱弁と暴風雨が功を奏し被害はイギリス軍が多く、五代の交渉力により、薩英戦争は解決したのである。[要出典]


脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 日本史籍協会『島津久光公實記(二)』pp.60-79
  2. ^ a b c d e f g h アジア歴史資料センター、鹿児島戦争之英文新聞紙翻訳・全(画像資料:Ref.A07060050900 pp26-34)
  3. ^ a b c 『元帥公爵大山巌:この日の戦、旗艦「ユリアラス」号に於いては、艦長、副艦長を始め即死10人、傷者21人(内死亡士官2人)合計死傷31人を出し、「パール」号にては傷者7人(内死亡士官1人)、「パーシュース」号にては即死1人、傷者9人(内重傷到死4人)、合計死傷10人、「アーガス」号にては傷者6人、「レースホース」号にては傷者3人、「コケット」号にては即死2人、傷者4人を出し、合計即死者13人、傷者50人(内7人死亡)総合計死傷63人を算すると共に最小艦「ハボック」を除く外、他の6艦悉くその艦體に大破小破を蒙り、中にも擱坐したる「レースホース」号は独自の航行力を失った。』p.136
  4. ^ 『元帥公爵大山巌:祇園洲砲台伍長税所淸太ただ一人の戦死者』p.136
  5. ^ 『元帥公爵大山巌』pp.136-138
  6. ^ 『元帥公爵大山巌:流弾により7月2日は守衛兵3人死亡、負傷5人、7月2日は守衛兵1人死亡』pp.136-138
  7. ^ 『薩藩海軍史(中巻):英艦隊が前の浜に停泊するや、忠義公は軍役奉行折田平八(年昭)、軍賦役伊地知正治、助教今藤新左衛門(宏)、庭方重野厚之丞(安繹)を旗艦に遣わし、その来意を問はしめたり、・・・』p.471
  8. ^ 宮地正人著 『幕末維新変革史 上』 岩波書店 2012年 381ページ
  9. ^ a b 当時のイギリス海軍には少佐 (Lieutenant-Commander) に相当する階級が無く、佐官は“Captain”と“Commander”二等級であった。19世紀前半までの“Captain”は「勅任艦長」、“Commander”は「海尉艦長」と一般的に訳されるが、この頃にはこれらは階級へと変化しており、役職名であるそれらの訳語も不適切である。よって、“Captain”は一等海佐とする。
  10. ^ a b c d e 当時のイギリス海軍では、“Lieutenant-Commander”は正式の階級ではなく、古参の“Lieutenant”に許される称号であった。また、尉官は(現在でも)二等級なので、“Lieutenant”は「海尉」とする。
  11. ^ 『薩藩海軍史(中巻):・・・然れども未た宣戦の布告なきに、何を以て我が船を掠奪せんとするやと、抗論して肯ぜざりしも、・・・』p.491
  12. ^ 『薩藩海軍史(中巻):・・・突然にこの汽船の舷側に横着し、五六十人乱入したり。我が船員驚き一方ならず、しかして五代、松木等の船長にそれ引き渡しを要請せり。然れども未た宣戦の布告なきに、何を以て我が船を掠奪せんとするやと、抗論して肯ぜざりしも、遂に彼等の威嚇に力及ばず・・・』p.491
  13. ^ 『薩藩海軍史(中巻):・・・天佑丸にては、乗組員中に抵抗する者もありたるに依り之を捕縛し、・・・太鼓役の師匠本田彦次郞の如きは、敵の士官と闘争せんとしたる為め銃剣に突かれ、海中に飛び込み行方不明となれり、・・・吉留直次朗は佩刀を渡せ渡さぬと争ひしが背後より英兵に剣を以て突かれ、・・・』p.491
  14. ^ 『元帥公爵大山巌』pp.128-129
  15. ^ 『藩海軍史(中巻):捕獲に向かいたる五艦は脇元沖に至り、・・・』p.491
  16. ^ 『元帥公爵大山巌』p.128
  17. ^ 『元帥公爵大山巌』pp.129-130
  18. ^ 『元帥公爵大山巌』pp.129-130
  19. ^ 『元帥公爵大山巌:旗艦の砲門に命中して甲板上に炸裂し、艦橋に在って指揮せる艦長・・・』p.132
  20. ^ 『藩海軍史(中巻):・・・船将外一人と3人で檣棚に上り、望遠鏡を以て砲台より発射することを認め、急に号令して各船戦闘の準備をなさしめる中、一丸飛来て第二の船将を打たおし棚をも打砕き、余外一人も墜落、その時左腕を傷め今なおかくのごとしと疵所を示せり。』p.636
  21. ^ 『元帥公爵大山巌』p.132
  22. ^ 『藩海軍史(中巻):午後3時10分頃、200碼(ヤード)まで進撃して、遂に砲台前の浅瀬に擱坐し、船体はなはだ傾斜し、大砲を発射することは能はず、・・・或は伝ふ同艦は機械に故障あり、運転の自由を欠きしが、遂に吹き流され座州したるものなりと。』p.498
  23. ^ 『元帥公爵大山巌』p.135
  24. ^ 『元帥公爵大山巌』p.136
  25. ^ 『薩藩海軍史(中巻)』p.538
  26. ^ 『薩藩海軍史(中巻)』p.540
  27. ^ 『元帥公爵大山巌』pp.136-137
  28. ^ 『元帥公爵大山巌』p.138
  29. ^ The Progress of the Japanese War. October 4, 1863., New York Times.
  30. ^ a b c d e f g h 『藩海軍史(中巻)』、文久3年6月22日(1863年8月6日)出帆時とされる乗組員数を上段に引用(上段:総数1418人、下段との誤差89人)。pp.362-363
  31. ^ 『日本の戦艦』p144~p147、「1863年、薩英戦争における新式アームストロング砲の大事故」
  32. ^ 暴発での負傷の程度を示すものとして、当時、戦闘に参加したイギリス士官の暴発についての逸話が残っており、40ポンドアームストロング砲#海軍での運用110ポンドアームストロング砲#実戦の各記事引用で、暴発での負傷者が殆ど無かったことへの言及もある。
  33. ^ 『薩藩海軍史(中巻):また我が砲台より発射したる一弾は第三番砲側に破裂し、そばに居合わせたる士官ならびに砲員の全部を死傷せしめ、その無事なる者はただ一人のみなりき。』p.497
  34. ^ 『藩海軍史(中巻):<71横浜英字新聞> 十インチの榴弾、我が甲板上に備えたる三番砲の傍らにて破裂し、其の処にある者七人死し、「リューテナント、セフリン」並びに外五人創を被れり。』pp.534-538

参考文献[編集]

関連項目[編集]