保科正益

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
 
保科 正益
時代 江戸時代後期
生誕 天保4年2月2日1833年3月22日
死没 明治21年(1888年1月23日
改名 咸六郎(幼名)、正益
戒名 高岳院殿徳雲雅馨大居士
墓所 東京都港区青山墓地
官位 従五位下、弾正忠、子爵
幕府 江戸幕府 若年寄
上総飯野藩
氏族 保科氏
父母 父:保科正丕、母:民(重枝)
正室:伊達宗紀の娘・節子
長男、楠田咸次郎保科正昭、横田某、
娘(岩崎久弥室)、娘(佐野常羽室)、
娘(沢田鋓義室)

保科 正益(ほしな まさあり)は、上総飯野藩の第10代(最後)の藩主。江戸幕府幕末若年寄

経歴[編集]

天保4年(1833年)2月2日、第9代藩主・保科正丕の三男として江戸で生まれる。はじめ病弱なために正丕は幕府に出生届を出さなかったが、長男と次男が相次いで早世したため、天保7年(1836年)に出生届を出している。このため、弘化4年(1847年)に世子となり、嘉永元年(1848年)に正丕が死去したため家督を継いだ。嘉永3年(1850年)12月、従五位下、弾正忠に叙任される。大坂加番や日光祭礼奉行など諸役を歴任し、嘉永6年(1853年)のペリー来航では浦賀の警備を務めた。

文久3年(1863年)、大坂定番に任じられる。慶応2年(1866年)5月には若年寄に任じられ、同年からの第2次長州征伐では石州口における幕府軍を指揮した。慶応3年(1867年)1月、江戸へ戻り、7月に若年寄を辞任する。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、新政府に恭順するためと、前将軍・徳川慶喜の助命を求めて入京しようとしたが、親戚に当たる会津藩主・松平容保が徹底抗戦の構えを取ったため、4月から連座によって京都北野で謹慎処分となった。これに対して正益は幕府側に与した家臣を処刑したため、6月19日に罪を許された。

明治2年(1869年)6月の版籍奉還で飯野藩知事に任じられる。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免職された。のちに子爵に列せられている。明治21年(1888年)1月23日に死去した。享年56。

家族[編集]

妻は伊達宗紀の七女・節子[1]。長男が早世し次男・咸次郎楠田英世の長男・申八郎の婿養子となったため三男・正昭(幼名・盛之助)が嗣子となる[1][2][3][4][5]。正昭は北白川宮能久親王の第3王女を娶り[1]貴族院議員となった[1]。長女の寧子は三菱財閥の3代目総帥・岩崎久弥[1][2][3][6][7]、二女の尚子は海軍軍人の佐野常羽[1][2][3]、三女の建子は、箱根底倉温泉旅館「蔦屋(つたや)」にそれぞれ嫁いだ[1][8]。長女・寧子の長女はエリザベス・サンダースホームの創立者・沢田美喜[9][10][11]。次男・咸次郎の次女は元三菱銀行頭取の田実渉に嫁ぎ[5][6]、蔦屋の養女(岩崎小弥太の庶子のため、正益とは血縁自体はない)は元三菱重工業社長の牧田與一郎に嫁いでいる。民族主義者牧田吉明はその四男である。

参考文献[編集]

脚注・出典[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d e f g 『平成新修旧華族家系大成 下巻』473頁。
  2. ^ a b c 『人事興信録 第2版』甲207頁。
  3. ^ a b c 『人事興信録 第3版 皇室の部、皇族の部、い(ゐ)之部 - の之部』ほ6頁。
  4. ^ 『人事興信録 第6版』く56頁。
  5. ^ a b 『平成新修旧華族家系大成 上巻』541頁。
  6. ^ a b 『門閥』262-263頁、270頁。
  7. ^ 『閨閥』400頁。
  8. ^ 蔦屋を当時経営していた沢田家は、戊辰戦争の戦後処理のため自刃を命じられた家老・萱野権兵衛の介錯を正益から命じられた家臣・沢田武司(武、武治とも)の一族で、建子の夫は武司の息子(底倉蔦屋と沢田武治)。
  9. ^ 『門閥』 262-263頁、273頁。
  10. ^ 『黒い肌と白い心』333頁。
  11. ^ 『閨閥』403頁。