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一戸兵衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
一戸いちのへ 兵衛ひょうえ
一戸兵衛
生誕 1855年8月2日
安政2年6月20日
江戸幕府陸奥国津軽郡弘前城下田代町(現:青森県弘前市
死没 (1931-09-02) 1931年9月2日(76歳没)
大日本帝国の旗 日本東京府豊多摩郡渋谷町北谷(現:東京都渋谷区神南
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1877年 - 1919年
最終階級 陸軍大将
指揮 軍事参議官
教育総監
第1師団
第4師団
第17師団
戦闘 西南戦争
日清戦争
日露戦争
勲章 勲一等旭日桐花大綬章
功二級金鵄勲章
除隊後 学習院長など
墓所 多磨霊園
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一戸兵衛の始球式(1926年10月23日、神宮球場)
青森県護国神社「至誠純忠」碑

一戸 兵衛(いちのへ ひょうえ、1855年8月2日安政2年6月20日〉- 1931年昭和6年〉9月2日)は、日本陸軍軍人。官位は陸軍大将正二位勲一等功二級

教育総監軍事参議官第1第4第17師団長を歴任し、軍を退いてからは学習院院長・明治神宮宮司帝国在郷軍人会長等の公職に就く。

経歴

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弘前藩士一戸範貞の長男として生まれ、東奥義塾を経て1874年明治7年)10月には陸軍士官生徒として陸軍兵学寮に入り[1]1876年(明治9年)3月には陸軍少尉試補・歩兵第2連隊付を命ぜられる。1877年(明治10年)の西南戦争に出征し、負傷する。同年5月、少尉に進級する。1878年(明治11年)2月、歩兵第1連隊付に移り、1880年(明治13年)5月には中尉に進級し陸軍教導団小隊長を命ぜられる。1883年(明治16年)6月、大尉に進み歩兵第8連隊中隊長、1885年(明治18年)5月、歩兵第10旅団参謀1887年(明治20年)11月の歩兵第12連隊付を経て1888年(明治21年)2月、少佐に進級する。

1889年(明治22年)3月、広島鎮台歩兵第11連隊大隊長に移り、1894年(明治27年)6月から日清戦争に出征する。同年中に中佐に進級し第5師団副官を命ぜられる。1895年(明治28年)3月、歩兵第21連隊長に就任し、同年7月には戦役から帰還する。同年8月、再び第5師団副官に就き、11月には留守第4師団参謀長に移る。1896年(明治29年)10月の中部都督部参謀を経て1897年(明治30年)10月、陸軍大佐に任ぜられ近衛歩兵第4連隊長を拝命する。翌年、茨木惟昭中将が師団長を務める第6師団参謀長に就任。

1901年(明治34年)5月、陸軍少将に進級し歩兵第6旅団長を命ぜられる。1904年(明治37年)6月から日露戦争に出征し、この時の戦功から個人感状を受ける。1905年(明治38年)3月から第3軍参謀長に移り、1906年(明治39年)1月に帰還する。戦後、第1師団司令部付・歩兵第1旅団長を経て1907年(明治40年)11月には陸軍中将に任官され、第17師団長を親補される。1911年(明治44年)9月、第4師団長、1912年大正元年)12月には第1師団長に移る。1915年(大正4年)2月、軍事参議官に就任し枢機を預かり、同年8月には陸軍大将進級、同12月には陸軍三長官の一角教育総監に就任する。1919年(大正8年)8月、再び軍事参議官に就き、翌年6月後備役編入となる。

現役を退いてからは1920年(大正9年)5月から1922年(大正11年)11月まで学習院長を務め、1924年(大正13年)8月には明治神宮宮司に就任する。1926年(大正15年)2月から帝国在郷軍人会会長も兼ねた。後には紘弘会会長も務めた。同年10月23日の神宮球場竣功式(摂政宮閑院宮臨席)で始球式のピッチングを行った[2][3]

1931年(昭和6年)9月2日、胃潰瘍のため死去[4]。76歳没。墓所は多磨霊園

日清戦争出兵

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日清戦争では先遣隊として福島安正上原勇作とともに朝鮮半島に渡海する。航海中、大時化のため大隊は船酔いで皆死んだような状態であった。第5師団の元同僚で友人である上原に「こんな風で戦は出来るか」と散々悪口を言われると、一戸は奮起して起き上がり、顔面蒼白のまま軍刀を杖代わりにして艦内を巡視して部下を激励した。しかし船室に戻ると一気に嘔吐したと上原は述懐している。

朝鮮公使から上陸するなと要請されて京城への入城も拒否されるも、上原らと共謀して海軍陸戦隊と入れ替わることで入城することに成功する。京城までの道のりは険しく先遣隊は極度に消耗していた。しかし、陸戦隊よりもはるかに規模が大きかったこともあり、袁世凱は京城から退くことになる。

旅順での勇戦

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彼の武名を一躍世に知らしめたのが日露戦争での旅順攻囲戦である。歩兵第6旅団長として参加した彼は第一次総攻撃では盤竜山東西堡塁を攻撃し配下の大内守静歩兵第7連隊長が戦死する程の死闘となるも占領に成功。日本軍で唯一目標の占領に成功した。

続く第二次総攻撃でも無名の1保塁(日本側呼称「P保塁」)を占領する武功を挙げその功によりこの保塁は「一戸保塁」と呼ばれるようになった。

なお、一戸は上級司令部である第三軍司令部の作戦指導に対して当初は懐疑的だったそうである。しかし、奉天会戦後に第三軍参謀長となり、当時の作戦日誌を読み返した結果、当時の司令部の作戦指導は妥当であったと得心した、と戦後に述懐している[5]

栄典・授章・授賞

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位階
勲章等
受章年 略綬 勲章名 備考
1885年(明治18年)4月7日 勲五等双光旭日章[19]
1889年(明治22年)11月29日 大日本帝国憲法発布記念章[20]
1893年(明治26年)5月26日 勲四等瑞宝章[21]
1895年(明治28年)10月18日 功四級金鵄勲章[6][22]
1895年(明治28年)10月18日 旭日小綬章[6][22]
1895年(明治28年)11月18日 明治二十七八年従軍記章[6][23]
1899年(明治32年)5月9日 勲三等瑞宝章[24]
1905年(明治38年)11月30日 勲二等瑞宝章[25]
1906年(明治39年)4月1日 功二級金鵄勲章[17][26]
1906年(明治39年)4月1日 旭日重光章[17][26]
1906年(明治39年)4月1日 明治三十七八年従軍記章[17][26]
1913年(大正2年)11月28日 勲一等瑞宝章[17][27]
1915年(大正4年)11月7日 大正三四年従軍記章[28]
1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章(大正)[29]
1918年(大正7年)11月29日 旭日大綬章[17]
1920年(大正9年)11月1日 大正三年乃至九年戦役従軍記章[30]
1931年(昭和6年)9月2日 旭日桐花大綬章[18]
外国勲章佩用允許
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1918年(大正7年)5月23日 支那共和国 一等文虎勲章中国語版[31]

親族

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伝記

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関連項目

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脚注

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  1. 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、124頁。
  2. 『東京朝日新聞』 1926年10月24日付夕刊2面
  3. 大正15年~ | 球場史 | 明治神宮野球場
  4. “一戸大将逝く”. 朝日新聞 夕刊. 1931年9月3日.
  5. 歴史街道2011年11月号p49
  6. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 陸軍大将一戸兵衛特旨叙位ノ件 アジア歴史資料センター Ref.A11113509400 
  7. 『官報』第34号「叙任」1883年8月9日。
  8. 『官報』第2104号「叙任及辞令」1890年7月5日。
  9. 『官報』第3521号「叙任及辞令」1895年3月29日。
  10. 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
  11. 『官報』第5475号「叙任及辞令」1901年10月1日。
  12. 『官報』第7028号「叙任及辞令」1906年12月1日。
  13. 『官報』第7640号「叙任及辞令」1908年12月12日。
  14. 『官報』第8558号「叙任及辞令」1911年12月28日。
  15. 『官報』第917号「叙任及辞令」1915年8月21日。
  16. 『官報』第3858号「叙任及辞令」1925年7月3日。
  17. 1 2 3 4 5 6 故陸軍大将一戸兵衛位階追陞ノ件 アジア歴史資料センター Ref.A11114064400 
  18. 1 2 『官報』第1407号「叙任及辞令」1931年9月5日。
  19. 『官報』第571号「賞勲叙任」1885年5月29日。
  20. 『官報』第1938号「叙任及辞令」1889年12月12日。
  21. 『官報』第2974号「叙任及辞令」1893年5月31日。
  22. 1 2 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
  23. 『官報』第3900号・付録「辞令」1896年6月30日。
  24. 『官報』第4754号「叙任及辞令」1899年5月10日。
  25. 『官報』第6727号「叙任及辞令」1905年12月1日。
  26. 1 2 3 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
  27. 『官報』第402号「叙任及辞令」1913年11月29日。
  28. 『官報』第1127号「叙任及辞令」1916年5月6日。
  29. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  30. 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
  31. 『官報』第1743号「敍任及辞令」1918年5月27日。
  32. 常ノ花寛市プロフィール 岡山市中央図書館オフィシャルサイト

参考文献

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外部リンク

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軍職
先代
上原勇作
教育総監
第8代:1914年12月17日 - 1919年8月26日
次代
大谷喜久蔵
先代
木越安綱
第1師団長
第10代:1912年12月26日 - 1915年2月15日
次代
仙波太郎
先代
浅田信興
第4師団長
第10代:1911年9月6日 - 1912年12月26日
次代
大迫尚道
先代
(新設)
第17師団長
初代:1907年11月13日 - 1911年9月6日
次代
仙波太郎