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尾高朝雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
尾高 朝雄
(おだか ともお)
1956年
人物情報
生誕 (1899-01-28) 1899年1月28日
大韓帝国
慶尚南道釜山市
死没 1956年5月15日(1956-05-15)(57歳没)
日本の旗 日本
東京都文京区
ペニシリン・ショック
居住 日本の旗 日本
東京都文京区
出身校 東京帝国大学
京都帝国大学
両親 父:尾高次郎(銀行家)
母:尾高文子(渋沢栄一の娘)
子供 久留都茂子(東京女学館短期大学学長)
学問
研究分野 法哲学
研究機関 京城帝国大学
東京大学
指導教員 田邊元
西田幾多郎
博士課程指導学生 井上茂
小林直樹[注釈 1]
碧海純一[注釈 1]
学位 法学博士(東京帝国大学・1936年)
称号 東京大学名誉教授
日本学士院会員
特筆すべき概念 ノモス主権
主要な作品 『国家構造論』
『実定法秩序論』
『法の窮極にあるもの』
『法哲学』
『国民主権と天皇制』
影響を受けた人物 ハンス・ケルゼン
エトムント・フッサール
学会 日本法哲学会
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尾高 朝雄(おだか ともお、1899年1月28日 - 1956年5月15日)は、日本法学者法哲学)。日本学士院会員。第3期日本学術会議副会長。

経歴

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漢学者銀行家である尾高次郎の三男として生まれる。大韓帝国釜山市生まれ[1]1916年東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業した後、第一高等学校東京帝国大学法学部卒業。初め外交官を志すも、親の反対により諦め、京都帝国大学文学部に進学し、文学部卒業後は大学院哲学を研究する。京都帝国大学では西田幾多郎米田庄太郎に師事した。

1927年、兄・豊作と共に、東京社会科学研究所を設立し、所長に大塚金之助を、常務理事に田辺寿利を、所員に杉本栄一高島善哉を招くなどした[2]

その後、法哲学研究者として京城帝国大学法文学部教授や東京大学法学部教授を歴任する。京城帝国大学助教授であった1928年11月13日からの約3年半の間、政府の奨学金で欧米に留学、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカと在留した。特にウィーンではハンス・ケルゼンの下で国家学を、フライブルクではエトムント・フッサールの下で現象学を学んでいる。また、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスが開いていたゼミナール(研究会)にも参加した。アルフレッド・シュッツなどとの交流を持つ。

当時、穂積重遠牧野英一田中耕太郎など法哲学法理学)に精通した研究者はいたが、いずれも実定法研究者であり、法学部出身者で法哲学を専攻した者は極めて少なかった。そのため、尾高は日本の最初の本格的な法哲学専攻者と称される[3]

多くの日本人が師事したハンス・ケルゼンとの親交は特に厚く、ケルゼンは尾高を最も高く評価していた[4]。尾高はケルゼンがナチスによりドイツを追われた際には、同僚かつ同じくケルゼンにも師事した憲法学者の清宮四郎と共に、京城帝国大学に招聘しようと運動を試みたが、功を奏しなかった[5]

1947年に『国民主権と天皇制』に掲載された論文「国民主権と天皇制」において、ノモス主権論を提唱し、宮沢俊義と論争した(尾高・宮沢論争)が、ノモス主権論は憲法解釈の領域においては支持を得なかった。

1950年(昭和25年)、日本学士院(当時の第一部人文科学部門)会員になる。同年12月13日には、第一部の新会員一同が昭和天皇から皇居に招かれ午餐を陪食した[6]

1952年(昭和27年)には、パリで開催された第7回ユネスコ総会に日本政府代表として出席している。

1956年に、歯の治療中にペニシリン注射でショック症状を起こし、都立駒込病院に入院後に死亡した。尾高の死がきっかけとなり、ペニシリンによる薬害はペニシリンショックとして社会問題化し、薬のショック死が認識されることになる。日本の薬害問題の最初期のものとしても有名である。墓所は文京区護国寺

年譜

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家系

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著作

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尾高の著作で代表的なのは『国家構造論』[8]および『実定法秩序論』[9]で、特に『国家構造論』は清宮四郎に「世界的業績」と言わしめた[10]
『国家構造論』は法の立体構造、法の効力及びその根拠など法の本質的な分析を行うことに重点を置き、これに対して『実定法秩序論』はそれらの問題を総合化、体系化することに重点を置いている[4]
※以下は新版刊行

論文

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門下生

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脚注

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注釈

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  1. ^ a b 厳密には特別研究生として在籍。
  2. ^ 再版 全国書誌番号:55008444 doi:10.11501/1281297、新版1955年 NCID BN0173545Xオンデマンド版2012年 ISBN 4-641-90778-1
  3. ^ 第3版1984年 ISBN 4-641-02504-5、オンデマンド版2013年ISBN 4-641-91096-0
  4. ^ 新版1971年
  5. ^ a b 尾高 (1954)を底本とする
  6. ^ 尾高 (1947a)(新版1965年)・尾高 (1949a)尾高 (1948)を底本とする
  7. ^ 尾高 (1952)ほか所収
  8. ^ 尾高 (1942)(第3刷1969年)を底本とする
  9. ^ 尾高 (1949c)の改題
  10. ^ 『法思想史序説』(弘文堂1950年)の改題

出典

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  1. ^ 金昌禄「尾高朝雄と植民地朝鮮」『帝国と高等教育』第42巻、国際日本文化研究センター、2013年3月29日、61-71頁、doi:10.15055/00002278 
  2. ^ 高橋彦博「東京社会科学研究所の社会実験」法政大学
  3. ^ 小林直樹『尾高朝雄先生と若き学徒たち』ジュリスト960号2p
  4. ^ a b 清宮四郎『尾高朝潮教授の死を悼む』ジュリスト324号12p
  5. ^ 鵜飼信成編『ハンス・ケルゼン』159p
  6. ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十一』東京書籍、2017年3月30日、163頁。ISBN 978-4-487-74411-4 
  7. ^ 『昭和十一年度版 帝国人事大鑑』帝国日日通信社、1935年、補遺18頁。
  8. ^ 尾高 1936.
  9. ^ 尾高 1942.
  10. ^ 石川健治『統治のヒストリーク』26p奥平編「危機の憲法学」収録