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白虎隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
白虎隊像(福島県会津若松市

白虎隊(びゃっこたい)は、会津藩戊辰戦争勃発後に断行した軍制改革において、数え16・17歳(嘉永6・5年生まれ)の藩士子弟で組織した総勢300余名の年少部隊。

年齢別に編成された4部隊の一つで、他は朱雀隊青龍隊玄武隊と称した(名称は中国神話の四神に由来)。各部隊は身分によって士中隊・寄合組隊・足軽隊の3級に分けられ、旧幕府陸軍の指導者のもとでフランス式調練を受けた。白虎隊は各級に一番・二番隊を配する計6中隊で構成され、士中隊・寄合組隊は会津戦争に実戦投入された。

特に白虎二番士中隊は飯盛山での自刃(十九士の墓)で知られるが、白虎隊士の8割以上は戦死・自刃を免れ明治維新後を生きた[1]

会津藩の軍制改革

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慶応4年3月10日(1868年4月2日)、会津藩は老少藩士が混在する部隊編成で敗れた鳥羽・伏見の実戦経験から、西洋式に倣った軍制改革を断行する。藩士を年齢別の4部隊に編成し、主力実戦部隊の朱雀隊(18歳から35歳)と国境守備を主とする青龍隊(36歳から49歳)の他、補充戦力として玄武隊(50歳以上)と白虎隊(当初は15歳から17歳)を組織した[2][3]。この他、砲兵隊・築城兵・遊撃隊を加え、正規軍の総勢は約3,000人とされる。さらに農町兵として、各郡から20歳から40歳の農兵2,700人を募集した他、猟師隊・修験隊・力士隊なども組織され、会津軍の全兵力は7,000人を超えたという[3]

白虎隊を含む正規軍の調練については、旧幕府主戦派に教官派遣を依頼し、旧幕府陸軍の歩兵差図役畠山五郎七郎、砲兵差図役布施七郎、騎兵差図役梅津金弥らが招聘され、さらに脱走した旧幕府伝習隊の歩兵第二大隊長沼間慎次郎(守一)らも会津に入り、若松城三の丸の練兵場でフランス式調練が行われた[4]

白虎隊の編制

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白虎隊は他の部隊と同様、藩士子弟を身分(紐制・襟制)によって士中隊(花色紐以上)・寄合組隊(茶紐以下浅黄紐以上)・足軽隊(襟制)の3級に分け、各級が一番・二番隊を有する計6中隊で構成された[5]。各中隊は年長の士官である中隊頭1名・小隊頭2名・半隊頭2名に指揮され、隊士中から5名ほどが嚮導(リーダー役)に任命された[6]。ただし、足軽隊は銃器が交付されず、隊として参戦することはなかったとされる[6]

  • 一番士中隊(中隊頭:千葉権助→春日和泉→日向内記
  • 二番士中隊(中隊頭:山崎主計→日向内記)
  • 一番寄合組隊(中隊頭:原早太→望月辰太郎)
  • 二番寄合組隊(中隊頭:一瀬加寿馬→太田小兵衛)
  • 一番足軽隊(中隊頭:小野田雄之助→和田市兵衛)
  • 二番足軽隊(中隊頭:唐木助之進→後任不明)

軍制改革当初に予定された白虎隊士数は、一中隊50人で士中・寄合組・足軽の各級100人ずつ、総勢300人とされる[3]。その総数に関しては、正式な名簿類が残されておらず[7]、戦局によって各中隊の再編・補充がなされたため、正確な人数は不明である(戦史・解説書等の数字はすべて推計)。

なお、軍制改革当初、白虎隊は数え15歳の子弟(嘉永7年生まれ)も召集対象とされたが、銃携帯での馳駆が困難などの理由で除隊させられた。しかし、当時の成人年齢に達した15歳子弟の除外は武士の本分に反するという当人及び父兄の反発を受け、14・15歳を対象に幼少組(士中・寄合組各一隊)が組織されたという[5]。あるいは、15歳であっても年齢を偽るか、特に許可を得て白虎隊に従軍した例も散見される(飯沼貞吉伊東悌次郎江南哲夫など)。

ちなみに当時15歳だった山川健次郎の場合は、当初二番士中隊に属し、召集年齢変更で除隊させられたが、籠城戦に移行して再び一番士中隊に編入され、一度だけ薙刀を持って実戦に参加したという[8]

白虎隊の軍装

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白虎隊の服装は、統一された制服はなかったが、羅紗服は「鉄砲玉に当っても毒が身体に通らない」という言い伝えから、多くの隊士が「羅紗の筒袖服を纒ひ、洋袴を穿いたものもあるが、多くは義経草鞋ばき」で、「韮山笠を冠った者もあるが、邪魔になるといふので多くは無帽」、髪は「大たぶさに結び上げ、中には白元結を用ゐた者もあるが、多くは紫の元結で」結んだ。また、筒袖服の左肩には「赤の星形の下に墨で『會』の字を記した」肩章を縫い付けたとされる。

装備は、日本刀を肩から紐で垂げて脇差を腰に帯び、フランス製のヤーゲル銃英語版を携行し、弾薬盒を付けた革帯を装着したという。[9]

白虎隊各隊の出動

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白虎寄合組隊

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白虎隊で先陣を切ったのは寄合組隊で、会津藩も援軍を送った北越戦争終盤の慶応4年7月後半、越後口守備の支援のため、一番・二番寄合組隊はそれぞれ赤谷・石間に派遣され、新潟港奪取と長岡城の再攻略、新発田藩の鎮撫に成功した新政府軍を迎え撃った。

越後口守備軍は宝珠山及び小松・石間の関門(阿賀野川下流域)を最前線の一つとしていたが、8月10日(旧暦、以下同)宝珠山を新政府軍に奪取される。白虎二番寄合組隊は諸隊と共に対岸の佐取を守備していたが、攻撃を受け川を渡り石間に退却。翌11日には新政府軍が大挙して襲来し、小松の前方と山上からの攻撃で小松を破られ多数が死傷、石間を拠点に数日間砲撃戦を続けたが、以後津川方面に撤退戦を余儀なくされた。[10]

一方、白虎一番寄合組隊が守備した北方の赤谷(越後街道出口)でも、8月14・15日の攻防戦で両軍ともに多数の死傷者を出し、まもなく東の石筵口(勝軍山・母成峠)での会津軍の敗報がもたらされると、越後口守備軍は津川へ退却、阿賀川両岸からの砲撃戦の末、さらに只見川を渡り船渡まで撤退した。只見川を挟んだ砲撃戦のさなか、9月初旬には若松城下に侵入した新政府軍の一部が背後から船渡へ挟撃、越後口守備軍は防ぎきれず、主力は北東の熊倉(喜多方方面)に退却[11]、一番寄合組隊も小隊ごとに喜多方と西南の柳津方面に分散したという[12]

9月15日、越後口守備軍は残存諸隊とともに城外の敵に打撃を与えるため、若松城下南方の新政府軍を総攻撃(一ノ堰の戦)、結果は会津側の勝利とされるが、多くの将校が死傷し、白虎一番寄合組隊中隊頭原早太も重傷を負い自刃、代わって望月辰太郎が中隊頭となった[12][13]

9月17日、新政府軍は一ノ堰の会津軍に反撃、白虎寄合組隊も弾雨のなか前線で応戦したが、弾薬が尽きた会津諸隊は陸続と退却、一部は若松城に向かい、白虎寄合組隊は南方の鎮守ノ森に下った。しかし、敵の追撃で鎮守ノ森の拠点も瓦解し、さらに雨屋方面に退却、砲兵隊他の諸隊は雨屋の薬師堂を占拠して新政府軍を食い止めた(雨屋の戦)。その際、望月は機転を利かせ、白虎寄合組隊を薬師堂近傍の山腹に登らせ、上からの一斉射撃を指示、敵の退却に一役買った。[12][14]

9月18日、白虎寄合組隊は前日の戦功を賞せられ、隊士は近習一ノ寄合席に昇進し、白虎二番士中隊に改称、望月はその中隊頭となった[15]

白虎士中隊

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7月までに二本松城を攻略した新政府軍は、8月21日、会津軍の守備が最も手薄だった石筵口(勝軍山・母成峠)を突破。勝軍山での敗報が若松城にもたらされると、軍議で佐川官兵衛部隊(白虎・奇勝・回天・敢死・誠忠の諸隊)を戸ノロ方面、萱野権兵衛部隊(桑名藩兵200名余及び敗兵)を大寺方面、西郷頼母部隊(水戸兵150名)を冬坂(背あぶり山)方面の担当とした[16]。主力の精兵は国境守備で転戦しており、中央の兵力は僅少だった。

翌22日早朝、新政府軍が大挙して猪苗代城を攻撃、多勢に無勢で城代は城に火を放ち若松に退いた。猪苗代侵入の報が達すると、午後に前藩主松平容保は自ら出馬し、中隊頭日向内記率いる白虎二番士中隊の護衛の下、佐川官兵衛を先駆として大目付・軍事奉行らを率い滝沢本陣に向かい、桑名藩主松平定敬も藩兵を率いて着陣した[17]

戸ノ口原からの援軍要請により、白虎二番士中隊は諸隊と共に出陣、秋雨の中、戸ノ口原の要地に露営して夜を徹して胸壁を築き、奇勝隊は敵の侵入を阻むため若松へ至る関門たる十六橋の破壊を試みたが、堅牢さ故に石材撤去のみに終わった。

23日(1868年10月8日)早朝、土佐兵を先鋒とする新政府軍は十六橋に板を架け陸続と侵入、会津軍は戸ノ口原で応戦するも数と装備と練度で勝る敵に押され、多くの将兵が死傷、退却戦を余儀なくされた。白虎二番士中隊は日向ら将校との連絡を失ったため小隊・半隊毎に判断を異にし、嚮導役の篠田儀三郎が指揮した小隊は独自に銃撃で参戦した[17](一説では池上新太郎・伊東悌次郎・津田捨蔵の3名は戸ノ口原の戦いで戦死したとされる[18])。

敵の猛攻に篠田小隊はやむなく若松への退却を決め、追撃を避けながら戸ノロ堰洞穴を抜けて弁財天祠(現在の厳島神社)から飯盛山に上ると、すでに新政府軍は若松城下に至り、砲声地を震わせ火煙が天を掩っていた。篠田小隊は殉国に決し、自刃したとされる。このうち飯沼貞吉は息のあるうちに藩士印出新蔵の妻に発見され、一命をとりとめた[19]

また、半隊頭原田克吉率いる7名は、篠田らと同じく飯盛山で自刃しようとしたところ、通りかかった敢死隊士に諌められて思い止まり、無事入城したという[19]

一方、中隊頭春日和泉率いる白虎一番士中隊は、23日に入城して北出丸追手門を守備していたが、容保の滝沢本陣からの帰城に際して護衛を命じられ、城下に迎え出たところで容保一行と遭遇、新政府軍が追撃していたため、その防御のため死傷者を出しながら城下を転戦、本隊を二分されつつも各隊は辛うじて入城を果たしたという[20]

白虎士中両隊はその後、帰城した隊士をまとめて白虎一番士中隊として合併され、日向内記が中隊頭を務めた[20]

二番士中隊「十九士の墓」

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白虎隊墓(『日本写真帖』1912年より)

飯盛山のいわゆる「白虎隊十九士の墓」は、1890年明治23年)11月3日に追悼碑とともに建立された。墓碑に銘記されている二番士中隊士19名の氏名と年齢は以下の通り(向かって右端からイロハ順)。なお、江戸定府だった津田を除く18名は藩校日新館に在籍していた(特に井深は大学校及第者)[21]

井深茂太郎(16歳)・石山虎之助(17歳)・伊藤俊彦(17歳)・石田和助(16歳)・池上新太郎(16歳)・伊東悌次郎(17歳)・林八十治(16歳)・西川勝太郎(16歳)・津川喜代美(16歳)・津田捨蔵(17歳)・永瀬雄治(16歳)・野村駒四郎(17歳)・簗瀬勝三郎(17歳)・簗瀬武治(16歳)・間瀬源七郎(17歳)・有賀織之助(16歳)・安達藤三郎(17歳)・篠田儀三郎英語版(17歳)・鈴木源吉(17歳)

墓所設置の経緯

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会津戦争後、滝沢村(牛ヶ墓村)肝煎の吉田伊惣次は飯盛山に白虎隊士の遺体が風雨に晒されているのを見かねて、その数体を村人と共に妙国寺と飯盛山に納棺埋葬していたところ、新政府軍の黒羽藩兵に見咎められ捕縛されてしまう。しかし、会津藩士の命令ではなく自発的行為と判明したことで放免された。戦後の若松取締に任じられた会津藩士町野主水は一連の事情を聞き、新政府軍参謀と遺体埋葬について重ねて交渉し、正式に許可を得る。町野らは埋葬費を調達して吉田らに改めて散在する白虎隊士の遺体を収容させ、また先に埋葬した遺体も掘り返し、飯盛山に定めた墓所にまとめて埋葬したという。[22]

なお、山川健次郎が紹介している河原勝治の証言によれば、河原は飯盛山で兄の遺体を捜索した際、2箇所で「十四五の屍」を発見しており、従って白虎隊士らは「同一の場所に於て団座して自刃」したのではなく、死場所は2箇所以上と思われ、「今日白虎隊自刃の所とするは五六人集合して自刃」した場所であり、牛ヶ墓村肝煎の吉田は各所の遺体を収容して埋葬したが、なかには遺族が遺体を菩提所に移し、飯盛山には遺髪等の遺物を埋葬した例も含まれているという[23]

その後、十七回忌前年の1883年(明治16年)に「十六士」の墓域造成と合葬墓碑の建立、1890年(明治23年)に参道整備と墓域拡張及び「十九士」の墓碑と山川浩撰文「白虎隊碑」の建立が行われ、さらに東武鉄道社長の根津嘉一郎の尽力のもと[24]1925年大正14年)末より数年かけて茶店撤去、高台への墓所移設、墓道新設等の大規模な墳墓拡張工事(一部は地元市民の勤労奉仕)を経て、今日に至る[25][26][27]

著名な親族

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  • 井深茂太郎の一族は、後にソニーの創業者井深大を輩出している。石山虎之助は井深家からの養子であり、井深大の祖父・井深基(もとい)は虎之助の実兄。
  • 長崎及び福島県知事、衆議院議員を務めた日下義雄は石田和助の実兄。
  • 丹羽五郎は永瀬勇治、有賀織之助の従兄弟。

飯盛山自刃者数の変遷

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宮崎十三八『私の城下町 会津若松』によれば[28]1935年昭和10年)9月、若松市(現・会津若松市)教育部会は国定教科書に掲載されている白虎隊「十六士」を飯盛山の墓碑通り「十九士」に訂正することを要求すべきと決し、食い違いの理由を明らかにするため郷土史家5名に調査を依頼、その結果以下のような事実が判明した。

唯一生き残った飯沼貞吉の証言により、飯盛山で自刃したのは上記19名のうち15名(石山虎之助・池上新太郎・伊東悌次郎・津田捨蔵の4名を除く)とされ、当初は、飯盛山自刃者といえば15名に飯沼を含む「十六士」の名が自刃図や文部省唱歌や国史教科書で取り上げられ一般に流布された(関場忠武「会津十六士伝」など参照)。

しかし、1884年(明治17年)の十七回忌供養に際し、飯沼を自刃者に含むことは不適当としてこれを除き、新たに自刃したことが判明した石山虎之助が加えられ、改めて「十六士」とされたが、これは公的に発表されたわけではなく、関係者間で断定したものであったという。

その後、1889年(明治22年)に自刃者の顕彰碑建立のための資金募集が開始されるとともに、殉難者について改めて調査が進められた。その結果、二番士中隊出陣者37名中17名が帰城していたことから、残る20名が飯盛山に向かったものとされ、飯沼を除き、石山を含む16名に新たに池上・伊東・津田の3名も後に自刃したものと推定された。以上から、建碑は正式に19基と決定され、1890年(明治23年)11月の墓碑建立に至ったという。

1936年(昭和11年)3月、若松市は非公式に文部省に対し「十九士」に改訂するよう陳情、数年後、国史の国定教科書をはじめすべての白虎隊自刃十六士が「十九士」に改められた。

自刃の理由に関して

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1928年(昭和3年)に刊行された平石弁蔵『会津戊辰戦争 増補 白虎隊娘子軍高齢者之健闘』によって、白虎隊は若松城周辺から上がる煙を見て落城したと誤認し、自決を選んだという認識が一般に広まった。しかし、2008年に飯沼一浩(飯沼貞吉の孫)宅で発見された[29]、貞吉が生前に伝え残した手記『白虎隊顛末略記』(1902年:貞吉からの聞き書きに本人が朱を入れたもの)には、若松城へ戻るべきか、敵軍に斬り込むか「甲怒り、乙罵り、激論以てこれ争う」というやり取りがあったことが記されていた。会津藩士の子孫や研究家からなる「白虎隊の会」は2011年、落城誤認説は誤りであるとする説明文を飯盛山に設置した[1]。入城か突撃か、いずれを主張した隊士も、敵に捕まり生き恥を晒すよりはと、武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃を決行したとされる[30]

隊士のその後

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  • 飯沼貞吉は貞雄と改名し、電信技士として明治・大正を生き抜き、1931年昭和6年)に77歳で没した。飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年で、そこから白虎隊二番士中隊の悲劇が現在に伝えられた。ちなみに飯沼は電信技士をしていた時期に日清戦争が勃発し、陸軍歩兵大尉として出征して漢陽に渡った際、ピストルの携帯を言いつけられたが、「自分は白虎隊として死んだ身である」と断ったという逸話が残っている。飯沼の遺骨の一部は、遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬された(ただし、他の隊士の墓から距離を置いて建立)。
  • 二番士中隊士であった酒井峰治北海道に移住し、米穀業を営んだ。没後の1990年平成2年)、孫の酒井峯男が仏壇の中から『戊辰戦争実歴談』を発見し、戸ノ口原の戦闘や会津城攻防戦などを詳述した貴重な史料となっている[1]
  • 二番士中隊半隊頭だった佐藤駒之進は、地元会津では戦死と思われていたが、存命で北海道に移住したことが高度経済成長期に判明した[1]
  • 西南戦争には、元白虎隊士を含め多くの会津藩出身者が征討軍に従軍した。

墓所、慰霊・顕彰碑ほか

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会津藩殉難烈婦碑
ローマ市寄贈の碑
  • 白虎隊供養碑 - 観福寺(青森県三戸郡三戸町)に所在。明治4年1月13日(1871年3月3日)に旧会津藩士子弟の大竹秀蔵が建立。飯沼・石山を含む17名の白虎隊士の名を刻字。
  • 会津飯盛山白虎隊士墳墓域[31] - 飯盛山に所在。2019年平成31年)2月、文化財保護法に基づき登録記念物(遺跡関係)に指定。白虎隊十九士の墓の他、白虎隊士31名の墓碑群(士中3名・寄合組22名・足軽6名、1900年設置)、会津戦争時に自刃又は戦死した婦女子200余名の霊を弔うために建立された会津藩殉難烈婦の碑1928年設置)、白虎隊所属の有無に関係なく、領内や京都・新潟・栃木などで戦死した14–17歳の少年武士62名の慰霊碑2001年設置)がある。
  • ローマ市寄贈の碑 - 1928年(昭和3年)にイタリアの首相ムッソリーニが寄贈したという古代ローマ時代のポンペイから発掘された宮殿の石柱による記念碑。建立の発端は、ムッソリーニと親交があった下位春吉が若松市市長に対し「ムッソリーニは白虎隊の事績に感激し、記念碑を送ることを計画している」と述べたことによる。実際には当該計画は存在せず、下位による作り話だったが、この話題が新聞に掲載され、幣原喜重郎や山川健次郎ら名士からの賛助も得られたため、実際に記念碑を建てる必要が生じた。そこで外務省よりムッソリーニへ打診し、建立に至ったとされる[32]。なお、この記念碑建立に際しては建設会が組織され、高松宮宣仁親王が総裁、近衛文麿が会長、田中義一が名誉会長、徳川頼貞大倉喜七郎が理事を務めた[33]
  • フォン・エッツドルフ氏寄贈の碑 - 1935年(昭和10年)に駐日ドイツ大使館書記官ハッソー・フォン・エッツドルフが飯盛山を訪問して白虎隊の少年たちの心情に感銘を受け、後日個人的に寄贈した記念碑。なお、イタリアとドイツの記念碑については、第二次世界大戦後にアメリカ進駐軍の命令で碑文が削除され、ドイツの記念碑は撤去・破壊も命じられたが当時の墓守が保管して破壊は免れた。ドイツの記念碑は1953年(昭和28年)に再設置され、1955年(昭和30年)に当初のものとは異なる碑文が刻まれた。[34]
  • 北海道久遠郡せたな町には、自刃した有賀織之助、永瀬雄治の従兄弟である丹羽五郎が開拓した丹羽(村)があり、そこの玉川神社には白虎隊遥拝所がある[1]
  • 会津戦争で戦った元長州藩の城下町、山口県萩市唐樋町の火除け地蔵堂には、額入りの石版画「白虎隊自刃図」が設置されている。この石版画は1883年(明治16年)に横浜の玄々堂が出版(原画は洋画家渡辺文三郎による)したものであることが判明しているが、いつ誰が設置したかは不明。[35][36]
  • 観光施設として復元されている「日新館」は、白虎隊士を輩出した藩校として、その歴史を現代に伝えている[37]。また会津若松出身の弁護士早川喜代次は1956年、私財を投じて「白虎隊記念館」を飯盛山に建てた[1][38]

記事・評伝・戦史(明治から昭和戦前)

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  • 『官許新聞天理可楽怖』第3号、明治2年4月(白虎隊報道の初出)[39]
  • 『明治新聞』第6号、明治2年5月「会津藩少年にて戰死井びに自殺せし人の姓名」[39]
  • 相澤富蔵『軍人文鑑』厚生堂、1888年「会津藩白虎隊十六士死節ノ記」
  • 二瓶由民『絵入 白虎隊勇士列伝』斎藤八四郎、1890年
  • 二瓶由民『白虎隊勇士伝』二瓶由民、1891年
  • 中村謙『白虎隊事蹟』河井源蔵、1894年
  • 佐瀬一郎編『飯盛山案内 白虎隊十九士列伝』萬翠堂、1908年
  • 冨田治作編『会津白虎隊十九士銘々伝』富田常松、1911年
  • 江南哲夫「別働白虎隊名誉の軍麾」『朝鮮公論』1913年5月号所収
  • 高木盛之輔述・斎藤肆郎著『会津籠城記中護衛隊』斎藤肆郎、1916年
  • 平石弁蔵『会津戊辰戦争』兵林館、1917年
  • 永岡清治『旧夢 会津白虎隊』永岡清治、1926年
  • 宗川虎次著・山川健次郎補修『補修会津白虎隊十九士伝』会津弔霊義会、1926年(山川作成の付録「白虎隊名簿」収録[40]
  • 井上一次『会津鶴ケ城の血戦』会津弔霊義会、1927年
  • 山川健次郎編『校訂 戊辰殉難名簿』飯沼関彌、1927年
  • 太政官編『復古記』第12–14冊(東京帝国大学蔵版)内外書籍、1930年 
  • 富田広重「白虎隊の真相(生存者飯沼翁追懷談)」(『東北の秘史逸話 第二輯』史譚研究会、1930年所収)
  • 山川健次郎監修『会津戊辰戦史』会津戊辰戦史編纂会編刊、1933年
  • 河北新報社編刊『河北年鑑』1936年、480-482頁「白虎隊の組織」飯沼の白虎隊想出話より
  • 佐瀬剛編『戊辰殉難名簿』戊辰殉難者七十年祭典、1937年

関連作品

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小説・戯曲・詩文

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  • 成島柳北「観会津十六士自尽図引」1871年(『柳北詩鈔』巻3、博文館、1894年)
  • 関場忠武「会津十六士伝」(佐田白茅編『明治詩文 第六集』大来社、1877年)
  • 佐原盛純「白虎隊詩」1884年・17回忌の作(二瓶由民『絵入 白虎隊勇士列伝』掲載)
  • 馬嶋杏雨「観会津白虎隊自刃之図有感」(竹内隆信編『纂評 新体詩選』春陽堂、1886年)
  • 二橋散士「霹靂一聲」松成伊三郎、1889年
  • 河尻宝岑『会津戦争夢日誌』春陽堂、1895年(歌舞伎台本)
  • 大江小波編・橋本周延画『白虎隊』博文館(日本お伽噺12)1897年
  • 莫越生『桜花男児』尚武館、1901年
  • 村井弦斎・福良竹亭『絵入通俗 西郷隆盛詳伝 第三編』春陽堂、1903年
  • 指月庵『白虎隊士 間瀬源七郎伝』甲斐山書店、1904年
  • 岡本綺堂『維新前後』今古堂、1908年(前半:奇兵隊、後半:白虎隊の戯曲)
  • 高橋淡水『壮絶悲絶 白虎隊』磯部甲陽堂、1909年
  • 凝香園『白虎隊』博多成象堂(武士道文庫13)1912年
  • 橘国敏『白虎隊』修文館(少年文庫6)1913年
  • 河野紫光『白虎隊』久保田書店(ポケットお伽文庫)1914年
  • 大島隆吉「白虎隊」『英雄史劇 鉄火血煙』越新社、1915年
  • 平井晩村『白虎隊』国民書院(歴史小説文庫1)1917年
  • 宮崎猛矩『白虎隊異聞 雲井竜雄』中村書店、1926年
  • 安部直『幕末物語』ヨウネン社(課外読本学級文庫)1926年
  • 清見陸郞「壮烈哀話 白虎隊」博文館『少年少女譚海』1926年5月号
  • 川名芳郎『白虎隊』金蘭社(幕末維新勤王志士物語叢書1)1927年
  • 三島霜川『維新哀史 彰義隊と白虎隊』金の星社(日本歴史実伝物語叢書6)1927年
  • 遠藤早泉『白虎隊』イデア書院(児童図書館叢書38)1928年
  • 高橋勇『忠烈赫々 白虎隊』岡村書店、1928年
  • 高木英一郎『少年輝く白虎隊』大同館書店、1931年
  • 邑井貞吉「白虎隊」『評判講談全集 第4巻』大日本雄弁会講談社編刊、1931年
  • 筑波四郞「白虎隊」『少年少女教育講談全集 第6巻』大日本雄弁会講談社編刊、1931年
  • 菊池寛「白虎隊血戦記」オール読物1934年11月号
  • 野村胡堂『戊辰戦役』改造社(維新歴史小説全集第10巻)1935年
  • 浜本浩「白虎隊戦記」雑誌「改造」初掲(『江藤新平』興風館、1941年収録)
  • 笹本寅『会津士魂』博文館、1941年(春陽堂文庫、1944年)
  • 鈴木善太郎『白虎隊』梁塵社、1942年
  • 梁取三義『少年武士道』六合書院、1943年
  • 梁取三義『身不知士道』六合書院、1943年(白虎隊聞書)
  • 神崎清『少年白虎隊』学習社(学習社文庫)、1943年
  • 中村孝也『国史の華4 菊の巻(現代)』三学書房、1944年
  • 佐藤民宝『白虎隊』時代社、1944年
  • 大池唯雄『命のかぎり 第一部』実業之日本社、1944年(少女の友連載)
  • 神崎清『会津籠城』国民社、1945年
  • 田宮虎彦「会藩白虎隊」文藝春秋1951年4月号
  • 田宮虎彦「悲運の城」オール読物1951年5月号
  • 山口弥一郎『白虎隊物語』岩磐郷土研究会、1953年
  • 中島利行『壮烈白虎隊』鶴書房、1955年
  • 佐藤民宝『明治前夜』彩光社、1956年
  • 野田開作『幕末風雲録』偕成社(実録時代小説35)1957年
  • 日本児童文芸家協会『幕末維新 白虎隊ものがたり』ポプラ社(たのしい歴史童話10)1957年
  • 立野信之「会津白虎隊」小説新潮1959年2月号 
  • 立野信之『明治大帝6 東北戦争の巻』毎日新聞社、1959年
  • 永岡慶之助「悲愁少年剣士 子守り白虎隊」小説倶楽部1960年8月号、桃園書房
  • 藤田清雄『鶴ヶ城を陥すな 戊辰戦犯の悲歌 凌霜隊始末記』謙光社、1962年
  • 永岡慶之助「日本の名城シリーズ鶴ヶ城の巻 會津白虎隊」小説倶楽部1965年1月号
  • 柴田錬三郎「会津白虎隊」オール讀物1967年1月号初掲(『柴錬立川文庫 日本男子物語』文藝春秋、1968年収録)
  • 大塚雅春「会津白虎隊悲抄(歴史風土記10)」潮1968年12月号、潮出版社
  • 大池唯雄『炎の時代 明治戊辰の人びと』河北新報社、1970年
  • 豊田武・豊田芳子『たのしいお話 日本の歴史9(幕末・明治時代)』集英社、1972年
  • 杉本苑子「ドキュメント 白虎隊無残」文藝春秋1973年2月号初掲(『江戸を生きる』中央公論社、1976年収録)
  • 永岡慶之助『会津戦争始末記』新人物往来社、1973年
  • 永岡慶之助『斗南藩子弟記 会津落城以後』新人物往来社、1973年(文春文庫、1986年)
  • 霜川遠志『ならぬことはならぬ 少年白虎隊』さ・え・ら書房(日本史の目23)1974年
  • 片平幸三『歴史物語 燃える白虎隊』歴史春秋社、1976年
  • 相良俊輔『少年会津藩士秘話』国土社(ノンフィクション全集6)1975年
  • 永岡慶之助『散華・会津藩の怨念 証言=明治維新』ビッグフォー出版、1977年
  • 綱淵謙錠『戊辰落日』上下巻、文藝春秋、1978年(文春文庫、1984年)
  • 島村利正「会津晩秋」新潮1980年1月号(『霧のなかの声』新潮社、1982年収録)
  • 早乙女貢「あゝ白虎隊 若き血の悲話」小説宝石1987年2月号、光文社(『明治の兄妹』新人物往来社、1990年収録)
  • 早乙女貢『会津士魂12 白虎隊の巻』 新人物往来社、1987年
  • 星亮一『続会津藩燃ゆ ああ白虎隊 燎原に死す』教育書籍、1986年(角川文庫、1987年)
  • 宮崎十三八『絵物語 少年白虎隊 戊辰戦争に散った少年たちの物語』歴史春秋出版、1987年(作画:菊地幸樹)
  • 星亮一『白虎隊という名の青春』教育書籍、1987年
  • 和泉竜一『小説 白虎隊』県南民報社、1988年
  • 津村節子『流星雨』岩波書店、1990年(文春文庫、1993年)
  • 山崎巌『五稜郭へ六万両』新潮社、1991年
  • 志茂田景樹『大逆説!戊辰戦争 下』光文社(カッパ・ノベルス)1992年
  • 中村彰彦『その名は町野主水』新人物往来社、1993年(角川文庫、1997年)
  • 中村彰彦『修理さま 雪は』新潮社、1995年(中公文庫、2005年)
  • 中條厚『少年白虎隊』学陽書房(人物文庫)1998年
  • 井上志摩夫「無惨白虎隊」(『井上志摩夫傑作時代小説集第4巻 巷説天保六花撰』双葉社、1998年所収)
  • ジェームス三木『へその曲げ方—西郷頼母会津藩始末』学研パブリッシング、2012年
  • 高見沢功『白虎隊・青春群像 白雲の空に浮かべる』歴史春秋社 、2018年
  • 植松三十里『ひとり白虎—会津から長州へ』集英社集英社文庫)2018年
  • 飯沼一元『白虎隊士飯沼貞吉の回生』ブイツーソリューション、2019年
  • 鳴海風『鬼女』早川書房、2022年
  • 柴山ゆきこ『白虎隊異聞 サヨナラ僕らの小さな世界』デザインエッグ、2024–25年

音楽

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琵琶歌

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  • 白虎隊(作詞:逵邑玉蘭〈容吉〉、1902年)『琵琶歌 巻之二』青木嵩山堂、1906年所収
  • 白虎隊(作詞:小田錦蛙)

唱歌

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歌謡曲

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オペラ

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演劇

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  • 市村座:歌舞伎『白虎隊』1901年
  • 川上音二郎一座・松竹座『維新前後』1908年(脚本:岡本綺堂)
  • 宝塚歌劇団花組『白虎隊』1922年(脚本:池田畑雄
  • 新協劇団『白虎隊饅頭』1935年(脚本:巖谷槇一
  • 京都南座『白虎隊異聞・鶴ケ城』1938年(脚本:郷田惠、演出:食満南北)
  • 松竹少女歌劇:史劇『白虎隊』1939年(脚本:安東英男)
  • 劇団東童『会津日新館』1944年(脚本:大林清、演出:宮津博)
  • 宝塚歌劇団雪組『若獅子よ立髪を振れ』1974年(脚本・演出:植田紳爾)
  • 東宝『遥かなり山河-白虎隊異聞』1987年(脚本:杉山義法、演出:瀬木宏康・佐藤浩史)
  • 演劇集団野口企画『白虎隊異聞「鶴ケ城」』1987年(脚本:野口すみえ、演出:野崎元晴)
  • アップフロントワークス『平成レボリューション〜バックトゥザ・白虎隊』2007年(脚本:金津泰輔、演出:宇治川まさなり)
  • DHE@stageプロデュース『白虎隊 ザ・アイドル』2010年(脚本・演出:岡本貴也
  • 劇団バッコスの祭『白虎隊風雲録 コダマ!』2012年(脚本・演出:森山智仁)
  • 神保町花月『キラリ☆白虎隊』2015–16年(脚本:冨田雄大、演出:白坂英晃・小林七緒)
  • 東映・テレビ朝日他『武士白虎〜もののふ白き虎』 2015年(脚本・演出:西田大輔
  • Yプロジェクト『白虎隊〜獅子たちの什の掟』2018年(脚本:小円、演出:鼓太郎)
  • 男劇団 青山表参道X 旗揚げ公演『SHIRO TORA ~beyond the time~』2018年(脚本:亀田真二郎、演出:伊藤マサミ)
  • 演劇ユニット感謝の日々を『どうか、白き雷よ』2024年(脚本:田島聖也、演出:澤田洋栄)
  • 松竹『夢見る白虎隊』2024年(脚本:渡辺雄介、演出:福田転球

映画

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漫画

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ドラマ

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情報番組

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ドラマCD

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ゲーム

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関連事物

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脚注

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  1. ^ a b c d e f 【時を訪ねて 1868】白虎隊士、北へ(福島県会津若松市)少年らの義「忠君」に利用『北海道新聞』日曜朝刊別刷り2019年12月1日1-2面
  2. ^ 『会津戊辰戦史』492-494頁。
  3. ^ a b c 『会津若松史 第5巻』133-134頁。
  4. ^ 『会津戊辰戦史』496頁。
  5. ^ a b 『校訂 戊辰殉難名簿』5-6頁。
  6. ^ a b 山川健次郎「補修会津白虎隊十九士伝附録」『補修会津白虎隊十九士伝』31頁。
  7. ^ 山川健次郎「白虎隊名簿」『男爵山川先生遺稿』175頁。
  8. ^ 『男爵山川先生遺稿』56頁。
  9. ^ 河北新報社編刊『河北年鑑』1936年より「白虎隊の組織」。
  10. ^ 『会津戊辰戦史』472-474頁。
  11. ^ 『会津戊辰戦史』452頁。
  12. ^ a b c 江南哲夫「別働白虎隊名誉の軍麾」より。
  13. ^ 『会津戊辰戦史』604-606頁。
  14. ^ 『会津戊辰戦史』607-608頁。
  15. ^ 『会津戊辰戦史』610頁。
  16. ^ 『会津戊辰戦史』518-519頁。
  17. ^ a b 『会津戊辰戦史』521頁。
  18. ^ 二瓶由民『絵入 白虎隊勇士列伝』1890年、同『白虎隊勇士伝』1891年。
  19. ^ a b 『会津戊辰戦史』521-522頁。
  20. ^ a b 山川健次郎「補修会津白虎隊十九士伝附録」『補修会津白虎隊十九士伝』32-34頁。
  21. ^ 『補修会津白虎隊十九士伝』補修者序及び本文参照
  22. ^ 『会津戊辰戦史』665-666頁。
  23. ^ 山川健次郎「補修会津白虎隊十九士伝附録」『補修会津白虎隊十九士伝』32頁。
  24. ^ 『男爵山川先生伝』444-445頁。
  25. ^ 『男爵山川先生遺稿』179頁。
  26. ^ 森岡清美・今井昭彦「国事殉難戦没者、とくに反政府軍戦死者の慰霊実態」
  27. ^ 石田明夫「会津歴史観光ガイドNo.819:山川健次郎氏と飯盛山整備」会津歴史観光ガイド協会、2017年
  28. ^ 宮崎十三八『私の城下町 会津若松』106-107頁「続飯盛山南麓(白虎隊)」。
  29. ^ 飯沼一元『白虎隊士飯沼貞吉の回生』まえがき参照。
  30. ^ みやぎ会津会 みやぎ会津会特別顧問飯沼一宇氏(飯沼貞吉の直孫より)2020年7月12日閲覧
  31. ^ 会津若松市「会津若松市歴史的風致維持向上計画」第2章-4 飯盛山と白虎隊をはじめとする先人慰霊にみる歴史的風致
  32. ^ 福家崇洋『日本ファシズム論争 大戦前夜の思想家たち』河出書房新社、2012年、46‐52頁。
  33. ^ 『男爵山川先生伝』446-447頁
  34. ^ 九頭見和夫「『ドイツ記念碑』と日新館の教育」
  35. ^ 飯沼一元『白虎隊士飯沼貞吉の回生』第4章中の「忠臣義士」参照。
  36. ^ 福島)戊辰戦争150年 会津に思いを寄せる「旧敵」朝日新聞デジタル(2018年1月25日)2020年11月15日閲覧
  37. ^ 会津藩・白虎隊の学び舎 > 白虎隊について 會津藩校 日新館(2020年11月15日閲覧)
  38. ^ 白虎隊記念館(2020年11月15日閲覧)
  39. ^ a b 神崎清『少年白虎隊』学習社、1943年「白虎隊の本」参照。
  40. ^ 山川健次郎『男爵山川先生遺稿』故山川男爵記念会、1937年にも収録
  41. ^ ドラマCD「彼岸獅子の入城」(追加情報あり)”. 萌えの桜. 2014年10月8日閲覧。
  42. ^ 白河市HP「『ビャッコイ』とは?」2025年11月5日閲覧。

参照文献

[編集]
  • 江南哲夫「別働白虎隊名誉の軍麾」『朝鮮公論』1913年5月号所収。
  • 宗川虎次著・山川健次郎補修『補修会津白虎隊十九士伝』会津弔霊義会、1926年
  • 山川健次郎編『校訂 戊辰殉難名簿』飯沼関彌、1927年
  • 会津戊辰戦史編纂会編刊『会津戊辰戦史』1933年
  • 河北新報社編刊『河北年鑑』1936年、480-482頁「白虎隊の組織」飯沼の白虎隊想出話より
  • 山川健次郎『男爵山川先生遺稿』故山川男爵記念会、1937年
  • 花見朔巳編『男爵山川先生伝』故男爵山川先生記念会、1939年
  • 会津若松史出版委員会編『会津若松史 第5巻』会津若松市、1966年
  • 宮崎十三八『私の城下町 会津若松』国書刊行会、1985年
  • 飯沼一元『白虎隊士飯沼貞吉の回生』ブイツーソリューション、2019年(電子書籍版)
  • 森岡清美・今井昭彦「国事殉難戦没者、とくに反政府軍戦死者の慰霊実態(調査報告)」『成城文藝』成城大学文芸学部、1982年(通号102)、1-37頁。
  • 九頭見和夫「『ドイツ記念碑』と日新館の教育:会津の中のドイツ (PDF) 」『福島大学教育実践研究紀要』13号、1988年、25-35頁。

関連文献

[編集]
  • 今井昭彦「会津少年白虎隊士の殉難とその埋葬」『常民文化』24号、成城大学大学院、2001年、 74-84頁。
  • 渡部昌二「白虎隊とファシズム:福島にやってきたヒトラー青年団(ユーゲント)」『歴史地理教育』687号、歴史教育者協議会、2005年、82-89頁。
  • 田中悟「死者の記憶と『非業さ』:白虎隊・佐川官兵衛をめぐって」『政治経済史学』490号、政治経済史学会、2007年、1-26頁。
  • 川延安直「初期白虎隊自刃図について」『福島県立博物館紀要』22号 、2008年、55-84頁。
  • 川延安直「明治時代前期の白虎隊自刃図について:渡辺文三郎原画石版画『白虎隊自刃図』を中心に」『福島県立博物館紀要』24号、2010年、51-62頁。

関連項目

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外部リンク

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