筑波藤麿

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藤麿王
筑波藤麿
筑波侯爵(1928~1947)
身位 皇族)→ 伯爵華族
敬称 殿下 → 閣下
出生 1905年2月25日
日本の旗 日本東京府東京市
死去 (1978-03-20) 1978年3月20日(73歳没)
配偶者 毛利喜代子
子女 筑波常治
筑波(松浦)登喜枝
筑波常遍(常秀)
筑波和俊
父親 山階宮菊麿王
母親 菊麿王妃常子
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筑波 藤麿(つくば ふじまろ、1905年明治38年)2月25日 - 1978年昭和53年)3月20日)は、日本の元皇族。旧名、藤麿王。山階宮菊麿王の第三王子。母は菊麿王妃常子。1946年(昭和21年)1月25日から死去するまで靖国神社第五代宮司だった。位階勲等は従三位勲一等侯爵

生涯[編集]

1925年大正14年)2月、皇族として貴族院議員に就任。同年3月23日勲一等旭日桐花大綬章受章。

皇族の息子はすべて軍人になるのが慣習だったが、藤麿は身体虚弱ゆえに皇族として初めて兵役を免除され、東京帝国大学国史学科で黒板勝美に師事。大学を卒業した後歴史研究を志し、東京代々木の自邸に筑波歴史研究室を作り、その年々の国史関係の文献目録を集めた『国史学界』を発行した。

大学卒業後まもなく、1928年(昭和3年)7月20日願により臣籍降下が認められ、筑波の家名を賜り[1]侯爵に叙せられる。1928年10月、4歳下の毛利喜代子と結婚。臣籍降下以後は侯爵議員として1947年(昭和22年)まで貴族院議員を務める。

戦時中の食糧難の時代、華族の多くが闇の食料で豪勢な食生活を送っていたのに対し、藤麿は潔癖すぎるほど国策に協力し、決して闇買いをせず、買出しにも行かず、配給と自宅の畑の野菜だけで切り詰めた食事を続けていた。そのことについて、長男の筑波常治は「同輩がすべて軍人になった中で、たった一人だけ違う道をすすんだかれの、コンプレックスのあらわれだった」[2]と述べている。

1946年(昭和21年)、靖国神社宮司に就任。宮司在任中に、いわゆるA級戦犯合祀が討議された。合祀はするものの、時期については慎重に判断すると決まり、結局在任中には合祀しなかった。

また1965年(昭和40年)7月、鎮霊社を建立し、「嘉永6年以降、幾多の戦争・事変に起因して、非命に斃れ、職域に殉じ、病に斃れ、自ら生命を断った命達にして、靖國神社に祀られざる諸々の命の御霊」一座と「西暦1853年以降、幾多の戦争・事変に関係して、死歿した諸外国人の御霊」一座とを併せ祀った(共に無名不特定の集合霊であって、本殿の「靖國大神」とは、全く異なる)。

これは藤麿の強い希望といわれているが、1974年(昭和49年)に左翼過激派北海道神宮放火事件を受けて攻撃防止用鉄柵・垣根で囲われ非公開になり[3]2006年10月12日に垣根の一部が撤去され一般公開されるようになった[4]

血縁[編集]

妻・喜代子(旧佐伯藩毛利家出身)との間に3人の子供をもうけた。長男の常治も歴史学者(科学史家)で早稲田大学教授となる。長女登喜枝は旧平戸藩主伯爵松浦陞の四男松浦擇に嫁ぐ。次男常遍(常秀)は勧修寺門跡。勧修寺門跡は藤麿の生家山階宮の初代晃親王もこの職に在った。4男和俊宮内庁掌典

脚注[編集]

  1. ^ 筑波常治『破約の時代』p.15に「華族として、あたらしく苗字をきめなければならぬ。何という姓がいいだろう? 依頼によって、東大文学部の教授が、あれこれ知恵をしぼったが、名案がうかばない。そのとき、父が思いついたのが『筑波』である。筑波山は、父が実家の庭から、朝夕はるかに眺めて親しんできた山だった。しかも、父の父親が、その頂上に気象観測所をたてたといういわれがある」とある。
  2. ^ 筑波常治『破約の時代』p.73(講談社、1959年)
  3. ^ #毎日新聞「靖国」取材班 2007 p.135
  4. ^ #毎日新聞「靖国」取材班 2007 p.139

参考文献[編集]

外部リンク[編集]