宮中祭祀

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宮中祭祀
四方拝
歳旦祭
元始祭
先帝祭昭和天皇祭)
先帝以前三代の例祭
孝明天皇祭)
紀元節祭
祈年祭
天長祭〈天長節祭〉
春季皇霊祭・春季神殿祭
神武天皇祭皇霊殿御神楽
先后の例祭
香淳皇后祭)
節折大祓
先帝以前三代の例祭
明治天皇祭)
秋季皇霊祭・秋季神殿祭
神嘗祭
鎮魂祭
招魂祭
新嘗祭大嘗祭
賢所御神楽
先帝以前三代の例祭
大正天皇祭)
節折大祓
式年祭旬祭
宮中三殿皇居内)の空中写真

宮中祭祀(きゅうちゅうさいし)は、天皇国家国民の安寧と繁栄を祈ることを目的におこなう祭祀皇居宮中三殿で行われる祭祀には、天皇が自ら祭典を斎行し、御告文を奏上する大祭と、掌典長(掌典職)らが祭典を行い、天皇が御拝する小祭がある。

歴史[編集]

平安時代[編集]

病気疫病地震火災天災といった災い事はすべて祟りが起こすものと考えられ、祟りを起こすの存在をに例えたり、疫神として恐れたいた。[1]

陰陽道が平安貴族社会を基盤にして呪術的に展開されており、律令制神祇祭祀の中に、陰陽要素を含む祭祀が数多く存在し、[2]疫神祭鎮花祭風神祭大祓宮城四隅疫神祭防解火災祭螢惑星祭など様々な、祭祀が行われていたとされる。[3]京内を結界(聖なる領域と俗なる領域)し、京城四隅疫神祭、(都)、宮城四隅疫神祭(内裏)など、四角四境の祭祀を行い、世の安泰を願っていた。[4]

安土桃山時代[編集]

豊臣秀吉による陰陽師弾圧迫害が始まり、祈祷占い生業とする陰陽師地方に追いやり、一気に力を失っていき、当時陰陽寮にいた正式な陰陽師の数をはるかに超える陰陽師と名乗る人間が全国に流れた[5]戦国時代迫害で、筆頭の土御門家であっても陰陽道相伝法具などの多くを焼失した。陰陽道の最も重要な「大法」の泰山府君祭(たいざんふくんさい)の祭壇も喪失し、京都吉田神社から法具を借用して御所の地鎮祭を行った。その影響が大きくあり、宮中祭祀は神道色を色濃くしていった[6]

近代以前[編集]

中世の順徳天皇は、『禁秘抄』で「禁中作法先神事」と述べたように、天皇は肇国以来「神事」を最優先としている。四方拝などは江戸時代以前から歴代の天皇に引き継がれた行事である。

江戸時代中・後期には水戸学に基づいた尊王論の高まりがあり、新嘗祭など祭祀の再興が盛んになった。

明治期から戦前まで[編集]

今日行われている祭祀の多くは、明治維新期に大宝令貞観儀式延喜式などを継承して再編された物である。

天皇の「現人神」としての神格化や神仏分離などに合わせて、途絶えていた祭祀の復興や新たな祭祀の創出が行われた。1871年明治4年)には「神社は国家の宗祀」との太政官布告が出され、1908年には宮中祭祀について定めた皇室祭祀令皇室令の一つとして制定された。

宮城内の水田では稲作が行われ、昭和天皇以降は自ら田植えをするようになった[7]。収穫された米は供物として、祭祀の際に用いられている。

戦後[編集]

1945年(昭和20年)に日本が敗戦し、戦後の連合国軍司令部による統治の下で、宮内省宮内府宮内庁へと移行される。また、国政と切り離されていた旧皇室典範日本国憲法施行に合わせて廃止され、全面的に改定された皇室典範は一般法の一つとなった。

これに合わせて、皇室祭祀令など戦前の皇室令も、一旦全て廃止されたものの、宮内庁は内部通牒を出し、「新たに明文の規定がなくなった事項については、旧皇室令に準じて実施すること」を確認している。

現代での位置づけ[編集]

日本国憲法やその下の法律に宮中祭祀についての明文の規定はなく、現在の宮中祭祀も皇室祭祀令に基づいて行われている。また、これに係る予算も皇室の内廷費によって処理されている。このため、多くの憲法学者が、戦後の宮中祭祀を「天皇が私的に執り行う儀式」と解釈するようになった。

宮内庁の公式HPでは、宮中祭祀を「宮中のご公務など」の項で説明している[8]

また、内閣総理大臣はじめ三権の長が、大祭を中心に一部の祭祀に陪席していることが確認されている。佐藤栄作は首相在任期間中、春季皇霊祭・春季神殿祭、秋季皇霊祭・秋季神殿祭、新嘗祭にほとんど出席しており、NHKスペシャル『象徴天皇 素顔の記録』[9](2009年4月10日放送、天皇・皇后成婚50周年の記念番組)では、当時の麻生太郎首相ほか三権の長が、春季皇霊祭・春季神殿祭に出席している映像が放映された。

制度としての宮中祭祀が確立して以降の天皇では明治天皇大正天皇はあまり熱心ではなく、侍従らが代拝するのが主であった。一方で、貞明皇后昭和天皇香淳皇后は非常に熱心であった。

在位後期に侍従長であった入江相政は、昭和40年代から50年代に昭和天皇の高齢を理由とした祭祀の簡略化を推進したことがその日記から伺えるが、昭和天皇は1986年(昭和61年)まで新嘗祭の親祭を続けた。

上皇上皇后も祭祀にはきわめて熱心であり、諒闇(服喪中)や病気を除くとほとんどの宮中祭祀に代拝を立てず御自ら親臨していた。

第125代天皇(現 上皇)の即位の礼にて 大嘗祭にて
第125代天皇(現 上皇)の即位の礼にて
大嘗祭にて

祭祀に関しては、事前の潔斎と平安装束を着用する事に加え、長時間の正座が必要であり、生前の昭和天皇は祭祀が近づくと、正座してテレビを視聴するなど、意識的に長時間正座することを心がけていたという。上皇も新嘗祭の時節が近づくと、昭和天皇と同様に正座の練習をしていたといわれていたが、在位20年を経た2009年平成21年)以降は、高齢であった上皇の健康への配慮、負担軽減のため、祭祀の簡略化や調整が計画、実施されていた。

概要[編集]

主な祭儀[編集]

太字のものは大祭

  • 1月1日 四方拝(しほうはい)、歳旦祭(さいたんさい)
  • 1月3日 元始祭(げんしさい)
  • 1月4日 奏事始(そうじはじめ)
  • 1月7日 昭和天皇(しょうわてんのうさい)
  • 1月30日 孝明天皇例祭(こうめいてんのうれいさい)
  • 2月17日 祈年祭(きねんさい)
  • 2月23日 天長祭(てんちょうさい)
  • 春分の日 春季皇霊祭(しゅんきこうれいさい)、春季神殿祭(しゅんきしんでんさい)
  • 4月3日 神武天皇祭(じんむてんのうさい)、皇霊殿御神楽(こうれいでんみかぐら)
  • 6月30日 節折(よおり) 、大祓(おおはらい)
  • 7月30日 明治天皇例祭(めいじてんのうれいさい)
  • 秋分の日 秋季皇霊祭(しゅうきこうれいさい)、秋季神殿祭(しゅうきしんでんさい)
  • 10月17日 神嘗祭(かんなめさい)
  • 11月23日 新嘗祭(にいなめさい)
  • 12月中旬 賢所御神楽(かしこどころみかぐら)
  • 12月25日 大正天皇例祭(たいしょうてんのうれいさい)
  • 12月31日 節折(よおり)、大祓(おおはらい)
  • 毎月1、11、21日 旬祭(しゅんさい)
  • 毎日 日供の儀(にっくにのぎ) 毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)

皇室祭祀令との差異

  • 2月11日 紀元節(きげんせつさい)廃止
  • 天長節祭から天長祭へ名称変更

服装[編集]

参列者の服装は、洋装の場合モーニングコート及びアフタヌーンドレス、和装の場合は白襟紋付及びそれに準ずるものとされている。冬期は、外套を着用する事ができる。

参考文献[編集]

  • 高橋紘『象徴天皇』(岩波新書、1987年)
  • 原武史『昭和天皇』(岩波新書、2008年)
  • 八木秀次「宮中祭祀廃止論に反駁する」(「正論」、2008年6月5日付)[1]
  • NHKスペシャル「象徴天皇 素顔の記録」(NHK、2009年4月10日放送、のちDVD)
  • 小池康寿『日本人なら知っておきたい正しい家相の本』プレジデント社、2015年11月。ISBN 9784833421492

脚註[編集]

  1. ^ 小池康寿 『日本人なら知っておきたい正しい家相の本』 プレジデント社 2015年 36頁
  2. ^ 小池康寿 38頁
  3. ^ 小池 38頁
  4. ^ 小池 36頁
  5. ^ 小池 2015, p. 33.
  6. ^ 小池 2015, p. 34.
  7. ^ 溥傑自伝は、満州国皇帝溥儀と昭和天皇の会話の後から天皇が自ら田に入るようになったとしている。
  8. ^ 宮中祭祀 宮内庁ホームページ 皇室のご公務
  9. ^ NHKスペシャル 象徴天皇 素顔の記録 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス

関連項目[編集]

外部リンク[編集]