山田方谷

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山田方谷像

山田 方谷(やまだ ほうこく、文化2年2月21日1805年3月21日) - 明治10年(1877年6月26日)は、幕末期の儒家陽明学者。名は、通称は安五郎。方谷は備中聖人と称された。

略伝[編集]

方谷は、菜種油の製造・販売を家業とする農商であった五朗吉の子として、備中松山藩領西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)で生まれた。山田家は元は清和源氏の流れを汲む武家であったというが、元文4年末、長百姓で造り酒屋だった曽祖父益昌が、定光寺の住職を殺害した上自害した結果、財産没収の上、所払いとなる。長男は難を逃れ浄福寺の十二世空山恵林和尚になったが、次男らは二十年程流浪の生活を送り、許されて戻り方谷が生まれるころは百姓として生計をたてていた。

5歳になると、新見藩の儒学者である丸川松隠に学ぶ。20歳で士分に取立てられ、藩校の筆頭教授に任命された。その後、藩主板倉勝静のブレーンとして藩政に参加、財政の建て直しに貢献したほか、老中に就任した藩主のもと幕政にも影響力を有した。幕末の混乱期には官軍への服属を決断し、藩を滅亡から回避させることに成功した。明治維新後は政府には出仕せず、民間教育者として亡くなった。

陽明学との出会い[編集]

方谷は29歳のとき、京都遊学で陽明学と出会う。晩年には閑谷学校にて1年に一カ月、陽明学を教えていた。

松山藩の藩政改革[編集]

方谷が説く「理財論」および「擬対策」の実践で、藩政改革を成功させた。

理財論は方谷の経済論。の時代の董仲舒の言葉である「義を明らかにして利を計らず」の考え方で、改革を進めた。つまり、綱紀を整え、政令を明らかにするのが義であるが、その義をあきらかにせずに利である飢餓を逃れようと事の内に立った改革では成果はあげられない。その場しのぎの飢餓対策を進めるのではなく、事の外に立って義と利の分別をつけていけば、おのずと道は開け飢餓する者はいなくなることを説いた。

擬対策は方谷の政治論。天下の士風が衰え、賄賂が公然と行われたり度をこえて贅沢なことが、財政を圧迫する要因になっているのでこれらを改めることを説いた。

この方針に基づいて方谷は大胆な藩政改革を行った。

  1. 藩財政を内外に公開して、藩の実収入が年間1万9千石にしかならないことを明らかにし、債務の50年返済延期を行った(ただし、改革の成功によって数年後には完済している[1])。
  2. 大坂蔵屋敷を廃止して領内に蔵を移設し、堂島米会所の動向に左右されずに平時には最も有利な市場で米や特産品を売却し、災害や飢饉の際には領民への援助米にあてた。
  3. 家中に質素倹約を命じて上級武士にも下級武士並みの生活を送るように命じ、また領民から賄賂や接待を受ける事を禁じて発覚した場合には没収させた。方谷自身の家計も他人に任せ率先して公開して賄賂を受けていないことを明らかにした。
  4. 多額の発行によって信用を失った藩札を回収(711貫300匁(金換算で11,855両)相当分)し、公衆の面前で焼き捨てた。代わりに新しい藩札を発行して藩に兌換を義務付けた。これによって藩札の流通数が大幅に減少するとともに、信用度が増して他国の商人や資金も松山藩に流れるようになった。
  5. 領内で取れる砂鉄から備中鍬を生産させ、またタバコ和紙柚餅子などの特産品を開発して「撫育局」を設置して一種の専売制を導入した。他藩の専売制とは逆に、生産に関しては生産者の利益が重視されて、藩は後述の流通上の工夫によって利益が上げるようにした。
  6. これら特産品を、中間手数料がかかる大坂を避け、藩所有の艦船(蒸気船快風丸」)で直接江戸へ運び、藩邸内の施設内で江戸や関東近辺(は農村の需要が高かった)の商人に直接販売した。これによって、中間利益を排して高い収益性を確保する一方で、藩士たちに航海術を学ばせた(板倉家の同族である安中藩の家臣であった若き日の新島襄も、この航海演習に参加したことがあるという。その後、布教に訪れている。)。
  7. 藩士以外の領民の教育にも力を注ぎ、優秀者には農民や町人出身でも藩士へ取立てた。
  8. などの役に立つ植物を庭に植えさせた。更に道路や河川・港湾などの公共工事を興し、貧しい領民を従事させて現金収入を与えた。また、これによって交通の安全や農業用水の灌漑も充実された。
  9. 目安箱を設置して、領民の提案を広く訊いた。
  10. 犯罪取締を強化する一方、寄場を設置して罪人の早期社会復帰を助けた。
  11. 下級武士に対して一種の屯田制を導入し、農地開発と並行して国境等の警備に当たらせた。しかし武士の反発は強く命を狙われたり、自らも長瀬に移住し開墾した。
  12. 「刀による戦い」に固執する武士に代わって農兵制を導入し、若手藩士と農民からの志願者によるイギリス式軍隊を整えた(方谷自身も他藩を訪れて西洋の兵学を学んだという)。この軍制は長州藩(後の奇兵隊)や長岡藩でも模範にされた。

方谷は反対意見を受けたもののあくまで藩主・家臣が儲けるための政策ではなく、藩全体で利益を共有して藩の主要な構成員たる領民にそれを最大限に還元するための手段であるとして、この批判を一顧だにしなかった(事実、方谷は松山藩の執政の期間には加増を辞退して、むしろ自分の財産を減らしている)。これによって、松山藩(表高5万石)の収入は20万石に匹敵するといわれるようになり、農村においても生活に困窮する者はいなくなったという。雄藩に準ずるほどの大規模な藩政改革を行い、のちの長州藩等の手本になるものもあり、当時としては画期的な政策であった。

幕末維新期[編集]

藩主・板倉勝静白河藩主・松平定信の実の孫であり、元をたどれば徳川吉宗の玄孫にあたる。そのため、幕府に対する忠誠心が高く、勝静自身も奏者番寺社奉行老中と幕府の要職を務めた。しかし、幕府の重職を担うことは藩財政の逼迫を招くため、方谷は勝静の幕政参加に反対していた。また、勝静は方谷の能力を高く買い、藩の外交官として自身の補佐役に任命したが、方谷は内政に比して藩の外交や幕政に対しては能力も意欲も乏しかった。そのため、幕政の補佐役は早々に辞任し、藩の内政には全面的に責務を負うことを条件として、松山に帰国している。そしてもっぱら、藩の復興や弟子の育成に力を注いだ。

慶応元年の建白書においては、清国へ使節を派遣し、先方が服属しない場合には好戦的な大名に「朝鮮・満州・台湾等」を順次「切取」らせることを主張した[2]。方谷の対外膨張論は征韓論の先駆として、徳川慶喜政権における対朝鮮政策にも影響を与えている。

大政奉還とそれに続く鳥羽・伏見の戦いにおいて、老中として大坂城の将軍・徳川慶喜の元にいた勝静は、幕府側に就いて官軍と戦うこととなった(戊辰戦争)。これに対して朝廷は、岡山藩などの周辺の大名に、松山藩を朝敵として討伐するよう命じた。突然の出来事に対して、松山の人々は動揺した。方谷は、主君勝静に従って官軍と戦うよりも松山の領民を救うことを決断し、勝静を隠居させて新しい藩主を立てることと、松山城の開城を、朝廷に伝えた。大石隼雄らと鎮撫使の謝罪書の草案にあった「大逆無道」には死を賭して反論して「軽挙暴動」に変えさせた。

明治期[編集]

松山城を占領した岡山藩内では、旧幕府軍に加わっている勝静の代わりに方谷を切腹させるべきだという意見もあったが、彼を慕う松山藩領民の抵抗を危惧した藩中央の意向でうやむやとされた。また、岡山藩で名君と慕われていた藩主・池田光政が陽明学を振興していたことも、岡山藩が方谷に好意的だった理由とも考えられる。

その後、方谷は岡山の人々の依頼で、寛文10年(1670年)に池田光政が設立し明治3年(1870年)まで続いた閑谷学校(日本最古の庶民学校)を、陽明学を教える閑谷精舎として明治7年(1874年)に再興した[3]。しかし閑谷精舎での講義の内容が漢学に偏っていた為に受講生徒数が減少し、4年間で閑谷精舎は休学に至ってしまう[3]

明治新政府は方谷の財政改革を高く評価して、三島中洲や川田甕江らを通じて出仕を求めた。しかし、領民達を救うためとはいえ、心ならずも主君を隠居に追い込んで勝手に降伏した方谷に、再仕官をする考えはなかった。そして、明治10年(1877年)に死去するまで、弟子の育成に生涯を捧げることになったのである。

エピソード[編集]

義利合一と至誠惻怛[編集]

方谷の「理財論」と「擬対策」は後に、弟子の三島中洲の「義利合一論」へと発展し、三島が拓いた私塾である二松学舎を通して渋沢栄一を初めとする関係者たちに伝えられ、彼らを通して日本の財界に深い影響を与えることになった。

至誠惻怛(しせいそくだつ)という真心と慈愛の精神を説いたことでも知られる。例えば、他人を小人呼ばわりした三島中州に「世に小人無し。一切、衆生、みな愛すべし。」と戒めたという[4]。のち至誠惻怛の精神は福西志計子らを通して石井十次留岡幸助山室軍平中島重らに影響を与えていった。それはとりもなおさず、日本の福祉の歴史においても大きな影響を与えたことを意味する[5]

その他挿話[編集]

  • 安岡正篤は、「この人のことを知れば知るほど文字通り心酔を覚える」と評価している[6]。幕末の三傑として、藤田東湖、山田方谷、佐久間象山を挙げている。
  • 嘉永5年(1852年)に牛麓舎の隣家に住まう一藩士が病没し、その寡婦が方谷宅の門を叩いた。寡婦は父を亡くした自らの7歳の娘に、母子家庭の娘と侮られぬよう、男性と互して能うほどの学問を施してもらうよう方谷に請うた。それは当時の一般常識に照らせば、ありえない考えであった。しかし学の人生における重要性を体感の上で知悉していた方谷は、藩政改革の忙しい最中ではあったが寡婦の願いを快く引き受けて男女の別を気にする事無く、その才気ある娘を牛麓舎に通わせて自らの学を与えたとされる。その娘こそが、後に高梁の地で女子教育の普及に努める事となる福西志計子であった[7]
  • 父の「父五郎吉君家訓」には、衣類は木綿に限ること。三度の食事は一度はかす、一度は雑炊、一度は麦飯、もっとも母には三度とも米を勧め、夫婦の米は倹約する事。酒のたしなみは無用の事。客の饗応は一汁一菜限り。仕事が忙しい時は朝七つから夜九つまで(十二時辰)。履物は藁草履、引き下駄藁緒に限ること。加羅油月代は月に三度。鬢付けは倹約すること。高銀の櫛かんざしは無用。遊芸は一切無用など12か条あった。
  • 若い頃は遊女、老荘仏に溺れた事もあった。父の遺言に背いて酒をよく飲み、大きい瓢箪の徳利を肩にかけ持ち歩き軽く一升は飲んだが、その後でも仕事を片付けていた。病気で生死を彷徨ってからは酒をやめた。江戸の愛宕山の麓でも吐血して倒れ、その時に詩が出来たと言って書き留めさせた。「今こそ体中の賊を殲滅する時だ。」
  • 幕末に一揆が頻繁に起こったが、山田方谷と書いた紙を貼っておいた長持は荒らされなかった。「元々は温厚な農民をこの様にしたのは誰のせいか。役人の責任ではないか。」と詠んでいる。生きている間から祀られている。
  • 今も方谷と付いた駅や公園や橋、高梁市のゆるキャラなどがある。大河ドラマにしてもらう運動も行われている。
  • 役人の出世は能力と関係ないと嘆いている。
  • 「借金を踏み倒して改革で貯めた十万両も、第一次長州征討で使い果たしたのも天道か」と詩にしている。第一次長州征討では藩主の留守中の軍の全権を任された。奇兵隊の一部が侵入して来た時には、自ら創設した農兵隊を率いて出陣したが能力不足を痛感し、老人や庄屋の息子でも能力が無ければ替えるなど改革を迫られた。
  • 藩政改革では貨幣の流通に最も気を付けた。「千有余年にわたる紙幣の利害を得失の詩を吟じるならば、現在の財政権を持つ者の戒めになるだろう。」中国歴代の紙幣の変遷を17首の詩にもしている。
  • 河井継之助には、「改革は簡単な事からやりなさい。15年もすれば反対していた人もいなくなる。」(勝静から聞いた松平定信の言葉に足したとも)。佐久間象山を例に、「あなたは賢いがそれが災いとなるから気をつけなさい。」「業績や経済ばかりに関心があるようだが、本当に大事なのはそれではない。」などと言っている。戊辰戦争後、河井の遺族が困窮していると聞き「こちらで面倒をみますから来ませんか」と援助を申し出たり、墓碑の文書を頼まれた時には「書くも恥ずかし死に遅れ。」と断り、三島中洲が引き受けた。
  • 安政の大獄では「厳罰に処すと災いの元となります」と答え、勝静は五手掛でその様な主張をして井伊直弼を激怒させ老中を解任された。京都で知り合った春日潜庵の減刑にも働きかけ、後に知った彼が「恩を売らない本当の友は方谷だけだ。」と言っている。藤森弘庵も救出した。刑死した頼三樹三郎の碑を再建している。「吉田松陰の遺骸を下げ渡してほしい」と久坂玄瑞から頼まれている。
  • 明治維新後、藩主・勝静の謹慎が解かれるまで公の活動は控えていた。藩主とは7年ぶりに長瀬で再会した。
  • 三島中洲によると「藩政の事は秘密にしていた。」「先生は筋を通すことを大切にされた。それは誠意を貫くことで自説を通す主義である。」「原稿が残されただけで秘蔵して人に示さなかった」「惜しいことに蕃山は人生の末路でつまずいてしまった。これを方谷のに比較してみると、徳の点で欠けるところがあった。ああ、盛んな事だなあ始めから終わりまで先生は完全であった。ここに残された業績を石に刻み込み、後の子孫に対し謹んで手本とする。」「先生は藩政では多く私の意見が採用されたが、天下を論じたものでは一つとして採用される事はなかった。他日この原稿を見ればこの事が分かるであろうと言っていた」「書く一方から散逸してしまい、二度と原稿を残さなかった。ただ献策・対問に関する国語で書かれた原稿が残っているだけである」「変幻自在だったが至誠惻怛をもってすれば理解できるであろう」
  • 大砲が好きだったそうで砲術の修行に行ったり、試射したり鋳造したりしている。第一次長州征討では約10門の大砲を持って行ったので、20万石に匹敵すると言われた。
  • 勝静と共に松山踊りの歌詞に入っていたり、改革の始めは「山だし(山田氏)が何のお役に立つものか/へ(子)日はくのやうな元締め」「御勝手に孔子孟子を引き入れて/なほこのうへに唐(空)にするのか」と狂歌になった。
  • 勝静には「賄賂をすることなく自然に寺社奉行になれるなら、天の命じるところであり、就任を避けるではない」と言っていたが、後に老中などになった時には経費は藩からの持ち出しの為、領民の為に辞めることを薦めていた。
  • 王陽明、熊沢蕃山上杉鷹山楠木正成諸葛孔明蕭何平重盛伯夷達を尊敬していた。
  • 信玄論では、「壮大な計画をもちながら一生攻伐に明け暮れ、いたずらに駆け回って疲れ果て、常に戦争に勝ってもついにその功績を収めえなかったのは、他の理由でもない、よく講和できなかった過ちの為である。」
  • 常に上中下の3案をもって進言していた。下策は取るに非ず。安政の大獄や長州征討、幕府挽回策などでは、まさに下策の事が行われた。
  • 「農民出身の自分が改革しようとしても、武士は誰も従わない。」と勝静の元締要請を断り続けた。改革に対する反対は多く、命を狙われたり狂歌にされたりして一人で登城していた。元締や参与になって改革に成功したものの、減給したので自分の家計は前より貧しくなったが、これからは百姓の仲間入りをしたのでどうにかなるだろうと詠んでいる。
  • 高梁市の神社には松平春嶽篆額の方谷山田先生碑などがある。
  • 母には「良い子だから必ず立派になって父の志を達成しなさい。けれども高く抜きん出て勢いに乗れば、大失敗して苦しまない者は少ない。だから終わりが良ければ私の願いは十分だよ。」と言われていた。母が危篤と聞いて丸川松陰の塾から駆け付けると「学半ばにして帰るとはなにごとですか」と叱り帰らせ、その10日後に亡くなった。
  • 師の丸川松隠からは孫の様に可愛がられ、一緒に伊勢参りなどもした。師と同じく他藩には仕えなかった。松隠の息子に教えてもらった。
  • 岩倉具視木戸孝允から新政府に出仕するよう要請があったが断った。桂小五郎とは印材を贈ったり、人を紹介したいという手紙が残っていたり、彼の墓碑の文は川田剛と三島中州が書いている。小田県県令が倉敷の豪商を連れて大久保利通大臣に会いに行った時、山田方谷に会った事がないと言うと「小田県の政治をするのに山田翁に会わずしてどうする。」と怒られ、急遽面会して物産公社の案を貰い大久保に見せたところ、その場で読んで許可が出たので驚いた。
  • 豊臣秀吉の対外戦争を褒める様な事も書いている。朝鮮と争わず、兵力を分散して海岸から攻めれば辮髪などしなくても済み、13州は占領できたのにとか。対外政策の意見として「現在、清国では太平天国の乱が起こり第二次アヘン戦争で首都の北京は英国と仏蘭西により陥落し、国の形をなしていない。清国の回復を図るべく出兵すべきである。征伐という事ではないので、殺伐をよしとせず反乱を鎮圧し、中国を唐の時代のような古代の風俗に戻すため、治安維持を目的とした政令を発布するならば、人心は帰服すると思われる。1年もすれば中国に英雄が現れ、全土を平定するだろうから、その後、兵を帰国させればよい。」
  • 町中の喧騒や役人生活が合わず、40代前から田舎で農業をしながら詩を作りたいと考えていたが、藩主の要請で藩政や幕政に関わり中々許されなかった。最終的には母の出身地近くに移住した。
  • 1500首以上の詩を残しているが、酒や鮎、筍にちなんだ詩を多く残している。軽く一升は飲んだが、それでも仕事をしていた。
  • 1860年代には「我が藩は洋学も早くから取り入れたはずだが、いつの間にか遅れている。」と語っている。内政は儒学だけで十分とする方谷と、これからは洋学とする佐久間象山との毎日の論争を佐藤一斎は止めずに聞いていた。
  • 私塾を始めた頃は城下を本を持って歩いていると馬鹿にされるので、塾生が本を懐に隠して通ってきていた。
  • 失火により火事で家を失ったが前より立派な家が出来たので心配するなとか、新築して金がないが本や簪を売ればなんとかなるから、小さな借金を気にするなとか家計は苦しかった。
  • こんな老いぼれが藩政改革を成し遂げたとは誰も信じないであろうと詠んでいる。
  • 他藩に100石で仕えていた川田甕江を50石で引き抜いた。川田の師も招いている。
  • 寺島白鹿の息子も私塾に入門している。
  • 帆足万里に手紙を出しているが返事はなかったようだ。
  • 「家臣が忠告するのにそれを聞き入れないのは君主の罪。君主が忠告を聞き入れる用意があるのに、忠告しないのは家臣の罪。」と書いているように勝静の教育係だった頃、勝静が『徳宗論』を書いた時に「もしあなたが藩主になってこの論文と違う事をなされた時、この本を証拠に忠告するので頂きたい。」と申し出たら勝静も了解し頂いた。
  • 牛李論」の中で、李徳裕の党には立派な人が多いがもう一方の党にはつまらぬ者が多いと唐書に書いてあるが、君子と呼ばれるような立派な人でありながら、つまらぬ人物を受容できなければ君子として評価できないにもかかわらず、唐書には立派な人物が多いと書いてあるのは不可解だと。もし君子の心を持つならば自ら公正な政治を行い、服従しない者でも採用すべき力があるならば採用し、採用できぬ者にに対しても安心して生活できるようにし、然るべき地位を確保させれば、つまらぬ者も感激しすっかり恥じ入って屈服し、その心を改めて自分の役割を果たすようになると。
  • 文宗を挙げ、いかに優れた提言であっても、冷静な状況判断に基づき好機の到来を待って、じっと我慢することの重要性を強調して、知行合一の陽明学に慎重な判断力を要求している。
  • 臨終の際には、香を焚いて枕元に勝静から貰った短刀と銃と王陽明全集を置いていた。
  • 開国派であったが、幕府が朝廷に約束してしまった以上、攘夷を決行するべきだと考えていた。「もし外国が攻めてくるなら軍勢は約30万人で千艘位であろう。上陸させて皆殺しにして船を奪って諸藩に配れば、日本の弱点である船の問題を解決できる。」
  • 会津藩の秋月悌次郎によると「佐藤一斎に学び儒臣に登用され藩主を教授し、藩政改革に大いに貢献した。人情が厚く実務の才能があり、自分の心の内を態度に表さない。近国に稀な有用な人物であると聞いている。」「その人となり素朴で偉ぶらず一見田舎の老人のようであったが、藩主が時事について問うと弁舌さわやかで、その意見は物事の急所をついている。その中で一番感じたのは、布帛や米穀はもちろん茄子や胡瓜の時価まで挙げて意見を述べる。それにより方谷は実務に精通した偉人だという事を知った。」
  • 会津藩の南摩綱紀によると「山田方谷は百姓であったが、よく書物を読み儒者として登用され、遂には藩政を一身に任せられた。備中松山藩の百姓達は山田方谷の生祠を建てるほど心服している。非凡な人物で一升の酒を飲み、直ちに一升の飯を食べて、けろりとして繊細な仕事をこなしていく。決裁しなくてはいけない山の様な書類を前に急務の仕事中にもかかわらず、訪ねてきた客人にはまあ一杯と酒を注ぎ客の話に耳を傾ける。全く世事を忘れたように淡々として、すこぶる才力度量がある。」
  • 仙台藩玉虫左太夫によると「備中松山藩の改革は、山田方谷が一手に行ったものである。」
  • 春日潜庵に従学した村上作夫によると「先生は世の中を捨てても世の中を忘れず、世の中にいても世の塵にそまらなかった。その様な清らかでおだやかな老境は奥ゆかしいことだ。しかしながら先生の腹中には老いてもなお英傑豪傑の期は衰えず、折に触れて感激すると詩を朗吟しながら扼腕して慨嘆されることがあった。」「山田翁の磊落は快絶春風の如し。故に門下遊泳自由、ために人材輩出せり。春日潜庵の厳正は粛殺秋霜のごとし。故に門下進退窮屈、よって著名の弟子なし。」
  • 「当代で最も優れた人物は一体誰であろうか?」と議論した際、安井息軒は藤田東湖、塩谷宕陰は「私は山田方谷だと思う。彼は東湖の人物に更に学問を加えた人物である。」
  • 三宅雪嶺は「藤田東湖は総理大臣の器、佐久間象山は外務大臣の器、山田方谷は内務大臣の器で、大蔵大臣、農商務大臣、文部大臣もできる。」
  • 林靏梁は今世第一等の人物と評したといわれる。
  • 大原重徳は岩倉具視への報告書の中で「老中の板倉勝静はごく普通の人で、常識的な対話ができる。用人の山田安五郎は、きっとした人物のようで板倉勝静の意見は、何事もこの人の意見に基づくものではないか」と述べている。
  • 川田剛は「中江藤樹は道徳は身につけていたが事業の業績はなかった。熊沢蕃山は功績は素晴らしかったが、文章は出し惜しんで作品は少なかった。佐藤一斎は文章は素晴らしかったが、徳と功績は2人に及ばなかった。ところが方谷先生は三人の長所を取り、短所を補って別に一家の特色を気築いた。なんとめったに見られない珍しい大人物ではないだろうか。」
  • 藩政時代は多忙で三島中州が家塾で教えていた。塾規は立志、欣行、遊芸をもって実行すること。禁遏六条の規則として、自分の務めを怠らない、人を侮らず己は驕らない、起床就寝は規則正しく、頻繁に入退室しない、私飲私食をしない、私語を慎むこと。
  • 長瀬塾の学規は、1日、5日、15日、25日は休講。15歳以下の課業も随意休みとする。しかし起床及び就寝時間は平日のとおりとする。15歳以下の清書作詩はこの日に校閲する。帰省及び遠方に行く場合の他、ほかの宿に泊まる事は許さない。毎朝祖先父母を遥拝する事を遊学中第一の礼とする。秋となり燈下親しむ頃になれば読書をしなさい。冬の3カ月間も夜学の好時期である。清掃は15歳以下の者の務めであるが、16歳以上の者も力を合わせて寮の内外を常に清潔にしておく。傘や靴は最も整頓が必要である。
  • 小阪部塾では、論語と詩経を奇数日と偶数日に分けて、毎朝塾生に講義する。春秋左氏伝を隔日で塾生に輪読させる。日本外史史記資治通鑑韓非子荘子などを自習した後、質問を受ける。その他、経史伝習録の類は時に応じて講義する。校禁として、理由がなく座敷を離れること、就寝時以外に横になって寝ること、用もなく門外に出る事、金銭の貸し借りをすることなど16カ条を掲げ、守ることができないと思う塾生は自ら退寮を申し出る事が決められていた。
  • 閑谷学校では、陽明学を主とし朱子学を適宜とりいれること。文字、字句の注釈は清の時代の学術によること。歴史学は、日本史・東洋史・西洋史と順序良く学び特に政治制度を研究すること。初等教育の時から日本・東洋・西洋の順に地理と歴史を学ぶこと。漢文には最も力を入れること。実力に応じて毎日または毎月の課題を設けるが、読解を主として文章力を身につけること。
  • 有終館では3級まで進み優秀な者には公費で江戸に遊学でき、昌平黌への留学生は約20年間で13人いた。平素、四書五経の講義に当たって朱註によっていた。
  • 学校制より閑谷学校の再興に尽力した。講義に来た際には、熊沢蕃山旧住居に庵を作ってもらい過ごした。
  • 何館かに輿で出向いて講義した。晩年には体調を崩すことも多く負担を軽くする為に弟子が代わりに講義しましょうかと言うと、「私の教えを聞きたくて来ているから私が出ないと」と答えた。
  • 遊学する者に注意として「目的を達成したら速やかに帰ること。無駄に時間を過ごしている者も多いので気を付けなさい」
  • 遊学中、弟が窮乏を手紙で訴えたのに対し、学問にかける思いを「笑いものになろうが途中で死んでもかまわない。天下の力をもって動かそうとしても、私の志を動かすことはできない」と返している。
  • 大阪の商人も「次の元締めは並みの人にあらず」と評価していて、藩邸の再建費用を出している。


  • 「誠心より出ずれば敢えて多言を用いず」
  • 「友に求めて足らざれば天下に求む。天下に求めて足らざれば古人に求む」
  • 「自然の誠意より出でて財を積み国を富ませば王道なり。権謀術数を以て国を富ませば覇術なり」
  • 「法律が改めることが難しいのではない。法律を行うことが難しいのだ。法律を施行して人々がその法律の下で安心して暮らせるようにする事が最も難しいのだ」
  • 「決断は早くすること。遅れて良くなることはない」
  • 「大信を守らんと欲せば、小信を守るに遑なし」
  • 「義を明らかにして利を図らず」
  • 「政治にとって最も大切な事は、誠意を尽くして人を思いやる心を持って取り組むことであり、初めから華やかな業績をあげようなどと考えないことである」至誠惻怛。
  • 「文見るも、鋤もて行くも、一筋の、学びの道の、歩みなるらむ」
  • 「財は天下に広めて、天下万民の用をなすに非ざれば、真に財を生ずるに非ず」
  • 「国家を治るは、徳に非ざれば不可なり。才智の能く為す所に非ず」

年表[編集]

方谷筆
  • 文化2年(1805年)2月21日、 備中松山藩領西方村で山田五郎吉の長男として生まれる。
  • 4歳、1808年木山神社拝殿で揮毫。
  • 文化6年(1809年) 5歳 寺に預けられ新見藩丸川松隠(儒家)塾で朱子学を学ぶ。
  • 1810年、6歳。新見藩主の前で揮毫する。
  • 1818年文政元年14歳、8月に母(40歳)が亡くなる。継母(37歳)来る。
  • 15歳、1819年7月、父も亡くなる。頼山陽が来遊し、奥田楽山と交流。
  • 16歳、備中松山藩に戻り、家業の農業と油屋を継ぐ。遺書により遺産の三分の一を学費として相続する。
  • 17歳 1821年、新見藩士若原進と結婚。
  • 文政8年(1825年) 21歳 名声広まり藩主・板倉勝職(かつつね)から奨学金(二人扶持)をいただく。
  • 文政9年(1826年) 22歳 長女が生まれる。
  • 文政10年(1827年) 23歳 第1回京都遊学(春から歳末まで)で丸川松隠の学友の寺島白鹿に学ぶ。蘭渓禅師にを学ぶ。年末に家務の為帰藩。
  • 文政12年(1829年) 25歳 第2回京都遊学(3月から9月まで)で寺島白鹿に学ぶ。「天人の理を極め、性命の源に達し、大賢君子の境地にまでのぼる」と丸川松陰に手紙を書く。射をまなぶ。9月、遊学から戻り12月藩主から苗字帯刀を許され八人扶持を給わり、お家再興が叶う。藩校・有終館会頭(教授)に抜擢される。奥田楽山学頭。
  • 26歳、天保元年(1830年)3月、丸川松陰のお供をして伊勢参りに行く。京都で上皇巡行を見て奈良にも寄る。春日潜庵が陽明学を志す。6月、城下本丁に邸を賜る。12月、会頭を辞める。
  • 天保2年(1831年) 27歳 2月、西方に居る。城下本丁が火災にあう。松連寺で謹慎する。3月10日、謹慎を解かれる。有終館も火災にあい移築する。第3回京都遊学(7月から2年半)で寺島白鹿に学ぶ。
  • 28歳、1832年鈴木遺音の門に出入りする。

このとき、伝習録を読み陽明学に出会う。「伝習録抜粋序」を書く。帆足万里の門人と会い肄業余稿を読む。28歳の時、病で生死を彷徨い療養する。

  • 1833年12月、京都からそのまま江戸へ向かう。
  • 天保5年(1834年) 30歳 江戸遊学(1月から2年半)で丸川松隠の学友の佐藤一斎の門下に入る。同門の佐久間象山と出会い日々論争する。塾頭になる。藩主の帰国に伴い塾を去る際には、佐藤一斎から「尽己」の書を贈られた。大塩平八郎洗心洞箚記を送り、有終館学頭の奥田楽山らに読むように勧める。『理財論』『擬対策』を書く。
  • 天保7年(1836年) 32歳 9月、5年3カ月ぶりに帰藩。有終館学頭(学長)になり指導する。大小姓格に抜擢される。長女が亡くなる。
  • 天保9年(1838年) 34歳 家塾「牛麓舎」を開校して武士以外にも教える。進鴻渓、大石隼雄、寺島義一らが学ぶ。
  • 35歳、1839年、有終館が火事になり藩に前借して再建する。弟に後に養子となる長男の耕蔵が生まれる。
  • 1843年勝職に向けた上申書を書く。三島中洲、矢吹久次郎が従学。
  • 弘化元年(1844年) 40歳 世子の板倉勝静(かつきよ)入封する。勝静に有終館前学頭・奥田楽山と交互に講義する。
  • 弘化4年(1847年) 43歳 津山藩洋式砲術役・天野直人に砲術を学ぶ。また庭瀬藩火砲指南役・渡辺信義に火砲術を学ぶ。離婚。
  • 嘉永2年(1849年) 45歳 勝職が亡くなり勝静が藩主になる。松山藩の元締役 兼 吟味役元締を命ぜられ、藩政改革に取り組む。弟がなくなる。
  • 1850年、江戸より帰藩。勝静が藩士に改革を通達。大阪で貸主と会談。
  • 嘉永4年(1851年) 47歳 農兵制(農民による洋式銃隊)を創設。勝静が奏者番になる。継母が亡くなる。
  • 嘉永5年(1852年) 48歳 郡奉行に任命される。旧藩札を約8千両回収して、約11800両分を高梁川の河原で焼却し、新藩札を発行。貯倉を設置。撫育方、産物方を設置。
  • 1853年、大阪に赴き銀主と会談。勝静がペリーの要請文を家臣に閲覧。旱魃が起こるが貯倉を開き、餓死者を出さなかった。
  • 安政元年(1854年) 50歳 元締 兼 藩執政となる。離婚。小雪が生まれる。
  • 1855年、津山藩士、植原六郎左衛門を招き玉島で水軍の艦上砲撃の演習を行う。10月、安政の大地震で江戸藩邸も被害を受け大阪商人から支援を受ける。東行して藩邸に入る。藩の砲術3派を統一。11月に帰国。
  • 安政3年(1856年) 52歳 年寄役助勤、郡奉行も引き続き兼務となる。39歳の緑と3度目の結婚。進が有終館学頭になる。5月、東行して藩邸に入る。
  • 安政4年(1857年) 53歳 松山藩の元締を辞任。後任は大石隼雄。この年、板倉勝静、幕府の寺社奉行となる。5月、江戸出府。7月、大阪の豪商の長田均之と会い、古今の紙幣の利害を討論。大阪城代土浦藩大久保要を訪ね論議。11月、来阪し翌月帰藩。
  • 1858年、久坂玄瑞が来て洋式訓練を見る。安政の大獄が始まる。
  • 1859年、勝静が奏者番兼寺社奉行を免ぜられる。長瀬に移住。河井継之助塩谷宕陰の紹介状を持って来る。翌年帰国の際には王陽明全集に忠告を書いて、4両で譲る。
  • 万延元年(1860年) 56歳 再び藩元締に再任される。桜田門外の変
  • 文久元年(1861年) 57歳 勝静が奏者番兼寺社奉行になる。
    • 2月、江戸で藩主の顧問となる。
    • 3月、愛宕山の下で吐血して倒れる。
    • 4月、顧問を辞任し帰国。
    • 5月、元締役辞任。
    • 湯原温泉湯治
  • 文久2年(1862年) 58歳 板倉勝静、老中となる。方谷は再び勝静の幕政顧問となるが、程なく辞任、準年寄役に転ず。徳川家茂に江戸城で謁見。9月、スクーネル型米国帆船快風丸」を買う。隠居を許され養子の耕蔵に家督を譲る。
  • 文久3年(1863年) 59歳 板倉勝静、上京。4月、京都における勝静の顧問に再任されるが、5月には辞任。
  • 元治元年(1864年) 60歳 板倉勝静、老中を罷免され長州征伐の先鋒を務め、方谷は留守の兵権を預かる。長瀬の対岸に草庵を構える。
  • 1865年勝静、再び老中になる。
  • 1866年備中騒動第二次長州征討が起こる。
  • 1867年、大政奉還の草案を起草[8]。許されて京都を去るにあたり、勝静から短刀を頂く。王政復古。勝静に意見を求められたので「上は尊王の為、下は安民のためという大乗的見地に立って事態を処理すべきで、万一兵端を旧幕府軍側から開いたならば、蛤御門の変で長州藩が皇居へ発砲したために朝敵となり、追討を受けた事例と必ず同様の事態を招くであろう」と答えた。昔夢会筆記によると、勝静は会津藩や桑名藩などの説得に一旦成功したが、情勢が一変し鳥羽・伏見の戦いが起こる。
  • 明治元年(1868年) 64歳 大政奉還ののち戊辰戦争起こる。勝静、慶喜らと共に大阪城を抜け出し、江戸から函館まで転戦する。藩主が不在の中、備中松山征討軍に無血開城し、領民を守る。 征討軍の謝罪文の草案の「大逆無道」に「この命に代えても受け入れられない」と激怒し、三島中洲達も抗議して最終的には「軽挙暴動」に代わる。
  • 明治2年(1869年) 65歳 長瀬の塾舎を増築し、子弟教育につとめる。高梁藩が再興。
  • 明治3年(1870年) 66歳 刑部に住居を移転。小阪部塾を開き、引き続き弟子教育につとめる。
  • 明治4年(1871年) 67歳 再興された閑谷学校(閑谷精舎)で、陽明学の講義をする。明親館の開校で大学を講義する。川田剛学校訪ねてくる。高梁県になる。
  • 1872年小雪が亡くなる。方谷庵を営む。三島中洲が高梁を去る。
  • 1873年矢野光儀小田県令に助言。閑谷学校で孟子養気章を講義する。知本館で大学を講義する。
  • 1874年温知館の開校に臨み論語を講義する。
  • 1875年、高梁で勝静と再会。
  • 明治10年(1877年) 73歳 閑谷精舎が休校。
    • 6月22日、小阪部の小阪塾にて死去。
    • 6月29日、西方村の墓地に葬られる。後に方谷園となる。
  • 明治43年(1910年
    • 中井に方谷園が開園。方谷園の題字は犬養毅、墓石の山田方谷の題字は板倉勝静。
    • 11月16日、正五位を追贈された[9]

主な門人[編集]

新見藩成羽藩足守藩岡田藩岡山藩津山藩鶴田藩三日月藩姫路藩福本藩赤穂藩龍野藩丹波亀山藩園部藩出石藩豊岡藩鳥取藩伊勢臼杵藩杵築藩森藩秋月豊前久保村京都名古屋水戸藩越前大野郡福山 他、各地から来ている。藩校の有終館時代を除き合計約378人。

参考文献[編集]

平成8年(1996年)に義孫である山田準編『山田方谷全集』が明徳出版社(全3巻)で復刊されている。同年には方谷の伝記として矢吹邦彦『炎の陽明学 山田方谷伝』(明徳出版社)・林田明大『財政の巨人 幕末の陽明学者・山田方谷』(三五館)が相次いで刊行されるなど、近年では明徳出版社を中心として方谷の伝記研究が多数刊行されている。2005年には生誕200年を記念し、山陽新聞社編集、南一平作画による漫画『山田方谷物語』(NCID BA73773587)が製作された。

  • 『方谷遺稿』(1890年、三島毅)
  • 方谷先生年譜(1902年、山田準)
  • 哲人山田方谷(1910年、三島復)
  • 山田方谷(1930年、伊吹岩五郎)
  • 山田準編『山田方谷全集』全3巻、1951年、新版・明徳出版社 1996年
  • 『山田方谷 三島中州』
  • 林田明大『財務の教科書、「財政の巨人」山田方谷の原動力』三五館、2006年
  • 宮原信『山田方谷の詩その全訳』1982年、明徳出版社
  • 『山田方谷の文』
  • 『哲人 山田方谷』
  • 山田方谷に学ぶ会『入門 山田方谷 至誠の人』『山田方谷の言葉』
  • 樋口公啓『山田方谷の思想と藩政改革』明徳出版社、2011年
  • 深澤賢治『陽明学のすすめⅢ 山田方谷「擬対策」』明徳出版社、2010年

山田方谷が登場する作品[編集]

漫画
  • 山田方谷物語
テレビ
平成17年(2005年12月27日放送の松竹日本テレビ制作による2時間半の年末大型時代劇。原作に関する情報は不明だが、大筋で小説『峠』の内容を踏襲している。
小説
  • 司馬遼太郎』(新潮社、1968年)のち文庫
  • 童門冬二 『誠は天の道なり 幕末の名補佐役・山田方谷の生涯』(講談社、1995年)。のち「山田方谷」学陽書房・人物文庫、2002年
  • 矢吹邦彦『炎の陽明学 山田方谷伝』明徳出版社、1996年
  • 野島透『山田方谷の夢』明徳出版社、2011年
  • 矢吹邦彦『ケインズに先駆けた日本人 山田方谷外伝』明徳出版社、1998年
  • 200億円を返した男 山田方谷
  • 西郷隆盛と山田方谷

DVD[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 借金10万両を10年で返済し、10万両の貯蓄を作った(『「民あっての国」道示す(磯田道史の古今をちこち・読売新聞2013年9月25日15面
  2. ^ 奈良勝司「明治維新と世界認識体系」(有志舎、2010年)163~170頁。
  3. ^ a b 閑谷学校資料館での展示内容 2015年5月に確認
  4. ^ 『「民あっての国」道示す(磯田道史の古今をちこち・読売新聞2013年9月25日15面
  5. ^ 倉田和四生『中島重と社会的基督教』(関西学院出版会)p.17-26
  6. ^ 『「民あっての国」道示す(磯田道史の古今をちこち・『読売新聞』2013年9月25日15面
  7. ^ 倉田和四生『福西志計子と順正女学校』(吉備人出版)p.48
  8. ^ 山田方谷記念館や矢吹家文書などによると
  9. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.27

関連項目[編集]

外部リンク[編集]