青松葉事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
名古屋城内に立つ「青松葉事件之遺跡」碑

青松葉事件(あおまつばじけん)は、慶応4年(1868年1月20日から25日にかけて尾張藩で発生した佐幕派の弾圧事件。それまで京都大政奉還後の政治的処理を行っていた14代藩主徳川慶勝が「姦徒誅鋤」の勅命を受けて同月20日に帰国した直後に弾圧命令が出された。対象者は重臣から一般藩士にまで及び、斬首14名、処罰20名にのぼった。勅命が下った背景については諸説ある。

発生までの経緯[編集]

御三家である尾張徳川家紀州徳川家水戸徳川家には、御附家老というものが存在した。御附家老とは、単純に言えば将軍家から派遣された藩主のお目付け役であり、尾張では成瀬隼人正(なるせはやとのかみ)家と竹腰兵部少輔(たけのこしひょうぶしょうゆう)家が知行高も大きく著名であった。藩主も遠慮しなければならない家柄からその権力は強大であり、藩内は自然、成瀬派と竹腰派に分かれた。このうち、より幕府に近い立場を取り続けたのが竹腰派であり、古くは幕府に反抗的だった7代藩主徳川宗春を隠居謹慎に追い込んだこともあった。幕末のこの時期、藩内は尊皇攘夷を唱える「金鉄組」と、佐幕的な立場を執る「ふいご党」とに分かれ、成瀬家は金鉄組、竹腰家はふいご党に近かった。

そもそも尾張徳川家は、藩祖である徳川義直の時代から代々勤皇の家風であり、一度も将軍を輩出できず徳川将軍家への反発もあったことから、14代藩主に就任した徳川慶勝も尊皇攘夷の立場をとり、特にペリー来航以来藩政の刷新を進める中で竹腰家を初めとするふいご党と対立することが多かった。大老井伊直弼の弾圧により慶勝が隠居すると、金鉄組は没落し、竹腰兵部少輔が新藩主茂徳のもとで藩政を取り仕切ったが、桜田門外の変以降竹腰兵部少輔は失脚、慶勝が隠居の身ながら藩政の前面に出、金鉄組とともに頻繁に上洛して政局にあたった。その間、茂徳が隠居して慶勝の子義宜が藩主となり、ふいご党は日の目を見なかった。

大政奉還後、1868(慶応4)年1月3日から5日にかけての鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北した。その一報が名古屋に届くと、京都に派兵するかどうかで、派兵を主張する金鉄組と派兵に慎重なふいご党との対立が深まった。このとき、京都にいた慶勝は、手勢を率いて上洛した監察吉田知行から、城代間宮正萬の言付けという形で尾張藩内の情勢を聞いた。

鳥羽・伏見の戦いで勝利した官軍は、同月4日に仁和寺宮嘉彰(小松宮彰仁)親王を征夷大将軍に任じ、同月7日に慶喜追討令を発出していたが、名古屋以東には幕府譜代の大名が多く、江戸に戻っていた慶喜の反撃も考えられたため、征討軍の通過に不安を感じていた[1]

同月15日、朝廷は慶勝を呼び出し、「自国の姦徒誅鋤ならびに勤皇の者誘引のため」、すなわち、交通の要衝にあたる尾張藩内の佐幕派勢力を粛清し、近隣の大名を朝廷側につくよう説得するため、帰国を命じた[2]

事件[編集]

慶勝は早くから勤皇派だったが、徳川御三家筆頭として幕府に配慮する立場にあり、また藩内に佐幕派がいるのは当然のことだった[3]。しかし勅命に反抗するわけにはいかず、苦悩の末佐幕派の弾圧を決意し、松平春嶽に対して「天朝とは君臣の義あり。幕府とは父子の親あり。国家艱難の際にあたりては、父子の親をすてても君臣の義をば立つべきなり。(…)」と語ったとされる[3]

慶勝は勅命を受けて京都を発ち、1月19日に尾張一宮で1泊した後、同月20日に名古屋城に帰った[4]。同日、家老渡辺新左衛門在綱は慶勝を名古屋城内で出迎えたところを逮捕、斬首された[4]。更に大御番頭・榊原勘解由正帰、大御番頭格・石川内蔵允照英ら13名が逮捕され、切腹ないし斬首となった[4]。殺害の際には、理由の説明などはなく、また14人の家族は住居・食禄を取り上げられた[4]

慶勝は、勅命があったことを秘し、尾張藩の内紛として事件を収拾し、藩士に口止めをした[4]。また「勤皇の者誘引」のため、同月29日に遠・駿・濃・信・甲・野の7国の諸藩以下に向背(朝廷側につくか否か)を確認している[5]

事件による処罰者[編集]

この事件による処罰者は以下のとおり。

  • 1月20日
斬首
御年寄列、二千五百石、内五百石足高  渡辺新左衛門在綱(49)
大御番頭、千五百石、内四百石足高  榊原勘解由正帰(59)
大御番頭格、千石  石川内蔵允照英(42)
  • 1月21日
斬首
御手筒頭格、御書物奉行、二百俵、内五十俵足高  冢田愨四郎有志(61)
錦織奉行格、表御番、二百五十俵、内百八十俵足高  安井長十郎秀親(52)
御使番格、表御番、百五十石  寺尾竹四郎基之(54)
寄合、二百石  馬場市右衛門信広(26)
  • 1月23日
斬首
二百石、御手筒頭格武野新五郎父、隠居  武野新左衛門信邦(77)
二百五十石、御馬廻組光太郎父、隠居  成瀬加兵衛正順(62)
家名断絶、御預け
中奥御小姓格  竹居新吉郎
大御番組  武野新五郎
御馬廻組  成瀬光太郎
  • 1月24日
永蟄居
鈴木嘉十郎父、隠居謹慎中  鈴木丹後守重到
成瀬比佐之丞父、隠居謹慎中  成瀬豊前守正植
減知、隠居、永蟄居
御年寄列  鈴木嘉十郎重熈
減知
      成瀬比佐之丞正心
  • 1月25日
斬首
千五百石、横井孫太郎父、隠居謹慎中、寄合  横井孫右衛門時足(44)
八百石、沢井溢也父、隠居、寄合  沢井小左衛門貞増(44)
四千石、御老列横井伊折介総領、謹慎中  横井右近時保(51)
御普請奉行格、二百俵、内百四十六俵足高  松原新七直富(41)
御先手物頭格表御番三百石、内五十石足高  林紋三郎信政(40)
蟄居
大寄合滝川亀松父、隠居  滝川伊勢守忠雄
平右衛門父、隠居  千村十郎左衛門仲冬
隠居、減知、永蟄居
三千石以上寄合  大道寺主水直良
隠居
五十俵、寄合  若井鍬吉
隠居、蟄居
御用人御側掛、寄合  松井市兵衛
御使番  進八郎
寄合  天野儀兵衛
武野新左衛門二男、中奥御小姓格  名倉鉞之介
御書院番頭格  加藤五郎左衛門
寿操院様御用役  本間太左衛門
錦織奉行格  本杉録兵衛
隠居謹慎、減知
横井孫右衛門嫡子、千石以上寄合  横井孫太郎時棟
沢井小左衛門嫡子、寄合  沢井溢也

事件名の由来[編集]

事件後、『朝風[6]におもひかけなし青松葉 吹き散らされて跡かたもなし』との狂歌が生まれ、この事件は「青松葉事件」と呼ばれるようになった[7]

事件名は、処刑された重臣のうちの筆頭格である御年寄列・渡辺新左衛門在綱の家が「青松葉」といわれていたことからとっているという考えが有力とされている。尾張藩士渡辺新左衛門家はもともと徳川家康の家来で「槍の半蔵」の異名を取った渡辺半蔵守綱天文11年(1542年) - 元和6年(1620年))の末裔であるが、その渡辺新左衛門家は鉄砲にも興味を持ち、その鋳造に用いる火を起こすのに青松葉を使ったとか、知行地から年貢を受け取るとき、青松葉を俵に挿して数えた、などという逸話が多いことから「青松葉の渡辺」といわれていたらしい。

発生原因諸説[編集]

  • ふいご党の幕府軍加勢説
江戸在府中の竹腰兵部少輔の呼びかけに応じて、ふいご党が幼君義宜を擁して江戸へ向かい旧幕府軍に加勢する、という動きがあったので処断されたという説。監察吉田知行城代間宮正萬の内報として慶勝に知らせた内容がこれである。
当時、慶勝は徳川慶喜辞官納地問題に際し、領地返上に反対の立場をとっていた。これに対して業を煮やした[要出典]岩倉具視が、尾張藩金鉄組の家臣から上の加勢説の密告を受け、当時「尾張に佐幕派はいない」と公言していた慶勝に対し、具体的に渡辺の名を挙げるなど指摘して旗幟を鮮明にするよう迫ったというもの[8]。ただし、辞官納地問題は完全に慶勝側の勝利であり、当の岩倉本人は佐幕派への譲歩を考え出すほど弱気になっている。
第一次長州征伐において慶勝は征長総督を務めた。戦争そのものは戦闘になることなく長州藩が謝罪して終わったものの、長州藩家老3人と藩士11人が切腹した。その後も政治判断により再び征長が行われ、幕府は2度にわたって首実検を行った。これが2度も辱めを与えたとして長州藩が恨みを持っていたとする説。なお本事件で斬首になったのも重臣3人と藩士11人で、偶然ながら一度目の征長で切腹した長州藩側と同じである。ただし、慶勝は第二次長州征伐には公然と反対しており、そもそも復権したばかりで三職に任命された者もいない長州藩がいかに朝廷を動かしたかは説明できない。
宝暦4年(1754年)から5年(1755年)にかけて、薩摩藩は美濃国木曽三川の治水工事を命ぜられたが、幕府側による再三の工事変更命令、地元名士の非協力などに苦しめられ、完成までに切腹51名、病死33名を出し、総指揮者の家老平田靱負も全責任を負って自決するという悲劇を生んだ(宝暦治水事件)。このとき、治水工事地域を藩領としていたのが尾張藩であったので、その恨みを持たれていたというもの。ただし、百年以上も前のことであり、当然ながら幕末の情勢には何の関係もない。
  • 徳川慶勝の保身説
尾張藩は御三家筆頭であり、名古屋城は幕府の西に対する防御施設であった為、いくら慶勝が朝廷よりの姿勢をとっても常に疑いの目で見られていた。よって新政府での自分の立場を守るために、あえて藩内の佐幕派を一掃する必要があったというもの。しかし、まだ旧幕府の敗北が固まった時期ではないため少々疑わしい点もある。とはいえ尾張徳川家は「王命に依って催さるる事」を藩訓にするほどの勤皇であり、江戸の徳川将軍家に対して長年の不満があったことも事実である。

影響[編集]

事件のことが天領及び譜代の多い東海道・中仙道の各藩に伝わり、また尾張藩誘引使が各藩に勤皇証書を出させたことは、各藩が日和見的立場から中立もしくは協力的立場へと変化するきっかけとなり、討幕軍が抵抗を受けずに江戸に到達することができた要因になったとみられている[9]

その後、朝廷は事件の行き過ぎを反省したとされ、明治3年に大赦を発令して渡辺新左衛門ら14人の名誉を回復し、家族に食禄を与えた[10]成瀬家、竹腰家はともに大名として認められた。これは尾張藩にとって思いもかけないことであった。特に竹腰家は、青松葉事件の対象であるふいご党の領袖であった。この矛盾した措置に、尾張藩は混乱した[要出典]

なお後年、慶勝による北海道八雲町開拓のため移住した士族たちは、京都にいた慶勝に尾張藩の情勢を告げた監察吉田知行をはじめ、この事件に関係した者も多い。

事件の研究[編集]

1908年頃、徳川義親は養子に入った尾張徳川家で徳川慶勝の日記のうち慶応3年-明治元年分が欠落していて焼却された跡があり、また父・松平春嶽の日記でも同期間が空白になっていることに気付き、当時を知る旧藩士に質問しても事情を教えてもらえず、『三世紀事略』などの尾張徳川家の文献資料(蓬左文庫所蔵)から事件の存在を知ったとされる[11]。このことは義親が徳川林政史研究所を設立する契機にもなり、義親は1976年に没するまで事件の研究をライフワークにしていた[11]。死去の前年、義親は、事件について水谷 (1971)は丹念に資料を収集しているが事件が発生した理由が解明されていないと評し、事件は藩内の内紛ではなく朝命を受けた政治的謀略事件だった、としている[10]

脚注[編集]

  1. ^ 中野 1977, pp. 44-45.
  2. ^ 中野 (1977, pp. 41,44-46)、『三世紀事略』(慶勝、義宜、茂徳の3藩主の公式記録)からの引用として。
  3. ^ a b 中野 1977, pp. 46-47.
  4. ^ a b c d e 中野 1977, p. 48.
  5. ^ 中野 (1977, p. 49)、『太政類典』「第1編 復古始末5」(太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第二百十巻・復古始末・復古始末五 - 国立公文書館デジタルアーカイブの記事徳川慶勝参遠駿濃信甲野七国諸藩以下ノ向背ヲ問フ - 国立公文書館デジタルアーカイブ)による。(編注)同書には、明治4年1月8日の出来事として「徳川慶勝其隣近諸藩ノ方嚮ヲ問ハント請フ之ヲ可ス」の記事があるが、同月15日の勅命については記載がない。
  6. ^ 朝風とは朝廷のことを指す(中野 1977, pp. 48-49)
  7. ^ 中野 1977, pp. 48-49.
  8. ^ 中野 1977, pp. 47-48.
  9. ^ 中野 1977, pp. 47,49.
  10. ^ a b 中野 1977, p. 49.
  11. ^ a b 中野 1977, pp. 40-41.

参考文献[編集]

  • 城山三郎『冬の派閥』新潮社<新潮文庫>、1985年11月、ISBN 4101133174
  • 徳永真一郎「青松葉事件」『幕末列藩流血録』収録、毎日新聞社<光文社文庫>
  • 水谷盛光『実説・名古屋城青松葉事件-尾張徳川家お家騒動』名古屋城振興協会、1981年、NDLJP:9538458Closed Access logo alternative.svg
  • 中野, 雅夫 『革命は芸術なり‐徳川義親の生涯』 学芸書林、1977年、40-49頁。全国書誌番号:78013751
  • 水谷盛光『尾張徳川家明治維新内紛秘史考説-青松葉事件資料集成』私家版、1971年、NDLJP:9536011Closed Access logo alternative.svg

関連項目[編集]

関連文献[編集]