神戸事件

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神戸事件
三宮神社境内に展示された当時のものと同型の大砲
三宮神社境内に展示された当時のものと同型の大砲
場所 天皇旗 明治政府 神戸外国人居留地
標的 フランス人水兵, 欧米諸国公使
日付 1868年2月4日
原因 外国人が供割をした, 言葉が通じなかった
攻撃手段 無礼討, 銃撃戦
攻撃側人数 備前藩兵500人(800名)
武器 槍, 鉄砲
負傷者 少なくとも2名
関与者 滝善三郎, 備前藩兵
対処 アメリカ、イギリス、フランスの水兵・海兵が出撃。備前藩兵と銃撃戦。神戸を占拠。兵庫港に停泊する日本船舶の拿捕。
謝罪 第三砲長滝善三郎の切腹
備前藩家老日置帯刀は謹慎
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神戸事件(こうべじけん)は、慶応4年1月11日1868年2月4日)に神戸(現・神戸市三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、銃撃戦に発展し、居留地(現・旧居留地)予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件である。備前事件とも呼ばれる。明治政府初の外交問題となった。

この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展したが、その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎切腹する事で一応の解決を見た。

相前後して堺事件が発生し、共に外国人に切腹を深く印象付けることとなった。

事件の発端[編集]

慶応4年1月3日(1868年1月27日)、戊辰戦争が開戦、間も無く、徳川方の尼崎藩(現・兵庫県)を牽制するため、明治新政府は備前藩に摂津西宮(現・西宮市)の警備を命じた。備前藩では1月5日1月29日)までに2,000人の兵を出立させ、このうち家老・日置帯刀(へきたてわき)率いる500人(800人説もある)は大砲を伴って陸路を進んだ。この際、慶応3年12月7日(1868年1月1日)の兵庫開港(現・神戸港)に伴い、大名行列と外国人の衝突を避けるために徳川幕府によって作られた「徳川道」を通らず、西国街道を進んだことが事件の引き金の一つとなってしまう。

1月11日(2月4日)13時過ぎ、備前藩兵の隊列が神戸三宮神社近くに差しかかった時、付近の建物から出てきたフランス人水兵2人が行列を横切ろうとした[1]。これは日本側から見ると武家諸法度に定められた「供割」(ともわり)と呼ばれる非常に無礼な行為で、これを見た第3砲兵隊長・滝善三郎正信がを持って制止に入った。しかし、言葉が通じず、強引に隊列を横切ろうとする水兵に対し、滝が槍で突きかかり軽傷を負わせてしまった[2]

これに対していったん民家に退いた水兵数人が拳銃を取り出し、それを見た滝が「鉄砲、鉄砲」と叫んだのを発砲命令と受け取った藩兵が発砲、銃撃戦に発展した。この西国街道沿いにおける小競り合いが、隣接する居留地予定地を実況検分していた欧米諸国公使たちに銃口を向け、数度[3]一斉射撃を加えることに発展する。弾はほとんどあたらず頭上を飛び越して、居留地の反対側にある旧幕府の兵庫運上所(神戸税関)の屋上に翻る列国の国旗を穴だらけにした[4]。銃口を上に向けた威嚇射撃であったのか、殺意はあったが訓練不足により命中しなかったのかに関して欧米人の証言も一致していない[5]

事件の推移[編集]

三宮神社の史蹟碑。裏面に「昭和十年 神戸市」と文字が刻されている。史蹟名勝天然紀念物保存法に基づき設置されたものと推測される

自らも現場に居合わせたイギリス公使ハリー・パークス[6]は激怒し、折しも兵庫開港を祝って集結していた各国艦船に緊急事態を通達、アメリカ海兵隊、イギリスの警備隊、フランスの水兵が備前藩兵を居留地外に追撃し、生田川の河原で撃ち合いとなった[7]。備前側では、家老日置が藩兵隊に射撃中止・撤退を命令、お互いに死者も無く負傷者もほとんど無かった。

神戸に領事館を持つ列強諸国は、同日中に、居留地(外国人居留地)防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕した。この時点では、朝廷は諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言しておらず、伊藤俊輔(後の伊藤博文)が折衝に当たるも決裂するに至る。

1月15日2月8日)、急遽、開国和親を朝廷より宣言した上で明治新政府への政権移譲を表明、東久世通禧を代表として交渉を開始した。

諸外国側の要求は日本在留外国人の身柄の安全保証と当該事件の日本側責任者の厳重処罰、すなわち滝の処刑というものであった。この事件における外国人側被害に対して処罰が重すぎるのではないかとの声もあり、また、日本側としては滝の行為は、少なくとも「供割」への対処は武士として当然のものでもあったが[8]、列強の強い要求の前に抗うことが出来ず、伊藤や五代才助(後の五代友厚)を通じた伊達宗城の期限ギリギリまでの助命嘆願もフランスのレオン・ロッシュをはじめとする公使投票の前に否決される。

結局、2月2日2月24日)、備前藩は諸外国側の要求を受け入れ、2月9日3月2日)、永福寺において列強外交官列席のもとで滝を切腹させるのと同時に備前藩部隊を率いた日置について謹慎を課すということで、一応の決着を見たのである。

事件の意味[編集]

神戸事件は大政奉還を経て明治新政府政権となって初めての外交事件である。結果として諸国列強に押し切られる形で滝善三郎という1人の命を代償として問題を解決する形にはなったが、これ以降、明治政府が対外政策に当たる正当な政府であるということを諸外国に示した。また、朝廷がこのときまで唱えていた「攘夷」(外国を討ち払う)政策を「開国和親」へと一気に方針転換させた事件でもあった。ただし、この「開国和親」表明は外交団に対するものであり、新政府内にも未だ攘夷を支持する者もいることから、国内に対してはその事実を明確にはしなかった。国内に対する正式な表明は翌年5月28日1869年7月7日)に行われた新政府の上局会議における決定によるものである。

この問題の行方によっては薩英戦争同様の事態に進展する可能性もあり、さらに神戸が香港九龍上海の様に理不尽な植民地支配下に置かれる事態も起こり得たことから、滝善三郎の犠牲によって危機回避がなされたことは日本史の流れにおいても重大な出来事であった。

エピソード[編集]

錦旗紛失事件[編集]

この神戸事件の影響を受けて、1868年(慶応4年)1月14日に土佐藩士本山茂任が土佐藩へ運ぶ途中の「錦の御旗」をフランス兵に奪われるという前代未聞の錦旗紛失事件が起きている。(のち返還される)

脚注[編集]

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  1. ^ 事件の発端について諸説あることは、参考文献『検証 神戸事件』冒頭「誤り多い伝承」が、『兵庫県史』『兵庫県警察史』『神戸市史』『西宮市史』『岡山県史』を比較検討している。西国街道沿いで複数のトラブルがあり、そのうちどれを伝えたかで複数の説が生じたのであろう。
  2. ^ ドイツ公使ブラントは、事件翌日の5日までに、「その間にわれわれは、われわれを襲撃した備前の部隊に関する情報を収集したが、それによってこの部隊はすでに兵庫、神戸を通過する道すがら、行き交う外国人すべてに侮辱的な行動をとり、いろいろな外国人が威嚇されたなかで二人は槍で突かれて傷を負ったということが確認された。このことによって事件は一段と険悪な様相を呈することになったのである。」と回顧する。他の公使たちと情報共有化するなかで、西国街道沿いの複数の小競り合いの存在が確認できたものと思われる。参考文献『ドイツ公使の見た明治維新』136頁。ミットフォードもブラントのこの証言を自分の著書に翻訳掲載している。参考文献『英国外交官が見た幕末維新』122頁「第4章.内戦と備前事件」、(長岡祥三訳、講談社学術文庫、1998年)。
  3. ^ 参考文献『ドイツ公使の見た明治維新』134頁によると、一斉射撃は「六、七回」であった。
  4. ^ 黒色火薬を用いた当時の小銃の照準特性については、兵頭二十八著『有坂銃』(四谷ラウンド、1998年) 62~64頁、(光人社NF文庫、2009年)63~66頁を参照。福沢諭吉が翻訳した当時の射撃教範『雷銃操法』(慶應義塾編纂『福澤諭吉全集 第二巻』岩波書店、1959年)も参照。
  5. ^ 殺意のある射撃との主張は、ミットフォード (1915年) が最右翼である。Francis Ottiwell Adams (1875年) も、同じ趣旨を記す。一方、ドイツ公使ブラント (1901~1902年) は、「アメリカ軍艦の見習い水兵とほかに一人の外国人とが軽傷を負っただけであった。これは幸運だった。日本兵が銃をかなり上に向けて射撃したためである。彼らは税関の上に翻っていたアメリカ合衆国、イタリア、北ドイツ連邦のそれぞれの国旗を狙ったものらしく、少なくとも北ドイツ連邦の旗にはたくさんの弾痕があった」と述べ、威嚇射撃説に近い叙述を残している。一方、同じブラントは、新政府から出された瀧善三郎の助命嘆願に対する態度を協議した公使会議では、「たまたま神の恩寵によって死者が出なかったからといって、それが減刑の理由となるわけのものでは決してない。殺意は疑いもなくあったからである」との態度を示した。参考文献『英国外交官が見た幕末維新』、同 The History of Jpaan, Volume2、同『ドイツ公使の見た明治維新』134、142頁。
  6. ^ 萩原延壽著『遠い崖--アーネスト・サトウ日記抄 6 大政奉還』(朝日新聞社、1999年) 175~177頁の「パークスからスタンレー外相への報告、1868年2月13日付、および附属文書」に基づく叙述。ドイツ公使ブラントはつぎのように述べる。「私が、税関の建物を出て、それを囲む何の建造物もない砂地へ行ってみると、そこには多数の外国人が集まっていた。彼らは隊を組んで行進する日本の軍隊を見物しようと集まったものらしい。この広い砂地の北に接する街道を大坂に行軍して行く兵の数は数百人はいると見えた。われわれは約三百から四百歩ぐらい部隊から距離を置いていたが、しかし、ずっと近くに寄っていた外国人も多くいた。突然、部隊がこちらに向きを変えるのが見え、すぐそれに続けて一斉射撃が起こり、ピュウピュウと音を立てて弾丸が飛んできたが、ほとんどは我々の頭上を飛んで行った。最初、私は帝(ミカド)の軍隊と大君の軍隊が戦闘を始めたのだと思い、外国人居留地でこのようなことが起こることに対し、まさに憤慨しようとした矢先、二回目の一斉射撃が起こり、われわれと日本軍の間にいた外国人がどっと踵を返して逃げて来た。私は正確に事態を覚った。日本軍は見物の群衆に向かって発砲したのだ。群衆のなかにはハリー・パークス卿もいた」。参考文献『ドイツ公使の見た明治維新』133~134頁。
  7. ^ 参考文献『一外交官の見た明治維新』130~131頁。「生田川の河原」とは、現在のフラワーロードである。
  8. ^ 神戸事件が発生した当日、兵庫でアーネスト・サトウと面談した長州の片野十郎が、サトウの言葉を書き残している。「何分備前暴動、甚以不相済、元来行軍へ失礼致候にもせよ、仏蘭西マトロスの事に付、其者を如何様に致候とも、異論無之候得共、其跡にて各国留館へ銃撃致候段、何共不相心得、今般日本政府改革の趣に付ては、決て破約の国論に相成候故と推察致候との事」。すなわち、サトウは事件の前半・後半を区別し、「供割」については、フランスの水兵を「如何様に致候とも、異論無之」と譲歩。一方、「其跡にて各国留館へ銃撃致候段、何共不相心得」と、「留館への銃撃」を非難している。文字通り解釈すれば、サトウは、各国が臨時に領事館として使っていた幕府の旧運上所の建物に対する銃撃と表現していることになる。外国人たちを直接狙った加害射撃としての水平射撃ではなく、遠方の建物に照準を合わせた威嚇射撃であったとの説を補強する証言となろう。参考文献『近世日本国民史 67』250頁。
  9. ^ 『孤高の提督アルフレッド・マハン』谷光太郎著、白桃書房、1990年、57~59頁。
  10. ^ 水川秀海「高山紀齋の生涯(その1、神戸事件)」日本歯科医史学会会誌26-2、2005年9月

参考文献[編集]

日本側[編集]

  • 「神戸港二於テ備前藩士暴動発砲ノ際外国人二抑留セラレシ筑前藩蒼隼丸船及久留米藩晨風艦損失救助願一件」(外務省外交史料館所蔵、アジア歴史資料センターリファレンスコード B08090131500)
  • 『近世日本国民史 67 官軍・東軍交戦篇』徳富猪一郎著、時事通信社、1963年
  • 『黎明期の明治日本』岡義武著、未來社、1964年
  • 『増訂 明治維新の国際的環境』石井孝著、吉川弘文館、1966年
  • 「『神戸事件 瀧善三郎』に関する諸資料」瀧善成、日本古書通信431、1980年3月 筆者は瀧善三郎の孫、執筆当時、東邦音楽大学教授
  • 「維新外交の発進--明治元年の神戸事件をめぐって」内山正熊、法学研究(慶應義塾大学法学研究会)55-10、1982年
  • 『神戸事件--明治外交の出発点』内山正熊著、中公新書681、1983年
  • 『非命の譜』日向康著、毎日新聞社、1985年 (社会思想社、現代教養文庫1547、1994年)
  • 『NHK歴史への招待 第20巻 黒船来襲』日本放送出版協会、1989年
    • 「神戸事件の後始末」内山正熊
    • 「明治前期の弱体外交」内山正熊
    • 「開港前後の神戸」荒尾親成
    • 「事件後の備前藩士」板津謙六
  • 『検証 神戸事件』根本克夫著、創芸出版、1990年
  • 『維新外交秘録 神戸事件』矢野恒男著、フォーラム・A、2008年
  • 「慶応四年神戸事件の意味--備前藩と新政府」鈴木由子、日本歴史733、2009年6月

欧米側[編集]

  • 『外国新聞に見る日本 原文編1』『外国新聞に見る日本 本文編1』(毎日コミュニケーションズ、1989年)所収の当時の英字新聞記事。
    • 「ニュースの要約」1868年2月15日、ノース・チャイナ・ヘラルド(本文編1、426頁)
    • 「反乱の進展 横浜3月8日日曜日 (サンフランシスコ3月31日火曜日経由) 」1868年4月1日、ニューヨーク・タイムズ (同、436頁)
    • 「日本 不満な情勢 本社特派員記事 横浜1868年3月7日土曜日」1868年4月22日、ニューヨーク・タイムズ (同437頁) 
    • 「大君と天皇 (ミカド) との間の戦い 合衆国公使ファン・ファルケンバークからの興味ある手紙 デイリー・ウィスコンシン4月25日付より」1868年5月1日、ニューヨーク・タイムズ (同440頁)
  • The History of Japan, Volume2 1865-1871, Francis Ottiwell Adams (原著はロンドンにて1875刊、Edition Synapse社 Japan in English シリーズ31巻、2004年) ISBN 4-86166-002-5
  • 『ヤング・ジャパン 2 横浜と江戸』J・R・ブラック著、ねず・まさし他訳、平凡社東洋文庫166、1970年 (原著1880年)
  • 『ドイツ公使の見た明治維新』M・V・ブラント著、原潔・長岡敦訳、新人物往来社、1987年 (原著1901~1902年)
  • The Story of Old Japan, Joseph H. Longford, Chapman and Hall, Ltd. London, 1910
  • 『英国外交官の見た幕末維新--リーズデイル卿回想録』A.B.ミットフォード著、長岡祥三訳、新人物往来社、1985年 (講談社学術文庫1349、1998年、原著1915年)
  • 『一外交官の見た明治維新 下』アーネスト・サトウ著、坂田精一訳、岩波文庫 青425-2、1960年 (原著1921年)

関連項目[編集]