甘露寺受長
甘露寺受長 | |
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![]() (1913年) | |
生年月日 | 1880年10月5日 |
出生地 |
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没年月日 | 1977年6月20日(96歳没) |
死没地 |
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出身校 | 東京帝国大学法科 |
称号 | 伯爵 |
配偶者 | 甘露寺満子 |
子女 | 親房、績子 |
在任期間 | 1910年 - 1926年 |
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在任期間 | 1939年 - 1945年 |
在任期間 | 1959年 - 1972年 |
甘露寺 受長(かんろじ おさなが、1880年(明治23年)10月5日 - 1977年(昭和52年)6月20日)は日本の華族(伯爵)。東宮侍従・侍従次長、明治神宮宮司を務めた。
生涯[編集]
1880年(明治23年)、甘露寺義長の長男として生まれる。母は立子(子爵勘解由小路資生の四女)。学習院初等科、中等科、高等科を経て東京帝国大学法科卒業。法学博士。学習院初等科在学中より皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の御学友として、宮中出仕した。1910年(明治43年)に東宮侍従となる。結婚前の正田美智子にお妃教育の一つである宮中祭祀の講義を担当した。皇太子明仁親王との結婚の儀では宮中三殿に仕える掌典長として神酒を注ぐ大役を務めた。 1959年(昭和34年)に退任。晩年は明治神宮宮司となった。
家族・親族[編集]
妻は北白川宮能久親王の第一王女・満子女王[1]。長女の績子は男爵島津忠彦と結婚したものの後に離婚し、近藤荒樹と再婚した。近藤荒樹と先妻伊久子の子・荒一郎(受長と血縁関係はない)は池田勇人の長女・直子と結婚している。次男の甘露寺親房はエスビー食品の参与を務めた[1]。また池田の娘婿(直子の妹の夫)は大蔵官僚を経て防衛庁長官や外務大臣、自民党幹部などを歴任した池田行彦であり、池田の甥(池田の妹の子)は田中角栄元首相の養女と結婚しているため、田中の長女田中眞紀子と眞紀子の夫で防衛大臣などを歴任した田中直紀などの田中家は池田家・近藤家・甘露寺家・北白川家を通して天皇家と縁戚関係にある。また池田の三女はブリヂストン創業者石橋正二郎の甥・石橋慶一(石橋幹一郎などの従兄弟)と結婚しており、池田行彦と義兄弟の関係にある。また、田中家は石橋家の係累からも天皇家につながっている。
弟の甘露寺方房は東洋カーボン(現在の東海カーボン)の監査役を務め[1][2]、その妻は三菱財閥の3代目総帥・岩崎久弥の次女・澄子である[1][2][3][4]。故に甘露寺家は三菱の創業者一族・岩崎家と姻戚関係にある[1][3]。なお、岩崎久弥の従兄弟・岩崎小弥太(叔父である岩崎弥之助の長男)は薩摩藩の島津家から夫人を迎えており、島津家の係累からも甘露寺家は天皇家と縁戚関係にある。 また、方房の曾孫にあたる仁房は、プロ野球独立リーグの富山・兵庫を経て現在は和歌山ファイティングバーズでプレーをするプロ野球選手である[5]。
栄典[編集]
著作[編集]
- 『背広の天皇』東西文明社、1957年。
- 『天皇さま』日輪閣、1965年。講談社、1975年。
脚注・出典[編集]
参考文献[編集]
- 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』(初刷版)角川書店、1983年9月10日、56 - 63頁。
- 佐藤朝泰 『門閥 旧華族階層の復権』(第1刷版)〈立風書房〉、1987年4月10日。ISBN 4-651-70032-2。
- 神一行 『閨閥 - 新特権階級の系譜』(第1刷版)講談社〈講談社文庫〉、1993年10月。ISBN 4-06-185562X。
関連項目[編集]
先代: 甘露寺義長 |
甘露寺家第35代当主 1917年 - 1977年 |
次代: 甘露寺親房 |
日本の爵位 | ||
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先代: 甘露寺義長 |
伯爵 甘露寺家第2代 1917年 - 1947年 |
次代: (華族制度廃止) |