相楽総三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
魁塚(相楽塚、長野県下諏訪町)

相楽 総三(さがら そうぞう、天保10年(1839年) - 慶応4年3月3日1868年3月26日))は、江戸時代末期(幕末)の尊皇攘夷志士江戸出身。赤報隊隊長。

生涯[編集]

天保10年(1839年)、下総相馬郡(現茨城県取手市)の郷士で大富豪の小島兵馬(父)・やす(母)の四男として江戸・赤坂に生まれる[注釈 1]。本名は小島四郎左衛門将満。

四男であったが、兄らが養子に出たり事故死したりしたため、小島家の家督を継ぐことになった。国学兵学を学び、若くして私塾を開いて多くの門人を抱えていたが、文久元年(1861年)、23歳の時、上野国信濃国羽州秋田藩などを遊歴し、尊王攘夷活動に身を投じて多くの同志を得た[1]。文久3年(1863年)、小島家から5000両もの資金を与えられて関東方面の各義勇軍の組織化に尽力し、桃井可堂慷慨組の赤城山挙兵を援助したが失敗、元治元年(1864年)の天狗党の乱にも参戦したが、これにも失敗して江戸に帰った[1]

慶応2年(1866年)、28歳にして京都に上り志士活動を続けた際、西郷隆盛大久保利通らと交流を持つようになり、慶応3年(1867年)、西郷の命を受けて、江戸近辺の倒幕運動に加わった[1]

慶応3年(1867年)10月、討幕の密勅が薩摩藩と長州藩に下されたが、大政奉還が実現したことによりそれは取消された。あくまで武力倒幕を目指す西郷隆盛は、倒幕の大義名分を失い、幕府を挑発して開戦に導こうとした。西郷の指示により、益満休之助伊牟田尚平、そして相楽が中心となって、江戸の薩摩藩邸を拠点とし、同志を募って関東の擾乱を企てた[2]。相楽らは江戸で放火や、掠奪・暴行などを繰り返して幕府を挑発した。その行動の指針となったお定め書きにあった攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人、志士の活動の妨げになる商人と幕府役人、唐物を扱う商人、金蔵をもつ富商」の四種に及んだ。加えて、出流山挙兵を始めとする3つの騒擾を起こしたが、いずれも渋谷和四郎らが率いる幕府の軍勢に鎮圧された[3]。なお、相楽たちの軍資金は豪商を襲って得たものであった。

相楽たちの挙兵は目論見どおり旧幕府方を刺激し、庄内藩と旧幕府軍による江戸薩摩藩邸の焼討事件に発展した。相楽を始めとする28-29名は辛くも藩邸を脱出し、品川沖に停泊する薩摩藩の運搬船翔凰丸に乗って紀伊国に逃れた[4]。焼き討ちは鳥羽・伏見の戦いのきっかけとなった。水原二郎らから焼き討ちの報告を受けた西郷は、相楽たちの功を称賛したという[5]

江戸を脱出した相楽たちは、慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争が勃発すると、近江の金剛輪寺で赤報隊を結成し、赤報隊一番隊は東海道先鋒総督府の指揮下に入り、桑名への進軍を指令された[6]。しかし相楽は、東山道鎮撫総督府への所属替えを希望し、2月上旬には薩摩藩兵の付属になるよう指示を受けていたが、ここでも相楽は独断で東山道に進んで「御一新」と「旧幕府領の当年分、前年未納分の年貢半減」を布告している[6]。年貢半減の布告は朝廷の了解を得ていたが、のちに撤回されている[6]

相楽は指示に従わず独立行動を続行し、碓氷峠を目標に進軍する。相楽たち赤報隊の度重なる独立行動や独断専行を危惧した新政府は赤報隊に帰還を命じたが、相楽たちは命令に従わなかった。これにより、相楽たち赤報隊は官軍の名を利用して沿道から勝手に金穀を徴収し、略奪行為を行う「偽官軍」と見なされることになる[6]。東山道軍は、赤報隊捕縛命令を信州諸藩に通達し、かねてより赤報隊の振る舞いに反感を抱いていた小諸藩など近隣諸藩が連合を組んで赤報隊を攻撃した。このとき相楽は、今まで無視してきた東山道総督府からの召喚にようやく応じて隊を留守にしていた[6]。小諸藩から赤報隊による勝手な金策や、暴行行為を通報されたことにより、出頭した相楽は信濃国下諏訪宿で捕縛される(相楽総三・赤報隊史料集)[6]

同年3月、相楽を含む赤報隊幹部8人は、下諏訪で処刑された。相楽は享年30。妻の照はこれを聞き、息子の河次郎を総三の姉に託し、総三の後を追って自殺した[1]。後に総三の首級は地元出身の国学者で総三とも親交があった飯田武郷の手によって盗み出され、秘かに葬られた。

明治3年(1870年)、下諏訪に相楽塚(魁塚)が建立された。長い間、偽官軍の汚名を受けていたが、孫の木村亀太郎の努力により名誉が回復された。昭和3年(1928年)に正五位が贈られ、翌昭和4年(1929年)、靖国神社に合祀された。

青山霊園立山墓地に墓所がある。

演じた俳優[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

その他[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ 父の小島兵馬は下総相馬郡の豪農で、旗本への金貸しで資産家となり、郷士身分を得た人物。江戸に出て、赤坂に豪壮な屋敷を構えた。総三はこの屋敷で生まれた。

出典[編集]

  1. ^ a b c d 『ビジュアル幕末1000人』「相楽総三」(2009)p.135
  2. ^ 長谷川、p.77
  3. ^ 長谷川、p.197
  4. ^ 長谷川、p.317
  5. ^ 長谷川、p.379
  6. ^ a b c d e f 『ビジュアル幕末維新 「日本の夜明け」を目指した激動の時代を追う!!』pp.76-77

参考文献[編集]

  • 『ビジュアル幕末1000人』歴史スペシャル編集部、世界文化社、2009年12月。ISBN 978-4-418-09234-5
  • 『ビジュアル幕末維新 「日本の夜明け」を目指した激動の時代を追う!!』 Gakken
  • 長谷川伸『相楽総三とその同志』講談社学術文庫、2015年2月10日。ISBN 978-4-06-292280-7

関連書籍[編集]