江戸薩摩藩邸の焼討事件

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江戸薩摩藩邸の焼討事件(えどさつまはんていのやきうちじけん)は、薩摩藩江戸市中取締の庄内藩屯所を襲撃した為、幕末慶応3年12月25日1868年1月19日)の江戸の三田にある薩摩藩の江戸藩邸が江戸市中取締の庄内藩新徴組らによって襲撃され、砲火により焼失した事件のことである。この事件からの一連の流れが戊辰戦争のきっかけとなった。

経緯[編集]

この時期、前将軍徳川慶喜をはじめとする幕府の幹部は小御所会議により大坂城に詰めており、江戸には市中取締の藩兵のみが警護にあたっていた。京では朝廷が幕府に見切りをつけて慶応3年10月13日そして14日には討幕の密勅が薩摩藩と長州藩に下された。13日に密勅を賜った薩摩はすぐに行動を開始する。相楽総三西郷隆盛の意を受けて活動を開始し、三田の薩摩藩邸を根拠地として意思を同じくする倒幕尊皇攘夷論者の浪士を全国から多数招き入れた。彼らは薩摩藩士伊牟田尚平益満休之助に指導を受け、放火や、掠奪・暴行などを繰り返して幕府を挑発した。その行動の指針となったお定め書きにあった攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人、志士の活動の妨げになる商人と幕府役人、唐物を扱う商人、金蔵をもつ富商」の四種に及んだ。旧幕府も前橋藩佐倉藩壬生藩庄内藩に「盗賊その他、怪しき風体の者は見掛け次第、必ず召し捕り申すべし。賊が逆らいて、その手に余れば討ち果たすも苦しからず」と厳重に市中の取締りを命じたが、武装集団に対しては十分な取締りとならなかった。庄内藩は旧幕府が上洛のため編成し、その後警護に当たっていた新徴組を借り受け、薩摩藩邸を見張らせた。

拡大する騒乱[編集]

討幕の密勅の直後の慶応3年10月14日に大政奉還が行われ、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、討幕の密勅は事実上、取り消された。討幕のための挙兵の中止も江戸の薩摩藩邸に伝わったが、討幕挙兵の噂は瞬く間に広まっていて、薩摩藩邸ではその火のついた志士を抑えることはできずにいた。騒乱行為はますます拡大していき、慶応3年11月末(1867年12月末)には竹内啓(本名・小川節斎)を首魁とする十数名の集団が下野出流山満願寺の千手院に拠って檄文を発し、さらに150名をも越える一団となって行軍を開始。同年12月11日(1868年1月5日)から数日間、栃木宿幸来橋付近や岩船山関東取締出役渋谷鷲郎率いる旧幕府方の諸藩兵と交戦し、鎮圧された。敗れた竹内は中田宿で捕らえられ、処刑された[1]。その他数名が脱走し、薩摩藩邸に逃げ込んだ。同年11月25日には上田修理(本名・長尾真太郎)ら十数名の集団によって甲府城攻略が計画されるが、事前に八王子千人同心に露見し、撃退された。その際の襲撃者たちもやはり薩摩藩邸に逃げ込んだ。同年の12月15日(1868年1月9日)には鯉淵四郎(本名・坂田三四郎)を首魁とする三十数人の集団が相模荻野山中藩大久保教義の陣を襲撃し、薩摩藩邸へ戻ったが、こちらは死者1名、負傷者2名で比較的損害は小さかった。12月20日(1868年1月14日)の夜には鉄砲などで武装した50名が御用盗のため同藩邸の裏門から外に出たところ、かねてより見張っていた新徴組に追撃され、賊徒は散り散りとなって薩摩藩邸へと逃れた。賊徒側も反撃に及び、12月22日の深夜、新徴組が屯所としていた赤羽根橋の美濃屋に30人あまりの賊徒が鉄砲を撃ち込んで逃走、薩摩藩邸に逃げ込んだ。翌12月23日には春日神社前にある庄内藩の屯所へ鉄砲が撃ち込まれ、使用人1名が死亡した。

討ち入りの決断[編集]

これらの状況下で幕臣達は「続出する騒乱の黒幕は薩摩藩」との疑いを強くし、将軍の留守を守る淀藩主の老中稲葉正邦はついに武力行使も辞さない強硬手段を決意する。12月24日(1868年1月18日)、庄内藩江戸邸の留守役松平親懐(権十郎)に「薩摩藩邸に賊徒の引渡しを求めた上で、従わなければ討ち入って召し捕らえよ」との命を下す。これに対し松平は「薩摩側が素直に引き渡すとは思えず、討ち入りとなることは必至だが、庄内藩は先日銃撃の被害を受けており、この状況下で討ち入れば私怨私闘の謗りを受けてしまう。その為、他藩との共同で事に当たらせて欲しい」と願い、受け入れられた。これにより庄内藩に加え、上山藩鯖江藩岩槻藩の三藩と、庄内藩の支藩である出羽松山藩が参加。戦闘指揮は庄内藩監軍の石原倉右衛門が執る事になった。 討ち入りに際し、薩摩屋敷の戦力は浪士200名馬16頭と内定の情報があり、これに対し24日中に庄内藩500人上山藩300人鯖江藩100人岩槻藩50人の浪士に加え大砲鉄砲槍などが庄内藩の西丸下伊賀屋敷に集合、夜食をとってから赤羽根橋に集結、25日の討ち入りに備えた。 12月25日未明、これらの藩は薩摩藩邸を包囲。ただ、薩摩側が窮鼠状態となる事を危惧し、庄内藩が受け持つ北門と西門のうち西門付近は意図的に包囲を緩めた。

焼き討ち実行[編集]

まずは交渉役の庄内藩士・安倍藤蔵が薩摩藩邸を単身で訪問。藩邸の留守役の篠崎彦十郎を呼び、賊徒の浪士を武装を解除した上で一人残らず引き渡すよう通告したが、その場で篠崎は即時引き渡しを拒否した。「引き渡されはせんでしょう。では、これにて御免」と言った安倍を藩邸の外に送り出した篠崎は、外の様子を探るために藩邸のくぐり戸を出たが、そこには庄内藩兵が待ち受けていた。安倍が「もはや手切れでござる」と呼びかけ、それを機に幕府方は討ち入りを決行。篠崎は庄内藩兵に槍で突き殺された。包囲する庄内藩兵たちも砲撃を始め、同時に西門を除く三方から薩摩藩邸に討ち入りを開始した。

迎え撃つ薩摩藩邸や薩摩藩お抱え浪士も応射するなどして奮戦するが、多勢に無勢であり戦闘開始から3時間後、旧幕府側の砲撃や浪士らの放火によって薩摩藩邸はいたるところで延焼し、もはや踏みとどまれる状況ではなかった。当初より脱出を指示されていた浪士達は、火災に紛れて藩邸を飛び出し、二十数名が一組となって逃走を開始。相楽総三、伊牟田尚平らを始めとする数組が幕府方の包囲網を抜き、浜川鮫州へと向けて走り続け、道筋の民家に放火するなど追跡を錯乱しつつ品川へ。目指すは品川に停泊する薩摩藩の運搬船翔鳳丸であったが、焼き討ちと同時に翔鳳丸は旧幕府の軍艦回天丸の接近を受け、沖合いへと逃げ出した後であった。浪士たちは漁師らから小船を奪うと、沖合いへと船を出し、何とか翔鳳丸に乗り込もうとした。この時、150余名の浪士らが沖合いを目指していたが、翔鳳丸は再びの回天接近により錨を揚げて江戸からの撤退を決断。かろうじて先に乗り込んだ相楽ら28名を収容し、残りは置き去りにして紀州へと向け出航した。残された者は羽田方面と船を向けたが、上陸後に捕縛された。益満休之助も捕らえられた。

この焼き討ちによる死者は、薩摩藩邸使用人や浪士が64人、旧幕府側では上山藩が9人、庄内藩2人の計11人であった。また、捕縛された浪士たちは112人におよんだと記録されている。

影響[編集]

事件の詳細が大坂城の徳川家の幹部の元へ伝わったのは12月28日(1868年1月22日)、対薩強硬派として知られる大目付滝川具挙勘定奉行小野広胖によって伝えられた。老中板倉勝静と前将軍徳川慶喜は沸きあがる薩摩討つべしとの声を抑えることができず、薩摩藩の目論見どおり旧幕府は討薩への意思を固める。その様子として、復古記において「阪城にて甚だ敷く上様へ相迫り候者は、滝川播磨、塚原但馬、小野内膳正にて之れあるべしと申すこと[2]」との松平春嶽の証言が残されている。 当事者である新徴組はそこまで大事とは考えていなかった様で、新徴組の山口三郎が討ち入り3日後に勝海舟を訪ねてきた際には「恐らく戦になるだろう」と語り、また安倍藤蔵は「今後のんびりやりましょう」と述べ、この時点で大規模な戊辰戦争が想定されていたわけではない。

旧幕府は朝廷へと討薩を上表し、慶応4年1月(1868年2月)、軍を編成して京都に向けて進軍を開始した。この京都の薩摩兵への攻撃は、その後戊辰戦争へと繋がっていく。

脚注[編集]

  1. ^ 日向野徳久 著「岩舟町の歴史」
  2. ^ 「復古記II 八六五」

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]