スネル兄弟

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エドワルド・スネル(Edward Schnell)

スネル兄弟は、幕末期の商人。兄はジョン・ヘンリー・スネルJohn Henry Schnell、日本名:平松武兵衛、1843年? - 1871年?)。弟はエドワルド・スネルEdward Schnell1844年? - 没年不詳)。長らくオランダ出身とされていたが、プロイセン出身であること、彼らの父の仕事の都合によりオランダの植民地であったインドネシアで育ったこと、そして開港直後に横浜に来たことが判明した[1]

出身地も没年も不明と、謎の多い兄弟である。1860年万延元年)にプロシアが日本と通商条約を結ぶと、初代領事としてマックス・フォン・ブラントが赴任する。兄・ヘンリーはその下で書記官を務めた。弟・エドワルドはスイス総領事書記官であった。1864年元治元年)にエドワルドは横浜フランソワ・ペルゴと共にスイス時計の輸入商社シュネル&ペルゴを設立するが、武器販売を優先しようとしたことからペルゴと対立して商会は解散した。

1867年慶応3年)7月15日、スネル兄弟が馬車で江戸に戻ってきたところ、突然、沼田藩士三橋昌が馬の前に飛び出してきた。ヘンリーは馬首を廻らせて男に触れずに通り過ぎようとしたが、馬車が斜め前に来たところで三橋は刀を抜き、ヘンリーの隣に座っていたエドワルドに一撃を浴びせようとした。ヘンリーは拳銃で反撃したが、誤って下駄商幸次郎の雇人淺次郎を傷つけてしまった。事件から2日後の17日、 沼田藩は三橋昌を拘禁したことを書面をもって幕府に報告している(ヘンリー・スネル襲撃事件)。 その後、兄弟は書記官を辞め、新潟に移る。そしてそこで弟・エドワルドはエドワルド・スネル商会を設立する。会津藩家老・梶原平馬越後長岡藩家老・河井継之助を仲介にエドワルドからライフル銃780挺と2万ドル相当の弾薬を、河井も数百挺の元込め銃とガトリング砲を2挺購入している。

兄・ヘンリーは梶原の案内で会津にやってくると、軍事顧問を務めた。ヘンリーは会津にとどまらず米沢藩の軍事顧問を兼ね、奥羽越列藩同盟に大きな影響を与えることになる。会津藩主・松平容保はヘンリーに平松武兵衛の名を与え、屋敷も提供した。

戊辰戦争が起こると上海香港から武器弾薬を運び、奥羽越列藩同盟に送り込んだ。北越戦争新潟港が陥落したとき、エドワルドはまさに武器弾薬の陸揚げ中だったが、薩長軍に捕縛されるもののすぐに釈放されている。

兄・ヘンリーは明治維新後、1869年(明治2年)にカリフォルニア州に、日本人妻のジョウを含む[2]会津若松の人々約40人と共に移住した。サンフランシスコの北東にあるゴールド・ヒルに「若松コロニー」という名の開拓地を建設した。しかし、日本から持ってきた茶や桑などが育たず、1年ほどで若松コロニーの経営は行き詰まった。1871年4月、ヘンリーは金策をしてくると言い、日本へと向かったとされるが、彼がこの地へ戻ってくることは無かった。日本で秘密裏に暗殺されたとも言われる。

弟は新潟から東京へ移り、そこで商会を開いた。1882年(明治19年)頃まで日本国内で活動していたが、それ以降の消息は不明。

脚注[編集]

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関連項目[編集]

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