メクレンブルク=シュヴェリーン

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メクレンブルク=シュヴェリーン
Mecklenburg-Schwerin
メクレンブルク 1352年 - 1918年 メクレンブルク=シュヴェリーン自由州
メクレンブルク=シュヴェリーンの国旗 メクレンブルク=シュヴェリーンの国章
(国旗) (国章)
メクレンブルク=シュヴェリーンの位置
ドイツ帝国内のメクレンブルク=シュヴェリーン
公用語 ドイツ語
首都 シュヴェリーン
メクレンブルク公(大公)
1348年 - 1379年 アルブレヒト2世
1897年 - 1918年フリードリヒ・フランツ4世
変遷
公爵領への昇格 1348年
ニーダーザクセン・クライスへの参加1500年
メクレンブルク=シュトレーリッツの分立1701年
大公国領への昇格1815年
君主制廃止1918年
自由州憲法制定1920年5月17日
メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州と合邦1934年1月1日

メクレンブルク=シュヴェリーン(Mecklenburg-Schwerin)は、北ドイツに存在した公国(1815年より大公国)。1348年、メクレンブルク侯アルブレヒト2世とその弟ヨハン1世が、ローマ王カール4世によって公爵に昇叙され、1352年に領土を分割したことにより成立した。

メクレンブルク=シュヴェリーンはバルト海沿岸のホルシュタインポンメルンに挟まれた位置にあり、神聖ローマ帝国内では比較的弱小な領邦であった。同国を治めたのはスラヴ人の血を引くメクレンブルク家の人々だった。

歴史[編集]

メクレンブルク=シュヴェリーン大公国[編集]

メクレンブルク家の始祖は、スラヴ人の部族連合オボドリト族の族長の一人ニクロト(1090年 - 1160年)という人物だった。ニクロトはヴェンド十字軍の中で勢力拡大を続けるザクセン族ハインリヒ獅子公に立ち向かい、命を落とした。ニクロトの遺児プリビスラフはハインリヒ獅子公に降伏し、1167年に父祖伝来の領地をドイツ王国の封土メクレンブルク侯領という形で相続した。

メクレンブルクはプリビスラフの子孫たちの間でいくつかに分割相続されていたが、ハインリヒ2世(1266年 - 1329年)は1312年までにシュタルガルトロストックの支配権を獲得、シュヴェリーンヴェルレ一帯を除くメクレンブルク侯領を再統合し、その領土を2人の息子、アルブレヒト2世ヨハン1世に受け継がせた。アルブレヒトとヨハンの兄弟が公爵位を獲得した後、1352年にヨハンはシュタルガルトの支配権を分与され、メクレンブルク=シュタルガルト公国を再創設した。一方のアルブレヒト2世はメクレンブルクの広大な西部地域を保持し、1358年にシュヴェリーン一帯を獲得した後はシュヴェリーンを公爵の居所とした。

1363年、アルブレヒト2世の息子でスウェーデン王マグヌス4世を母方の伯父に持つアルブレヒト3世は、スウェーデンに遠征し、翌1364年にスウェーデン王として戴冠した。しかしその25年後の1389年、アルブレヒト3世はデンマーク摂政マルグレーテに敗れて廃位、又甥デンマーク王エーリク7世に与えられ、メクレンブルク家のスウェーデン支配は1代で終わった。

1436年、最後のヴェルレ領主であったヴィルヘルムが男子を遺さずに死んだ。また、ヴィルヘルムの娘婿としてその遺領を相続したメクレンブルク=シュタルガルト公ウルリヒ2世も男子をもうけないまま1471年に没した。これにより、メクレンブルク=シュヴェリーン公ハインリヒ4世がメクレンブルク全域の唯一の支配者となった。

1520年、ハインリヒ4世の孫であるハインリヒ5世アルブレヒト7世の兄弟は、再び公国を分割相続し、弟のアルブレヒト7世がメクレンブルク=ギュストロウ公国を創設した。同公国は1610年、本家筋のメクレンブルク=シュヴェリーン公アドルフ・フリードリヒ1世ドイツ語版英語版の領土となった。1621年、アドルフ・フリードリヒ1世は弟のヨハン・アルブレヒト2世ドイツ語版英語版に再びギュストロウ公爵領を分与した。公爵兄弟は三十年戦争でデンマーク王クリスチャン4世を支持したために、1628年に皇帝軍の司令官アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインによって廃位された。しかしその3年後の1631年スウェーデン帝国軍の助けを得て兄弟は復位することが出来た。ヨハン・アルブレヒト2世の息子グスタフ・アドルフ1695年、男子の相続人を残さず亡くなったため、メクレンブルクはフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の下に再統合された。

しかしフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の叔父アドルフ・フリードリヒ2世は、甥に対してギュストローの相続権を主張し、激しい領土継承争いを引き起こした。1701年、両者は同じニーダーザクセン・クライスに属する帝国領邦の圧力を受け、相続をめぐる争いに決着をつけた。おおよそ中世のメクレンブルク=シュタルガルト公国の領域に相当するメクレンブルク=シュトレーリッツ公国が創設され、アドルフ・フリードリヒ2世に分与された。うち続く相続争いと領土分割は公爵家の支配権を弱め、メクレンブルクは帝国で最も立ち遅れた地域の一つになってしまった。

1815年ウィーン会議に際してフリードリヒ・フランツ1世は大公の称号を授けられた。1918年第1次世界大戦末のドイツ革命により君主制が廃止されると、大公国はメクレンブルク=シュヴェリーン自由州となった。

メクレンブルク=シュヴェリーン自由州[編集]

メクレンブルク=シュヴェリーン自由州章

君主制は廃止されたが、メクレンブルク=シュヴェリーンとメクレンブルク=シュトレーリッツは統一されることなくそれぞれ個別に自由州となり、独自の州憲法を制定して独自の州議会を有した。一方で、上級裁判所についてはロストックにあったメクレンブルク上級控訴裁判所を共有した。

メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州プロイセン自由州の県ほどの大きさしかない小州で、財源も乏しかったことからわずか数年で財政的に行き詰まり、1920年代後半にはメクレンブルク=シュヴェリーン自由州との合邦やプロイセン自由州からの支援取り付けが模索されたが、結論が出ないままであった。その後、ナチ党政権による強制的同一化の過程で国家代理官が置かれることになると、メクレンブルクの国家代理官となったフリードリヒ・ヒルデブラントが両自由州を合邦させることを決定し、1934年1月1日に約3世紀ぶりにメクレンブルク州ドイツ語版として統一された。

1937年に大ハンブルク法ドイツ語版が制定されると、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン地方にあった飛び地のドームホフ・ラッツェブルクとハマー、マンハーゲン、パンテン、ホルスト、ヴァルトスフェルデをハンブルク都市圏のヘルツォークトゥム・ラウエンブルク地区に譲り、代わりにリューベックからウテヒトとシャッティン (現在のリューダースドルフ地区) を移管された。また、シュターフェンハーゲンの飛び地であったツェッテミンもポンメルンに移管された。

第二次世界大戦が終結すると、メクレンブルクはソ連の占領下に置かれ、オーデル・ナイセ線以西のポンメルンと統合されてメクレンブルク=フォアポンメルン州となった。

州議会[編集]

君主制が廃された後、1919年2月21日に制憲議会が召集された。1920年5月17日にメクレンブルク=シュヴェリーン自由州憲法が制定され、1920年6月には州議会選挙が実施された。選挙制度は厳正拘束名簿式比例代表制を採用し、ドント方式で議席配分が行われた。

州政府[編集]

メクレンブルク=シュヴェリーン州政府は、州首相の下に外務省、内務省、財務省、法務省、教育・技術・宗教・医療・総務省、農業・国土・林業省の6省庁を有していた。内閣は州首相と大臣3人とされていたが、州首相・大臣ともは基本的に2省庁を所管する運用がされていたため、たいていは州首相と大臣2人で内閣を構成していた。また、外務省は州首相の所管とされた。ナチ党政権下では各州の自治権が縮小されたため、内閣は州首相と大臣1人となった。

メクレンブルク=シュヴェリーンの君主[編集]

1320年頃のメクレンブルク
1866年頃のメクレンブルク。シュヴェリーン大公国は桃色、シュトレーリッツ大公国は黄色で示されている

メクレンブルク=シュヴェリーン公(1701年 - 1815年)[編集]

メクレンブルク=シュヴェリーン大公(1815年 - 1918年)[編集]

メクレンブルク=シュヴェリーン大公国宰相(1850年 - 1918年)[編集]

  • ハンス・フォン・ビューロー(在任1850年 - 1858年)
  • ヤスパー・フォン・エールツェン(在任1858年 - 1869年)
  • へニンク・フォン・バッセヴィッツ(在任1869年 - 1885年)
  • アレクサンダー・フォン・ビューロー(在任1886年 - 1901年)
  • カール・フォン・バッセヴィッツ=レーヴェツォフ(在任1901年 - 1914年)
  • アドルフ・ランクフェルト(在任1914年 - 1918年)

メクレンブルク=シュヴェリーン自由州首相(1918年 - 1933年)[編集]