シーボルト事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

シーボルト事件(シーボルトじけん)は、江戸時代後期の1828年に起きた事件。1825年には異国船打払令が出されており、およそ外交は緊張状態にあった。

概要[編集]

文政11年(1828年)9月、オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方書物奉行高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死した(その後死罪判決を受け、景保の子供らも遠島となった[1])。シーボルトは文政12年(1829年)に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた。当時、この事件は間宮林蔵の密告によるものと信じられた。

樺太東岸の資料を求めていた景保にシーボルトがクルーゼンシュテルンの『世界周航記』などを贈り、その代わりに、景保が伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮図をシーボルトに贈った。この縮図をシーボルトが国外に持ち出そうとした。

シーボルトは、江戸で幕府天文方高橋景保のもとに保管されていた伊能図を見せられた。地図は禁制品扱いであったが、高橋は学者らしい単純さでシーボルトのために写しを同意した。後のシーボルト事件はこの禁制の地図の写しを持ち出したことにあった。

シーボルトらが1826年7月に江戸参府から出島に帰還し、この旅行で1000点以上の日本名・漢字名植物標本を蒐集できたが、日本の北方の植物にも興味をもち、間宮林蔵が蝦夷地で採取した押し葉標本を手に入れたく、間宮宛に丁重な手紙と布地を送ったが、間宮は外国人との私的な贈答は国禁に触れると考え、開封せずに上司に提出した。

高橋景保と間宮林蔵のあいだには確執があったといわれる[2]。間宮がシーボルトから受け取った手紙の内容が発端となり、多くの日本人と高橋景保は捕らえられ取調べを受けることになり、日本地図の返還を拒否したため[1]シーボルト自身も処分の決定を待つことになってしまった[3]

長崎市鳴滝にあるシーボルト記念館の研究報告書である『鳴滝紀要』第六号(1996年)発表の梶輝行の論文「蘭船コルネリウス・ハウトマン号とシーボルト事件」で、これまで通説だった暴風雨で座礁した船中から地図等のご禁制の品々が発見されたという説が後日の創作であることが判明した。コルネリウス・デ・ハウトマン号は1828年10月に出航を予定していたが、同年9月17日夜半から18日未明に西日本を襲った猛烈な台風(いわゆるシーボルト台風)で座礁し、同年12月まで離礁できなかったのである。従来の説は壊滅的な被害を受けて座礁した船の中から、禁制品の地図類や三つ葉葵の紋付帷子などが見つかっていたことになっていたが、座礁した船の臨検もなくそのままにされ、船に積み込まれていたのは船体の安定を保つためのバラスト用の銅500ピコルだけだった。

江戸で高橋景保が逮捕され、これを受けてシーボルトへ高橋より送った「日本地図其の他、シーボルト所持致し居り候」ため、シーボルトの所持する日本地図を押収する内命が長崎奉行所にもたらされ、出島のシーボルトは訊問と家宅捜索をうけた。軟禁状態のシーボルトは研究と植物の乾燥や動物の剥製つくりをしてすごしたが、今までの収集品が無事オランダやバタヴィアに搬出できるかどうか心配であり、コレクションの中には個人的に蒐集していた標本や絵画も所有しており、これが彼一人の自由には出来なくなっていた。

シーボルトは訊問で科学的な目的のためだけに情報を求めたと主張し、捕まった多くの日本人の友人を助けようと彼らに罪を負わせることを拒絶した。自ら日本の民になり、残りの人生を日本に留まることで人質となることさえ申し出た[4]。高橋は1829年3月獄死し、自分の身も危ぶまれたが、シーボルトの陳述は多くの友人と彼を手伝った人々を救ったといわれている。しかし、日本の地図を持ち出すことは禁制だと彼自身知っていたはずであり、日本近海の海底の深度測定など、スパイの疑惑が晴れたわけではない[5]

シーボルトは高野長英から、医師以外の肩書は何か、と問われて、「コンテンス・ポンテー・ヲルテ」とラテン語で答えたと渡辺崋山が書いているが、これは「コレスポンデントヴェルデ」であり、内情探索官と訳すべきものである[6]

なお、シーボルトは安政5年(1858年)の日蘭修好通商条約の締結により追放が解除となり、翌安政6年(1859年)に長男アレクサンダーを伴って再来日し、幕府の外交顧問となっている。

その他[編集]

2度目の来日中の文久2年(1862年)にも、秘書役であった三瀬諸淵が、シーボルトのために日本の歴史書を翻訳した罪で捕らえられるという事件が起きている。一方、シーボルトの孫娘にあたる三瀬諸淵の妻楠本高子の手記によると、原因は他のところにあったとされている[7]

参考文献[編集]

  • 秦新二『文政十一年のスパイ合戦 検証・謎のシーボルト事件
文藝春秋、1992年) ISBN 4-16-346270-8
文春文庫、1996年) ISBN 4-16-735302-4
(双葉文庫、2007年) ISBN 978-4-575-65872-9

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b シーボルトの生涯とその業績関係年表1(1796‐1832年) 石山禎一; 宮崎克則 西南学院大学 国際文化論集 第26巻 第1号 155-228頁 2011年9月
  2. ^ 秦新二『文政十一年のスパイ合戦 検証・謎のシーボルト事件』(文春文庫、1996年) 第一部 第七章 北方の男たち 171頁
  3. ^ 秦新二『文政十一年のスパイ合戦 検証・謎のシーボルト事件』(文春文庫、1996年) 第二部 第十章 シーボルト事件 228 - 239頁
  4. ^ 訊問と帰化願いの始末は秦新二『文政十一年のスパイ合戦 検証・謎のシーボルト事件』(文春文庫、1996年) 第2部 第十章 シーボルト事件 239 - 257頁 を参照。
  5. ^ 秦新二『文政十一年のスパイ合戦 検証・謎のシーボルト事件』(文春文庫、1996年) 第二部 第八章 嵐の前の静けさ 199 - 202頁、また第十章 シーボルト事件 258 - 262頁 シーボルトからバタビア蘭印総督ファン・デル・カベルレンへの手紙内容。
  6. ^ 秦新二『文政十一年のスパイ合戦 検証・謎のシーボルト事件』(文春文庫、1996年) 第二部 第八章 嵐の前の静けさ 203頁
  7. ^ 本人の手記[リンク切れ]、シーボルト記念館ウェブサイト・長崎市、2008年8月30日閲覧。