穂高健一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

穂高 健一(ほだか けんいち、1943年[1]10月12日 - )は、日本の小説家[1]ジャーナリスト写真家登山家。本名は非公開。

来歴[編集]

広島県大崎上島町出身[1]中央大学経済学部卒業[1]

日本ペンクラブ広報委員会・会報委員会、電子文藝館の各委員。

日本文藝協会、日本山岳会日本写真協会に所属。

読売・日本テレビ文化センター、朝日カルチャーセンター、目黒学園カルチャースクールなどで、「文学賞を目指す小説講座」、「エッセイ教室」、「フォト・エッセイ」の講師を務める。

東京都葛飾区在住。かつしか区民大学では、「区民記者講座」の講師も務める。[2]

作家・吉岡忍伊藤桂一小中陽太郎出久根達郎高橋千劔破新津きよみ、山名美和子、ジャーナリスト・轡田隆史、大原雄、吉澤一成、井出勉、相澤与剛、文藝評論家・清原康正らと交流を持つ。

人物[編集]

中学生時代は港町であったので、住いの近くに貸本屋があり、小遣いをほとんどつぎ込んだ。大衆小説(山手樹一郎柴田錬三郎富田常雄池波正太郎など)を片っ端から読んでおり、新刊が棚に並ぶのが待ち遠しく、それが作家になる土壌になった。

学生時代は登山一辺倒で、北アルプスに4シーズン登っていた。滑落、落石で、3度は死に目に遭う。「この場で死ぬんだな。寂しいな」という焦燥感に襲われた経験もしている。

妻とは中央大学の経済ゼミと、大妻女子大学との交流・合コンで知り合う。その後に交際を重ね、3年ほど経って結婚する。

社会人の最初の仕事は、鉄鋼を扱う商事会社だった。

28歳での大病をキッカケに、病床で小説の習作をはじめる。数年後、「講談社フェーマススクール」で小説養成講座を目にして、「伊藤桂一教室」に通いはじめる。同講座がおわっても、同人誌「グループ桂」を立ち上げて、伊藤にはつねに作品を出し続けた。

伊藤の小説批評は厳しく、「原稿用紙は何も書かなければ、一枚3円。100枚文字を書けばトイレットペーハー一つの交換にもならない」という酷評は強烈に印象に残っている。その言葉にも負けす、これまで這いあがってきた。

「10年毎日書けば作家になれる」それを信じたにもかかわらず、純文学にこだわっていたので、20年間も書きつづけても、文学賞の受賞ひとつもなかった。作家になるまで、家庭内ではずっと肩身が狭かった。

習作から25年経って、「第42回地上文学賞」で受賞した時は、とても嬉しかったそうだ。これで家族に顔向けができる。『作家』という肩書が使えると歓びもひとしおだった。そこから受賞癖がついて、1-2年に一度は文学賞の入賞が続いた。授賞式の晴れやかな薔薇のリボンはみな保管している」と話している。

純文学や現代小説を書いていたアマチュア作家の頃、取材申し込みは勇気がいった。「何に載るの?」という正面からの質問が最も胸に突き刺さったそうだ。同人誌だったので、その声も小さかったと話している。

作品に対するこだわり

プロの道に入り、ミステリーとか、歴史小説とか、巾を拡げる。「魅力的な人物を克明に描く」そうすれば、良い小説が生まれる。それをモットーにしている。

交友関係とのエピソード

日本ペンクラブの広報委員として、会長以下各委員などと交流が多くなり、私の住まいに近い「昭和が残る葛飾・立石」で、作家やジャーナリストを誘い、交流の輪を広げている。

指導する講座が終れば、受講生と酒を飲み、作品論、文学論を語り合っている。指導者と受講者の心の交流を楽しみにしている。

取材の姿勢

取材が大好き人間と自認している。「未知の人との出会いを大切にし、心の奥底を語ってもらう。それを作品に落とし込む。人間勉強をさせていただいている。」と語っている。

作風

「世に出るのが、仲間より遅かった。努力しても、努力しても、鳴かず飛ばず。病気は良くやっていた。『不良品亭主』と自笑していた。これをエッセイにして『元気に百歳』10年記念号に寄稿すると、名作だと言われた。」と語っているように、人間味あふれる作風が持ち味だ。取材を重ねた地道な作業で、真実を追い掛ける信念は、その経験から基づいていると思われる。

後進の指導

「自分の文章の癖、拙劣なカ所などは、独学ではなかなかわからない。文章の欠点は見極めがつかない。それが気づくまで何年もかかる。受講生には『最短で判らしめてあげる』。細かいところまで添削する。それが指導モットーだ」と話している。

歴史小説に移行した転機

「『歴史はとかく真実が隠される。それを掘り起こすのが作家のしごとだ』その考えのもとに、通説をくつがえす。ミステリー小説は小さな証拠から犯人の嘘を見破る。歴史小説もよく似ている。小さな疑問から、丹念に追っていけば、歴史上の大きな通説をくつがえすことができる。」と語っている。

現在取り組んでいるテーマ

福島原発事故による、『帰宅困難者たちの家族破壊』をテーマにしてしっかり書きたい。と話しており、折にふれ福島まで足を運んでいる。

作品に係るエピソード

かつて坂本龍馬を雑誌に連載していた。『龍馬が乗った、蒸気船のいろは丸(処女航海)が紀州藩の大型軍艦と衝突し、沈没した。「いろは丸事件」として長崎奉行で審議された。金塊と最新銃が積荷だと言い、龍馬、後藤象二郎、岩崎弥太郎が8万3000両取った。実質7000両支払われた。京都の学者を訪ねて、潜水調査資料を見せてもらった。沈没船には、船員の持物のガラクタだけだった。土佐藩は嘘と張ったり。まさに、龍馬の作られた虚像が剥がれたと思う。と同時に、岩崎弥太郎たちがそれを何に使ったか。およその見当がつく。』と語っている。

『千年杉』を投稿した最初のタイトルは「樹洞のこだま」だった。選考委員会で、平岩弓枝さんが『「千年杉」の方がいいわよ、それならば受賞作として、私も一票を入れます』と言われたそうだ。作者がそれを受けて、選者の満場一致になった。

『3.11 海は憎まず』では、岩手・宮城に17回行ったそうだ。被災地のひとたちに接し、「小説は心の奥底を描くもの、新聞と違い、小説は後世のひとたちにも読まれます」と理解を求めて、辛い心境を語ってもらったと語っている。 「雪降るガレキの側で、泣きながら話してくれた人も随分いた。警察署長も、学校長も、地方紙の記者も、瞬時の判断の難しさなども赤裸々に語ってくれた。必ず後世に伝えるぞ、という意気込みで執筆した。」と話している。

『二十歳の炎』の取材時に、新事実を発見した時の心境として、「明治政府は故意に芸州広島藩の歴史資料を封印していた。その上、広島は原爆で史料がなくなっていた。どこに取材に行っても、空しかった。もはや幕末の広島藩を描くのは絶望的だった。」と語っている。 藩校・学問所が修道学園(修道中学校・修道高等学校)に受け継がれており、原爆投下前に、学校疎開をしていた。同学園を訪ねて、頼山陽など膨大な資料を目にしたとき、やったぞ、と嬉しかった。そして、昭和53年に300部発刊された浅野家の『藝藩志』に巡り合った。より忠実に描けば、通説がくつがえせる、と強い確信を持ったそうだ。

(鎌倉図書館講演会後の単独インタビュー、『隅田 昭のエンタメーゼ』にて全文掲載)

国民の祝日「8月11日 山の日」協議会会員

学生時代から北アルプスを登り、ペンネームの名字を「穂高」とした。 日本ペンクラブの会員で、日本山岳会の会員でもある。 企業や山岳団体、個人などでつくる全国「山の日」協議会の会員で、 山の日制定を進めた超党派の国会議員連盟のメンバーから、山をテーマにした小説の執筆を勧められた。 昨年5月から長野、岐阜両県で精力的に取材している。

(2015年7月2日 信濃毎日新聞より)

著書[編集]

小説[編集]

※参照:日本ペンクラブ 電子文藝館 http://bungeikan.jp/domestic/detail/898/

※参照:日本ペンクラブ 電子文藝館 http://bungeikan.jp/domestic/detail/665/ [3]

  • 「山頂の激走」
  • 「姫沙羅」
  • 「獄の海」

※ 『穂高桂一ワールド』"http://www.hodaka-kenich.com/"の『小説家』に全文掲載

  • 「炎」

※参照:日本ペンクラブ 電子文藝館 http://bungeikan.jp/domestic/detail/943/

  • 「特攻船」

受賞[編集]

  • 『千年杉』(家の光社):第42回地上文学賞[2]
  • 『潮流』(北海道新聞社):第7回いさり火文学賞[2]
  • 「姫沙羅」:第4回 伊豆文学賞優秀賞
  • 「獄の海」:第13回 自由都市文学賞佳作
  • 「炎」:第11回 あだち文学賞受賞
  • 「特攻船」:第21回 北海道文学賞奨励賞
  • 「白い炎」:第10回 日本海文学賞奨励賞
  • 「転覆」:第8回 あだち文学賞受賞

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 日新報道より

外部リンク[編集]